朝刊の囲み記事で「気配」のことが書いてありました。
中では、虫捕りに必要な要素の一つは「気配を感じとる」ということだと、
虫好きの学者が言っていることを挙げています。
これについては「虫捕る子だけが生き残る」という本がでていまして、虫好き学者三人の子育て論…の本です。
まぁ「題名」だけ聞くと、極論に聞こえますが、要するに自然が減り、暮らしがかわり、
子供たちが虫捕りなどしなくなった。しかし、虫を捕る、ということの中から学ぶことは多い…
というようなことなんですね。虫を捕るためには生態を知らなければならない。
捕ったらそれをどうするか、標本にするなら命を奪うことになるし、飼うなら、その命の終わりまで
付き合わなければならない…そういう中での学びは、テレビゲームなどでは味わえないですから。
記者は別に虫捕りのハナシをしようというのではなくて…要するに「虫を捕らない子」が増えて、
「気配」を察する能力が衰えているのではないか…と、そんなお話です。
この記者は「スマホが出てくるちょっと前くらいから…」と、書いています。
本屋で目当ての本を探すと、先にそこに立ってみている若者は、すぐそばに人が来ても気づかないので、
ちっとも場所を譲ってもらえない…駅や雑踏でも、場所を譲る、あけるということをしない…
わざとではなく気づかないのだと。私はもっと前から、それを感じています。
気づかない、というのは、例えばそばに来る人の気配を感じない、というようなことと、
もうひとつは「気配(けはい)」ではなく「り」のつく「気配り」の方の、気づかない…の両方だと思うのです。
例えば、私がゴミ捨てに行くと、たまに小中学校の子供たちの登校時間とぶつかることがあります。
子供たちは、一人もいれば3人5人と、グループもいます。
家に戻るために逆行していくと、前から来る子供たち、まず、ギリギリまで私をよけません。
目の前にきてから、やっと並んでいる友達の後ろに入ったり、時には体を横にしてかわします。
中には、まったくよける気がなくて、私が仕方なくよそ様のカーポートに一足踏み入れてよけたり、
立ち止まって集団をかわしたりすることもあります。それに対して、彼らはなんの関心ももちません。
これは、気配も気配りも、両方欠けているのだと思います。
狭い道で前から人が来る…普通に歩いていれば、当然何メートルも手前から視野には入ります。
あっあのヒトこっちへ来るな、すれ違うな、と。少し前から「よけますよ」の「気配」を見せて、
少しだけ自分が外側にふくれて歩く、それをすれば、お互い同じ速度で歩いてすんなりすれ違えます。
最初のころ、相手が目下であっても、学校行くのだからと、先にわずかでも端に身を寄せるようにして、
「よける気はありますよ」と、やっていました。すると今度は「ソッチがよけてんだから」とばかり、
あちらはよける気配もなく、まっすぐやってくる。中学生でもです。
あららと思って、場合によってはこちらが立ち止まり、体を横にして「通してあげる」ワケです。
あんまりそういうことが続いたので、私は最近、ゼッタイよけません。普通にそのまま歩いていきます。
私の方が道の端の方を歩いているのですから、本来「よけようがない」のですから。
そうすると、直前まできてあわてて友達の後ろにひっこんだり、肩がぶつかりながらすれ違います。
思うに、彼らはそのとき「ウザイおばさんだ」とも、「そっちがよけて当然」とも、きっと思っていません。
失礼なことも、相手が目上だとも、どうするべきかも、おそらく何も「気づかない」のですね。たぶん。
もうひとつ、少し先の道路は、ちょっと広いのですが、やはり歩道はなく、片側はガードレールです。
ガードレールの反対側は生垣があって、よけようがありません。
ここは人がすれ違えません。なので、最初から誰かとすれ違うと面倒だと思う人は、
ガードレールの外側を歩きます。あるとき、私が歩いていくと、前から制服の女子高生がきました。
すぐ後ろに、白髪の女性が続いています。スーパーの帰りのようで、大きな袋が見え隠れしています。
距離をはかると、ちょうど次のガードレールの支柱のむこうあたりですれ違いです。
支柱のあるところは、その分、体を横にすれば、やり過ごせます。
私は支柱のところで立ち止まって、よける体勢をとりました。2メートルほど先まできていた女子高生は
ちらっと私を見ましたが、すぐ下を向き、足を早めるでもなく、何も言わずに通り過ぎました。
続いて、老婦人が通るのを待ちました。その女性は、私の姿を見ると、
「ありがとねぇ、すみませんねぇ、年よりは足が遅いから」と言いました。
「いいんですよ、ごゆっくりどうぞ」と、答えて体を横にしていた私の目の端に、
さっきの女子高生が振り向くのが見えました。
老婦人はご丁寧に、通り過ぎて尚「どうもねぇ」と言いました。
「いいえぇ」と言いながら、また「彼女」が振り向いたのを目の端に感じました。
彼女はきっと「あっ、あたしもすみませんとか、言えばよかった」と思ったのではないかと、
そんな「気配」を感じました。そうであってほしいと思いました。
今、子供を叱る人がいません。私も、今の中学生は体も大きいし、うっせーよ、なんて突き飛ばされたら、
ひとたまりもないと思って、いわなくなりました。
でも、そのとき思ったのです。大人はせめて「手本」をしめさなきゃならない。
直接いえなかったとしても、若い子がいるところでは、ちゃんと礼儀もルールも守ってみせなければならない、
せめてそのくらいは、しなくちゃなぁと。
本屋で横に立っても場所を譲らない、レジで並んでいるときにスマホをやっていて、
前の人が進んでいるのに動かない、そこに立っていたら後ろの人が入りづらいのに、
言われるまでどかない…無礼とか図々しいとかの前に、「気配」を感じず、「気配り」することを知らないから…。
今、スマホ歩きが問題になっています。やりながら歩いてたら危ない、それは自分が危ないだけでなく、
人にも危ないのだ、ということは身の危険の「気配」さえ感じることができないからです。
虫を捕るのに気配を感じとる…私は虫捕り苦手でしたのでわかりませんが、
別に武芸者ではないのですから「ん、ここにカブトムシが、2…いや3匹いるな」なんてことではなく、
要するに、自然の中で風の音を聞きわける、空気の温度を感じとる、虫の羽音や草のゆれをみつける、
そして小さい虫がたくさんいるところは大きな虫が来る、あの蝶はこういう場所をめざして飛ぶ、
そんな知恵も総動員して、感覚を研ぎ澄ますことが必要なのだろうと思います。
そしてそれは、虫だけでなく、誰かが来る、どうすればいいか、を瞬時に判断する知恵を
身に着けることに通じるということではないのかと思うのです。
毎夜、かなり遅い時間に戸締りを調べに一度玄関に行きますが、週に何度かは歩きスマホを見かけます。
若いミニスカートの女の子が、歩き方もタラタラゆっくりになりつつ、一心にスマホを操作している…
私がガラリと戸を開けようが、牛乳の空き瓶をカチャカチャいわせて箱にいれていようが、
こっちを見ようともしません。襲われたら、そりゃアンタ自分のせいだよ、気をつけてお帰り…と
後姿につぶやきます。
気配を感じ取ること、気配りをすること、この感覚のなさは危機感の減少とも思える私です。
教師に成り立ての頃、自分から挨拶をしたのに生徒から返ってこないと、ひどく腹を立て自分が惨めになったような気分でいました。生徒から挨拶するまで、意地でもするもんか、と思っていた時期もありました。
しかし、だんだんと腹が立たなくなりました。それは、諦めたとかそういうことではなく、「あー知らないんだな」と思うようになったからです。
だから今は、なんの躊躇もなく先に挨拶をします。そういうもんなんだ、という手本を示しているつもりです。知らないのだったら、誰かが教えなければなりません。それも「挨拶しなさい」と言うのではなく、彼らに自ら気づいて欲しいと思います。
職人の親方が「目で盗め」とばかりに、働く背中を見せていたように、まず自分がやる、という姿勢が私は好きです。
犬の散歩の方が来られます。
このまま行くと狭い橋の上ですれ違いになると
思うとどちらかが橋の手前で待ちます。
すれ違い際待ってくれた方にすみませんとか
ありがとうとか言いながら通り過ぎます。
当たり前の事だと思っていましたが、そういう
周りを読むとか気配りがなくなってきているんですね。
時代が人をつくり、慣習も
それによって変っていくということです。
言葉づかいしかり、思いやりしかり、
そんなことを蹴飛ばしてバブルに
浮かれた時代はそれが終わりをつげても
すっかり置き忘れてしまい、
今の子どもたちの姿があると
私は思っています。
きっとその子どもの親は知っていて
教えていないのではなく、
自分も知らないのです。
<衣食足りて礼節を知る>
衣食は自分の好みで選ぶことが
できる世の中ですが、
形の見えない礼節はどうでしょうか。
でも、私はこの言葉の大切さや、
ひとの営みに潤いを与えてくれる
この部分はそれぞれの思いで
場面場面であらわしてい
ないように思えるこの頃です。
学校の教師といえども
学んで身につけるものではなく、
時代、育った環境で思いもしなかった
こともあるでしょう。
お互いに相手を思いやる日常が
身近にあるということを
察して過ごしたいですね。
どちらも感じることは必要だと思うのですが…。
心配になって娘に訊いてみました。
「細い道なんかで、向こうから人が来たらどうする?」と。
即座に「よけるでしょ。」と返ってきて、ホッとした私です。
子どもさんがいるところでは、急いでいても信号無視は
しない(いつもしてはいけないのですが)など、やはり
手本とまではいかなくても気をつけようと思います。
以前、別のことで注意したら「うっせぇ!」などと、
どなられたこともあって、ついつい見て見ないふり。
でも、まずは親が教えることを、親も教えられてない…
というん代に入りつつある今、少しでも年上の私たちが、
自然の振る舞いとして、手本とならないとですね。
それで気になるのは、車に乗っていて、道を譲られても、
何の挨拶もしない人…どういうわけか、高齢者が多いです。
うちの近所は道がせまいので、よく待ったり待たれたりしますが、
助手席の人とにこやかに談笑しながら、知らん顔。
「いい年してぇ!」と、車の中で怒鳴っています。
それが、ここ7~8年のことではないかと、そんな気がしています。
越してきたばかりのころは、みんなちょっと手を挙げたり、していたんですよ。
ほんの数年で違ってしまうのですね。
我が家のように、近くにどんどん新しい家が建ち、
知らない顔が多くなって、増えてきたように思います。
自分と仲のいい人だけは、ニコニコ笑ってなのに、
毎日我が家の前を通って顔を合わせていても、知らん顔。
なんだか寂しいですね。
バブリーな浮かれ時代は、心もゆるめてしまって…。
ある「お話」で、学校の先生が、
古い封建的なものはよくない、と、
先生と生徒が仲良くなりすぎたら敬語が消えた、
生徒が先生と「おともだち感覚」で
しゃべるようになってしまった…と。
先生は怖いものではないけれど、きちんと一線引く…
そういうことが減ってきて、大人になっても敬語が使えない、
それをめんどくさいとか、古臭いとかいう…
そこまで行くのはいきすぎだと思います。
「目上」「目下」なんて、会社に入ってからも、
必要なことなんですけどね。
かさかさした心は、自分が一番つまらないのですけれどねぇ。
お嬢様、拍手です。
オトナが手本を…ということは、時には難しいこともありますが、
少なくとも子供が、食べていたお菓子の紙をそのまま
捨てようとするときは、しかってほしいです。
落とすまで待ってたりする親もいますから…。
ほんの少しのこと…だとおもうのですが、なかなか…。