ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

気配…

2013-11-24 20:58:21 | つれづれ

 

朝刊の囲み記事で「気配」のことが書いてありました。

中では、虫捕りに必要な要素の一つは「気配を感じとる」ということだと、

虫好きの学者が言っていることを挙げています。

これについては「虫捕る子だけが生き残る」という本がでていまして、虫好き学者三人の子育て論…の本です。

まぁ「題名」だけ聞くと、極論に聞こえますが、要するに自然が減り、暮らしがかわり、

子供たちが虫捕りなどしなくなった。しかし、虫を捕る、ということの中から学ぶことは多い…

というようなことなんですね。虫を捕るためには生態を知らなければならない。

捕ったらそれをどうするか、標本にするなら命を奪うことになるし、飼うなら、その命の終わりまで

付き合わなければならない…そういう中での学びは、テレビゲームなどでは味わえないですから。

 

記者は別に虫捕りのハナシをしようというのではなくて…要するに「虫を捕らない子」が増えて、

「気配」を察する能力が衰えているのではないか…と、そんなお話です。

この記者は「スマホが出てくるちょっと前くらいから…」と、書いています。

本屋で目当ての本を探すと、先にそこに立ってみている若者は、すぐそばに人が来ても気づかないので、

ちっとも場所を譲ってもらえない…駅や雑踏でも、場所を譲る、あけるということをしない…

わざとではなく気づかないのだと。私はもっと前から、それを感じています。

 

気づかない、というのは、例えばそばに来る人の気配を感じない、というようなことと、

もうひとつは「気配(けはい)」ではなく「り」のつく「気配り」の方の、気づかない…の両方だと思うのです。

例えば、私がゴミ捨てに行くと、たまに小中学校の子供たちの登校時間とぶつかることがあります。

子供たちは、一人もいれば3人5人と、グループもいます。

家に戻るために逆行していくと、前から来る子供たち、まず、ギリギリまで私をよけません。

目の前にきてから、やっと並んでいる友達の後ろに入ったり、時には体を横にしてかわします。

中には、まったくよける気がなくて、私が仕方なくよそ様のカーポートに一足踏み入れてよけたり、

立ち止まって集団をかわしたりすることもあります。それに対して、彼らはなんの関心ももちません。

 

これは、気配も気配りも、両方欠けているのだと思います。

狭い道で前から人が来る…普通に歩いていれば、当然何メートルも手前から視野には入ります。

あっあのヒトこっちへ来るな、すれ違うな、と。少し前から「よけますよ」の「気配」を見せて、

少しだけ自分が外側にふくれて歩く、それをすれば、お互い同じ速度で歩いてすんなりすれ違えます。

最初のころ、相手が目下であっても、学校行くのだからと、先にわずかでも端に身を寄せるようにして、

「よける気はありますよ」と、やっていました。すると今度は「ソッチがよけてんだから」とばかり、

あちらはよける気配もなく、まっすぐやってくる。中学生でもです。

あららと思って、場合によってはこちらが立ち止まり、体を横にして「通してあげる」ワケです。

あんまりそういうことが続いたので、私は最近、ゼッタイよけません。普通にそのまま歩いていきます。

私の方が道の端の方を歩いているのですから、本来「よけようがない」のですから。

そうすると、直前まできてあわてて友達の後ろにひっこんだり、肩がぶつかりながらすれ違います。

 

思うに、彼らはそのとき「ウザイおばさんだ」とも、「そっちがよけて当然」とも、きっと思っていません。

失礼なことも、相手が目上だとも、どうするべきかも、おそらく何も「気づかない」のですね。たぶん。

もうひとつ、少し先の道路は、ちょっと広いのですが、やはり歩道はなく、片側はガードレールです。

ガードレールの反対側は生垣があって、よけようがありません。

ここは人がすれ違えません。なので、最初から誰かとすれ違うと面倒だと思う人は、

ガードレールの外側を歩きます。あるとき、私が歩いていくと、前から制服の女子高生がきました。

すぐ後ろに、白髪の女性が続いています。スーパーの帰りのようで、大きな袋が見え隠れしています。

距離をはかると、ちょうど次のガードレールの支柱のむこうあたりですれ違いです。

支柱のあるところは、その分、体を横にすれば、やり過ごせます。

私は支柱のところで立ち止まって、よける体勢をとりました。2メートルほど先まできていた女子高生は

ちらっと私を見ましたが、すぐ下を向き、足を早めるでもなく、何も言わずに通り過ぎました。

続いて、老婦人が通るのを待ちました。その女性は、私の姿を見ると、

「ありがとねぇ、すみませんねぇ、年よりは足が遅いから」と言いました。

「いいんですよ、ごゆっくりどうぞ」と、答えて体を横にしていた私の目の端に、

さっきの女子高生が振り向くのが見えました。

老婦人はご丁寧に、通り過ぎて尚「どうもねぇ」と言いました。

「いいえぇ」と言いながら、また「彼女」が振り向いたのを目の端に感じました。

彼女はきっと「あっ、あたしもすみませんとか、言えばよかった」と思ったのではないかと、

そんな「気配」を感じました。そうであってほしいと思いました。

 

今、子供を叱る人がいません。私も、今の中学生は体も大きいし、うっせーよ、なんて突き飛ばされたら、

ひとたまりもないと思って、いわなくなりました。

でも、そのとき思ったのです。大人はせめて「手本」をしめさなきゃならない。

直接いえなかったとしても、若い子がいるところでは、ちゃんと礼儀もルールも守ってみせなければならない、

せめてそのくらいは、しなくちゃなぁと。

 

本屋で横に立っても場所を譲らない、レジで並んでいるときにスマホをやっていて、

前の人が進んでいるのに動かない、そこに立っていたら後ろの人が入りづらいのに、

言われるまでどかない…無礼とか図々しいとかの前に、「気配」を感じず、「気配り」することを知らないから…。

今、スマホ歩きが問題になっています。やりながら歩いてたら危ない、それは自分が危ないだけでなく、

人にも危ないのだ、ということは身の危険の「気配」さえ感じることができないからです。

 

虫を捕るのに気配を感じとる…私は虫捕り苦手でしたのでわかりませんが、

別に武芸者ではないのですから「ん、ここにカブトムシが、2…いや3匹いるな」なんてことではなく、

要するに、自然の中で風の音を聞きわける、空気の温度を感じとる、虫の羽音や草のゆれをみつける、

そして小さい虫がたくさんいるところは大きな虫が来る、あの蝶はこういう場所をめざして飛ぶ、

そんな知恵も総動員して、感覚を研ぎ澄ますことが必要なのだろうと思います。

そしてそれは、虫だけでなく、誰かが来る、どうすればいいか、を瞬時に判断する知恵を

身に着けることに通じるということではないのかと思うのです。

毎夜、かなり遅い時間に戸締りを調べに一度玄関に行きますが、週に何度かは歩きスマホを見かけます。

若いミニスカートの女の子が、歩き方もタラタラゆっくりになりつつ、一心にスマホを操作している…

私がガラリと戸を開けようが、牛乳の空き瓶をカチャカチャいわせて箱にいれていようが、

こっちを見ようともしません。襲われたら、そりゃアンタ自分のせいだよ、気をつけてお帰り…と

後姿につぶやきます。

気配を感じ取ること、気配りをすること、この感覚のなさは危機感の減少とも思える私です。


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8 コメント

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同感 (べにお)
2013-11-24 22:29:10
とんぼさんの言葉は、心に染みいります。

教師に成り立ての頃、自分から挨拶をしたのに生徒から返ってこないと、ひどく腹を立て自分が惨めになったような気分でいました。生徒から挨拶するまで、意地でもするもんか、と思っていた時期もありました。
しかし、だんだんと腹が立たなくなりました。それは、諦めたとかそういうことではなく、「あー知らないんだな」と思うようになったからです。
だから今は、なんの躊躇もなく先に挨拶をします。そういうもんなんだ、という手本を示しているつもりです。知らないのだったら、誰かが教えなければなりません。それも「挨拶しなさい」と言うのではなく、彼らに自ら気づいて欲しいと思います。
職人の親方が「目で盗め」とばかりに、働く背中を見せていたように、まず自分がやる、という姿勢が私は好きです。
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Unknown (陽花)
2013-11-24 22:53:35
毎日犬の散歩に行きますが、向こうからも
犬の散歩の方が来られます。
このまま行くと狭い橋の上ですれ違いになると
思うとどちらかが橋の手前で待ちます。
すれ違い際待ってくれた方にすみませんとか
ありがとうとか言いながら通り過ぎます。
当たり前の事だと思っていましたが、そういう
周りを読むとか気配りがなくなってきているんですね。
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願い (akkomam)
2013-11-25 10:39:27
この頃ときどき思うのは、
時代が人をつくり、慣習も
それによって変っていくということです。

言葉づかいしかり、思いやりしかり、
そんなことを蹴飛ばしてバブルに
浮かれた時代はそれが終わりをつげても
すっかり置き忘れてしまい、
今の子どもたちの姿があると
私は思っています。

きっとその子どもの親は知っていて
教えていないのではなく、
自分も知らないのです。

<衣食足りて礼節を知る>
衣食は自分の好みで選ぶことが
できる世の中ですが、
形の見えない礼節はどうでしょうか。

でも、私はこの言葉の大切さや、
ひとの営みに潤いを与えてくれる
この部分はそれぞれの思いで
場面場面であらわしてい
ないように思えるこの頃です。

学校の教師といえども
学んで身につけるものではなく、
時代、育った環境で思いもしなかった
こともあるでしょう。
お互いに相手を思いやる日常が
身近にあるということを
察して過ごしたいですね。
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Unknown (さくら)
2013-11-25 19:36:27
気配と気配り。
どちらも感じることは必要だと思うのですが…。

心配になって娘に訊いてみました。
「細い道なんかで、向こうから人が来たらどうする?」と。
即座に「よけるでしょ。」と返ってきて、ホッとした私です。

子どもさんがいるところでは、急いでいても信号無視は
しない(いつもしてはいけないのですが)など、やはり
手本とまではいかなくても気をつけようと思います。
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Unknown (とんぼ)
2013-11-25 21:43:31
べにお様

以前、別のことで注意したら「うっせぇ!」などと、
どなられたこともあって、ついつい見て見ないふり。
でも、まずは親が教えることを、親も教えられてない…
というん代に入りつつある今、少しでも年上の私たちが、
自然の振る舞いとして、手本とならないとですね。
それで気になるのは、車に乗っていて、道を譲られても、
何の挨拶もしない人…どういうわけか、高齢者が多いです。
うちの近所は道がせまいので、よく待ったり待たれたりしますが、
助手席の人とにこやかに談笑しながら、知らん顔。
「いい年してぇ!」と、車の中で怒鳴っています。
それが、ここ7~8年のことではないかと、そんな気がしています。
越してきたばかりのころは、みんなちょっと手を挙げたり、していたんですよ。
ほんの数年で違ってしまうのですね。
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Unknown (とんぼ)
2013-11-25 21:45:15
陽花様

我が家のように、近くにどんどん新しい家が建ち、
知らない顔が多くなって、増えてきたように思います。
自分と仲のいい人だけは、ニコニコ笑ってなのに、
毎日我が家の前を通って顔を合わせていても、知らん顔。
なんだか寂しいですね。
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Unknown (とんぼ)
2013-11-25 22:16:37
akkomam様

バブリーな浮かれ時代は、心もゆるめてしまって…。
ある「お話」で、学校の先生が、
古い封建的なものはよくない、と、
先生と生徒が仲良くなりすぎたら敬語が消えた、
生徒が先生と「おともだち感覚」で
しゃべるようになってしまった…と。
先生は怖いものではないけれど、きちんと一線引く…
そういうことが減ってきて、大人になっても敬語が使えない、
それをめんどくさいとか、古臭いとかいう…
そこまで行くのはいきすぎだと思います。
「目上」「目下」なんて、会社に入ってからも、
必要なことなんですけどね。

かさかさした心は、自分が一番つまらないのですけれどねぇ。
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Unknown (とんぼ)
2013-11-25 22:19:27
さくら様


お嬢様、拍手です。

オトナが手本を…ということは、時には難しいこともありますが、
少なくとも子供が、食べていたお菓子の紙をそのまま
捨てようとするときは、しかってほしいです。
落とすまで待ってたりする親もいますから…。
ほんの少しのこと…だとおもうのですが、なかなか…。
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