ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

あたってるかな??

2006-03-27 23:25:25 | 着物・古布

かなり古いちりめんです。180センチありますが、
あちこち傷みがあり、色あせ、汚れ、破れ、糸穴、ひけ・・・と
もう傷みのフル・コース、それでも図柄は珍しく、2セット(二柄)くらいは
なんとか取れそうです。額絵にしたい図柄です。

この図柄の部分アップです。立っているほうと、下は座っているほう。






もう一枚、これはそれぞれ二人の近くに落ちている「幔幕」のアップ。




これはたぶん「曾我兄弟の仇討ち」のクライマックスの一場面、
だと思うのですが、お芝居好きのかた、いかがでしょう。
そう思った理由は「屋内での戦いである様子」「落ちている幔幕の笹竜胆紋」
「隠れている武者が女物のきものをかぶっている」の三点。
これがあたっているとすれば、たっているオトコは「曾我兄弟の弟のほう・五郎」
ということになりますが、なんかちょっとイメージが・・。
最初パッと見たとき「夜盗」か「えみし」か・・なんて思っちゃいました。
やっぱヒーローはイケメンでないと・・。
なので、実は違うかな?と思ったりもしていますが、とりあえず、
「曾我兄弟」の仇討ちは「日本三大仇討ち」として名高く、
特に「歌舞伎」では、さまざまな演目にこの「曾我兄弟」が顔を出します。
歌舞伎の内容についてはまたの機会ということで、とりあえずは
この「曾我兄弟」の仇討ちについて。
大まかにお話いたしますと、

時は鎌倉時代、当時の伊豆半島東海岸あたりを領地としていた伊東祐親と、
甥の工藤祐経の争い(身内同士の領地争いということです)が発端。
祐経は祐親を恨んで、狩のときを狙って「叔父暗殺」を計画しますが、
このとき祐親ではなく祐親の長男が殺され、残された長男の嫁さんが、
二人の息子を連れて再婚。この二人の息子が後の「曾我十郎・五郎兄弟」です。
艱難辛苦を乗越え、17年後に二人は「父親の仇、工藤祐経」を討ち果たします。
この仇討ちのクライマックスは、源頼朝が催した狩の最後の晩。
工藤祐経は、当時頼朝に仕えており、その夜は酒によって爆睡・・。
そこを狙って兄弟は押し入り、無事仇をとった・・というわけですが、
この図柄の場面、これは「仇討ち直後」の場面と思われます。

無事仇をとったものの、場所が場所ですからあっという間に
家臣たちに取り囲まれ、兄はそこで仁田忠常という者に討たれ、
弟は御所五郎丸という者に捕えられます。このとき五郎丸が女装していた、
或いは女物の着物をかぶって曾我五郎の眼をくらまし、捕縛した、
といわれているわけです。つまりこの絵は、女物の着物をかぶった五郎丸が、
打ち払いながら逃げようとする五郎を、まさに捕えんとする場面。
ではないかというのが、とんぼの推理・・・。

実は、この仇討ちで「兄弟を倒した、或いは捕まえた者」の名前を
ちゃんと記憶しておりませんで、例によって「書く前の付け焼刃お勉強」を
致しました。そこで、この「五郎丸が弟を着物で欺いて捕まえた」という話と
もうひとつ、実は五郎丸は「いーひと」だという説があることを知りました。
兄弟が仇討ちのため、工藤祐経の寝所を探して忍び込んだとき、
この「五郎丸」とでくわしてしまった・・二人は「畠山重忠の家臣である」と
身分を偽り、祐経の寝所をたずねます。このとき御所五郎丸は、
二人が曾我兄弟であることを見破るのですが、仇討ちを察知し、
だまされたふりをし「寝所」を教え、二人を助けます。
おかげで無事、本懐を遂げるわけですが、兄が討たれ、弟五郎も、
もはやこれまで、と討ってでようとします。そこに突然女の着物を着た者が現れ、
油断した五郎は捕まってしまいます。それが五郎丸だったわけですが、
五郎丸は「死ぬだけが道ではない、摑まって将軍に積年の恨みを述べるがよい」と
教えます。五郎は五郎丸に感謝し、捕えられ、将軍の前に引き出されて、
なぜ仇討ちに及んだかを訴えることができました。
将軍頼朝は、話を聞いて一時は助命も考えますが、結局は祐経の身内に請われて
五郎を下げ渡し、五郎は斬首された・・というわけです。

今回「付け焼刃のお勉強」で初めて知ったのですが、
とんぼの住む横浜のいまや有名な「みなとみらい地区」と、
JRをはさんで反対側に「御所山」というところがあります。
御所五郎丸は、昔このあたりの領主だったという言い伝えがあり、
御所山の名前もそれに由来するのだとか・・・。地元には「五郎丸会」という
史跡保存会もあるそうで、五郎丸の墓所と伝えられるところもあるとか。
そういう状態ですから、当然「五郎丸さん・いいひと」伝説があるわけです。
お芝居などでは、女の着物を着て五郎を油断させて捕まえた、
ずるいヤツ、という描き方をされる場合も多いようですが、
何しろその存在の真偽もさだかではありません。
畠山重忠については、近いところに「碑」もあり、「重忠最中」ってのも
ありまして、とんぼも小さい頃から知っていたんですが、
五郎丸さんは知りませんでした。

オークションで落札した、古ぼけた一枚の布から、
思いがけず地元の歴史や伝説を学ぶこととなりました。
遠くからやってきた古布さん、ありがとう・・です。

ところで「やだ~とんぼったら、これは曾我兄弟じゃないわよ~」ということが
ありましたら、ぜひお知らせください。ほんとのことがしりたいので・・。





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5 コメント

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曽我の五郎時致(ときむね) (うまこ)
2006-03-28 08:38:41
今、長唄でやっている最中なので、

一応調べたんですが、

誰が何して、という人間関係が苦手なので、

複雑すぎて、覚えられません。

とんぼさんの説明で、ちょっとわかったような気がしました。

曽我の五郎さんは、女性に人気らしいので、

女装した人に捕まるというのが、

ちょっと筋書きとして面白い、って感じですね。
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昔って・・・ (とんぼ)
2006-03-28 09:58:11
うまこ様

複雑なんですよね。おまけに名前が難しい・・。

曾我という苗字はどっからきたのかというと、母親が子連れ再婚した相手の苗字・・。

じゃ新しい父親の立場ってとどーよ、と思うし・・。二人とも恋人がいましたが、調べるともう

わけわからなくなります。

仏門に入ったことは確かなようですが・・。

長唄、難しいですか?私がやったら、

息が続かないような気がするんです。

ヒーハーいいながらじゃ

サマになりませんよねぇ・・。













返信する
土地の歴史 (蜆子)
2006-03-28 13:19:07
トンボさんのところ、坂東武者の産地ですもんね。ほりおこせば色々な歴史ありましょうね。

当地、その時代とすれば木曾義仲の倶利伽羅合戦でしょうか?実は私の住んでおりますところ、現代では地名なくなりましたが、巴町、巴御前が馬をつないだという駒どめの松なんてあります。

昨年、知り合いのかた、謡曲のふるさとを訪ねてという本を上梓なさったのですが、その取材にいらして、倶利伽羅山を案内しました。矢ふすまになったのはこれくらいの距離とか、自然は変わらず、昔をそのまま偲びました。巴塚、葵塚など木々にうもれているなど、気にもしてなかった歴史が自然の中から立ち上ってきました。

とんぼさんの話から郷土史を思いました。



それにしても昔の着物って、教科書みたいな役割を果たしたり、歌舞伎のちらしの役割であったり、本当に幅が広かったと思いますね。
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おっしゃるとおりですね (とんぼ)
2006-03-28 14:33:00
蜆子様

私がすんでいるところも「古戦場」です。畠山重忠が鎌倉へ行くために通った道は今も「鎌倉みち」と呼ばれています。教科書に書かれている歴史は、本当にかいつまんだことなのだと、そんな風に思いました。

昔の柄は、ただきれいとか、華やかとかだけでないところがすごいと思います。
返信する
長唄 (うまこ)
2006-03-28 17:23:05
三味線が弾いてみたくて

友人について、文化教室での長唄を始めました。

三味線は結構大変で毎日練習してます。

唄の方は思い切り大きな地声で歌うので、

いいストレス発散になります。

たまに出る“せりふ”部分が役者気取りでおもしろいです。

唄だけなら三味線ほど大変じゃなさそうなので、

いいかも。息は何とかなるんじゃないでしょうか。
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