<長文です。介護のお話しですので、まだご用のないかたスルーしてください>
今朝、母から電話がありました。「元気か?」です。
息子のことを聞くので「今日は土曜日だから施設もおやすみで今寝てるよ」
というと、あっそうか、なのですが、元気ならいいとか、やれ寒いねとか
言っているうちに忘れます。また「子とんぼは?」と聞きます。
「今日は土曜日だから施設もおやすみで今寝てるよ」と答える。
「そーか元気ならいい」…ここ数ヶ月で、直前の会話も落ちるようになってきています。
私の周囲の人の中にも、今介護中とか、両親が高齢…などで
「とんぼっち、認知症って始まったときすぐわかった?
それってどんなだった?そうなったらどうすればいいの」と
聞かれることがあります。
医療的な知識を基にしたお話しではないので、
あくまで「我が家の場合」、ですが、
少しでも参考になることがあればと思います。
母が「アルツハイマー型認知症」と診断されたとき、
それは私たちが「そうじゃないか?」と思い始めてから、たぶん2年くらいです。
このときは、旅行がきっかけで、ある日突然「異常行動」になり、
それで病院にいった…という状態でした。
それまで病院にいかなかったのは、父も私も「そうだ」と認識して、
受け入れていく気持ちができていたからです。
確かに「進行を遅らせる薬」というのもありましたが、
母はそれでなくとも肝臓・心臓などの薬漬けでしたし、すでに80を越えていました。
なにより若いころから「どんな病気になっても、
よけいなことは一切しないでほしい」と本人が言っていましたし
ガンのような病気ではありませんでしたから、
父と二人、はじまったら自然体で行こう、と決めていたからです。
あまりに突然、ものすごくひどくなったので、とりあえず診断をもらおう、
ということになったわけです。介護認定もありましたので。
診察がすべて終了した後で、父と私だけ呼ばれて、
医師から診察結果を聞いたわけなんですが、
そのとき医師が最初にこういいました。
「○○子さん(母)は、非常にまじめ、頑固、曲がったことが嫌い、
白黒はっきり、好き嫌いが激しい、融通が利かない、社交性がない、
典型的なウチ弁慶…という感じですね」
ははーっおっしゃるとおりでごぜーますだ…でした。
「こういう方が、一番認知症になりやすいタイプなのですよ」と。
「ふまじめ、いいかげん、社交性マンタン…」あたしはだいじょぶだ…と、
思わずつぶやいちまいました。
これはあくまで「そういう傾向」ということです。
さて、いよいよ「発病がわかるか」ですが、
家族として暮らしていても「ここから」というのは、はっきりわかりません。
急に症状がひどく出る、というのが始まりではありませんので、
なかなか難しいと思いますが、実は「兆し」はきをつけていれば
ゼッタイわかると思います。たいがいあとで「あれだったんだ」ですが。
認知症の始まりがわかりにくいのは、ただの物忘れはダレでもひどくなるから。
よく「年月日」について言われます。何日だっけ…。
でも、これも月日や曜日を気にしない暮らしをしていると
「えーと今日は何日だっけ?」はダレにでもあります。私もそうです。
だから、例えば「昨日給料日だったから…」とか、新聞を見るとか、
ほかからの情報を手繰って考えます。これで思い出せるわけですね。
でも母は、診察を受けたとき、年月日どころか季節さえ答えられませんでした。
そういう「探る・手繰り寄せる・関連付ける」ことができないのです。
また「もの忘れ」の内容が、おかしくなります。
ただ忘れているのではなく、例えば部分的に完全欠落している…です。
母は、ある日突然京都のいとこがたずねてきたとき、電話をかけてきて
私を呼び寄せました。急いでいって三人でさんざんおしゃべりして…。
次の日母は「私」が同席したことだけ、すっぽり忘れていました。
「昨日珍しく○子ちゃんがきてね」と電話してきて…。
こんな風に「記憶」の欠落と「思い出せる力」が変わっていきます。
だから最初は「ただの物忘れ」ではなく「妙な物忘れ」になるわけです。
それを見逃さないことです。
ちなみに最初はこちらが訂正したり教えたりすると「思い出し」ます。
これが進むと、いくら言っても思い出さない、例えば里帰りしたことも、
「行った?行ってへん、いつやねん」なんですが、写真を並べて見せると、
「あぁそやった、○○さんに会ぅて久しぶりに話したわ」…なんて。
更に進むと、写真を見せてもわからない…「写真があるから行ったんやろな」です。
そのほか、前後して急にトイレがまにあわなくなりました。
よくテレビでやっている「過活動膀胱」です。
突然「あ・トイレ」と行ったときにはもう遅い…トイレの直前で流れます。
それも、認知症がなければ「自分はこうなのだから」と、
気をつけられるのですが、そういう判断も落ちるわけです。
だから外出先で父が「トイレいってこいよ」と言ってもと
「行きとない、トイレトイレとうるさい」と怒る…、
それなのに10分後には「あ、トイレいきたい」です。
また、ものの片付けとか整理などでも、用のないものをやまほど持ち歩いたり、
夏場にぜったい汗まみれになるだろう服を選ぼうとしたり…。
こんなふうに、普通なら対処すればなんとかなるはずのことも、
本人が「理解できない」或いは「判断できない」ことで、おかしくなります。
母の場合は、そういう「あれっ?」ということが目につきだして2年目くらいに、
旅行に行ったことがが原因の突然の異常行動(トイレにスリッパを突っ込むとか、
押入れの荷物を「片付け」と称して全部引っ張り出してばらまくとか)があり、
これはもう病院…となったわけです。
これは、医師の話によれば「日常から旅行という非日常にいき
そこから元の日常にもどったとき『混乱がおきる』のです」とのことでした。
つまり、ずっとやっていることは、わかっているから刺激もない。
それが旅に出ると、それが楽しければ楽しいほど、
元の暮らしに戻ったとき「戻れなくなる」ですね。
母は帰りの車の中で、すぐそばまで帰ってきたとき
「ここはどこや、どこ行ってきたんや」といったそうです。
元に戻ろうとする力と思い出せない部分のかけひきですね。
そういう「大きな刺激」によって、母は帰宅後ほんの二日ほどで、
トイレはもとより、電化製品のスイッチや蛇口の操作が全くだめになりました。
これも認知症の特徴だそうです。
病院へ行ったのは、予約のこともあって、このときから10日目くらい。
少しずつ元にもどってきてはいましたが、まだまだ「ヘン」でした。
ただ、こんなふうな急激な変化は、しばらくすると少しずつ戻ります。
母も一ヶ月ほどで、ほぼ元に戻りました。
それと、認知症の症状というのは、三歩進んで二歩戻る、です。
おかしなことを言い張るのが三日ほど続くと、ふと元に戻ります。
もちろん、当人はそれを覚えていません。
認知症のつらいところは、最初のころ、自分がそうなのだと自覚することです。
母も、一時期の激しい変化がおさまって元に戻ってから、
「なんでこないなことになったんやろ」とか「考えようとするのに考えられへん」
「なんもわからへんようになるのが怖いねん」など、
盛んに不安を口にしました。
実はこれが一番困ります。私は「ずいぶん長いこと生きてきたんだから、
忘れてもわからなくなっても、それはそれでいいじゃない。
じーちゃんと私がちゃんと覚えているから、ゼッタイ大丈夫、
なんにも心配することはないよ」としか、いいようがありませんでした。
以前、京都を舞台にしたあるドラマで、認知症の初期の女性が
最後にそれを人に話す場面がありました。
自分でいつもどおりに食事のしたくをして、
さぁそれではと箸を持ち「いただきます」と一口二口ご飯を食べたところで、
ふと「さっき、ご飯食べたやんか」と思い出す。
「きっついでっせぇ…」ちょっと苦く微笑みながらの演技。
私は「あぁ自分で気がついてしまうことが、この病気の一番残酷なところなんだ」
と、そう思いました。一人で悩むのはつらいです。
だからこそ、家族の支えが必要なわけです。
それにはまず家族がその病気を知って、認めなければなりません。
認めたくない気持ちはわかるのですが、それは認知症という病気に対して
偏見があるからです。単純にいうところの「ボケるんだ」「ヘンになるんだ」
「何もわからなくなるんだ」「壊れていくんだ」…。
私も実は、以前の記事では「母が壊れていく」という表現を使っています。
実際、正常な立場のものから見れば、壊れていくのです。
でも「壊れること」を忌み嫌うことはないのです。
以前書いたように、頭の中のさまざまなことが、次々眠りについていくのです。
だから壊れていくように見えるだけで、本人はどこまでいっても「その人」です。
最後には赤ちゃんのようになる、というのは、
すべてのことが眠ってしまうから、だと、私はそう考えています。
それぞれの人で、それぞれの家族で、いろいろ状況も事情も違うとは思いますが、
少しでも「兆し」を感じたら、おびえないでしっかり見なければなりません。
「ガンじゃないか」と思っても怖くて病院にいけない…なんてこと聞きます。
ずるずるしているうちに進行してしまったらどうしますか?
あと一ヶ月早かったら手術できたのにとか、それって悔しいでしょう。
認知症は、早急に命をとられる病気ではありませんから、
よけいに一日伸ばしにしたり、いや年だから、とか気のせい、とか
言いたくなりますよね。でも、始まったら、その人によって、
いつ、どんな症状がでるかわかりません。
台所の火の扱い、車の運転、大切な書類などのやりとり…。
何か起きてからでは遅いです。
まずは「認知症」を本人以外が「恥ずかしい病気・怖い病気」と
思わないことです。近所に隠す、というのもよく聞きますが、
時にはご近所の協力も必要となることがあります。
「みっともない病気」でも「恥ずかしい病気」でもありません。
私は息子がまだ3~4歳のころ、ひとに見られるのがイヤでした。
みるからに「普通ではない」とわかるからです。
同じ年頃の子に並ばれるのはもっとイヤでした。
「なんでこの子歩けないの?」とか「よだれたらしてきたねぇ」とか、
ひとつひとつの言葉がナイフみたいに突き刺さりました。
でも、少しずつわかってきました。
だって息子にとっては「演技」でもなんでもない、
見せている姿が「あるがまま」の彼なのです。
彼が気負ってもいないのに、なんで私がそれを気にする必要がある…です。
命の重さやや人間の尊厳で考えるなら、彼はみんなと同じです。
なーんだ、彼は一番彼らしくいるんじゃないか、だったら私もそれでいい…。
人が振り返ろうと、こそこそ指差して話していようと(そんなこともありました)
それは何も知らないアチラの事情、私は息子をよく知っているし、
息子はいつも自然体…これがフツーですから。
たぶん、これがあって、私は母のことも受け入れられるのだと思います。
大きく違うのは「母は元からそうではなかった」ということです。
アタマのキレる人だったのに、器用で何でもできたのに…。
だから悲しいし寂しいですが、それが一番悲しくて寂しいのは本人でしょう。
本人以上に悲しがってちゃ介護になりません。
幸いにも、母は、もう悲しがることすら鈍くなってきました。
母が悲しがらないことは、私もうれしいです。
たとえ母が私を忘れても、母が悲しくないほうが、子供としてはありがたいです。
「なるようになっていく」なら「なるように乗っていく」です。
「認める」ということは「先に進める」ということです。
家族で何をどう考えていけばいいのか…。
介護って、ある意味「先手必勝」なのですよ。
おしまいになりましたが、写真の説明…
近くの公園で、椿の木が何本もばっさりと根元から切られてしまいました。
でも、ちゃんと横に小さなのが伸びていました。
新旧交代…命はつながっていくのですね。
今朝、母から電話がありました。「元気か?」です。
息子のことを聞くので「今日は土曜日だから施設もおやすみで今寝てるよ」
というと、あっそうか、なのですが、元気ならいいとか、やれ寒いねとか
言っているうちに忘れます。また「子とんぼは?」と聞きます。
「今日は土曜日だから施設もおやすみで今寝てるよ」と答える。
「そーか元気ならいい」…ここ数ヶ月で、直前の会話も落ちるようになってきています。
私の周囲の人の中にも、今介護中とか、両親が高齢…などで
「とんぼっち、認知症って始まったときすぐわかった?
それってどんなだった?そうなったらどうすればいいの」と
聞かれることがあります。
医療的な知識を基にしたお話しではないので、
あくまで「我が家の場合」、ですが、
少しでも参考になることがあればと思います。
母が「アルツハイマー型認知症」と診断されたとき、
それは私たちが「そうじゃないか?」と思い始めてから、たぶん2年くらいです。
このときは、旅行がきっかけで、ある日突然「異常行動」になり、
それで病院にいった…という状態でした。
それまで病院にいかなかったのは、父も私も「そうだ」と認識して、
受け入れていく気持ちができていたからです。
確かに「進行を遅らせる薬」というのもありましたが、
母はそれでなくとも肝臓・心臓などの薬漬けでしたし、すでに80を越えていました。
なにより若いころから「どんな病気になっても、
よけいなことは一切しないでほしい」と本人が言っていましたし
ガンのような病気ではありませんでしたから、
父と二人、はじまったら自然体で行こう、と決めていたからです。
あまりに突然、ものすごくひどくなったので、とりあえず診断をもらおう、
ということになったわけです。介護認定もありましたので。
診察がすべて終了した後で、父と私だけ呼ばれて、
医師から診察結果を聞いたわけなんですが、
そのとき医師が最初にこういいました。
「○○子さん(母)は、非常にまじめ、頑固、曲がったことが嫌い、
白黒はっきり、好き嫌いが激しい、融通が利かない、社交性がない、
典型的なウチ弁慶…という感じですね」
ははーっおっしゃるとおりでごぜーますだ…でした。
「こういう方が、一番認知症になりやすいタイプなのですよ」と。
「ふまじめ、いいかげん、社交性マンタン…」あたしはだいじょぶだ…と、
思わずつぶやいちまいました。
これはあくまで「そういう傾向」ということです。
さて、いよいよ「発病がわかるか」ですが、
家族として暮らしていても「ここから」というのは、はっきりわかりません。
急に症状がひどく出る、というのが始まりではありませんので、
なかなか難しいと思いますが、実は「兆し」はきをつけていれば
ゼッタイわかると思います。たいがいあとで「あれだったんだ」ですが。
認知症の始まりがわかりにくいのは、ただの物忘れはダレでもひどくなるから。
よく「年月日」について言われます。何日だっけ…。
でも、これも月日や曜日を気にしない暮らしをしていると
「えーと今日は何日だっけ?」はダレにでもあります。私もそうです。
だから、例えば「昨日給料日だったから…」とか、新聞を見るとか、
ほかからの情報を手繰って考えます。これで思い出せるわけですね。
でも母は、診察を受けたとき、年月日どころか季節さえ答えられませんでした。
そういう「探る・手繰り寄せる・関連付ける」ことができないのです。
また「もの忘れ」の内容が、おかしくなります。
ただ忘れているのではなく、例えば部分的に完全欠落している…です。
母は、ある日突然京都のいとこがたずねてきたとき、電話をかけてきて
私を呼び寄せました。急いでいって三人でさんざんおしゃべりして…。
次の日母は「私」が同席したことだけ、すっぽり忘れていました。
「昨日珍しく○子ちゃんがきてね」と電話してきて…。
こんな風に「記憶」の欠落と「思い出せる力」が変わっていきます。
だから最初は「ただの物忘れ」ではなく「妙な物忘れ」になるわけです。
それを見逃さないことです。
ちなみに最初はこちらが訂正したり教えたりすると「思い出し」ます。
これが進むと、いくら言っても思い出さない、例えば里帰りしたことも、
「行った?行ってへん、いつやねん」なんですが、写真を並べて見せると、
「あぁそやった、○○さんに会ぅて久しぶりに話したわ」…なんて。
更に進むと、写真を見せてもわからない…「写真があるから行ったんやろな」です。
そのほか、前後して急にトイレがまにあわなくなりました。
よくテレビでやっている「過活動膀胱」です。
突然「あ・トイレ」と行ったときにはもう遅い…トイレの直前で流れます。
それも、認知症がなければ「自分はこうなのだから」と、
気をつけられるのですが、そういう判断も落ちるわけです。
だから外出先で父が「トイレいってこいよ」と言ってもと
「行きとない、トイレトイレとうるさい」と怒る…、
それなのに10分後には「あ、トイレいきたい」です。
また、ものの片付けとか整理などでも、用のないものをやまほど持ち歩いたり、
夏場にぜったい汗まみれになるだろう服を選ぼうとしたり…。
こんなふうに、普通なら対処すればなんとかなるはずのことも、
本人が「理解できない」或いは「判断できない」ことで、おかしくなります。
母の場合は、そういう「あれっ?」ということが目につきだして2年目くらいに、
旅行に行ったことがが原因の突然の異常行動(トイレにスリッパを突っ込むとか、
押入れの荷物を「片付け」と称して全部引っ張り出してばらまくとか)があり、
これはもう病院…となったわけです。
これは、医師の話によれば「日常から旅行という非日常にいき
そこから元の日常にもどったとき『混乱がおきる』のです」とのことでした。
つまり、ずっとやっていることは、わかっているから刺激もない。
それが旅に出ると、それが楽しければ楽しいほど、
元の暮らしに戻ったとき「戻れなくなる」ですね。
母は帰りの車の中で、すぐそばまで帰ってきたとき
「ここはどこや、どこ行ってきたんや」といったそうです。
元に戻ろうとする力と思い出せない部分のかけひきですね。
そういう「大きな刺激」によって、母は帰宅後ほんの二日ほどで、
トイレはもとより、電化製品のスイッチや蛇口の操作が全くだめになりました。
これも認知症の特徴だそうです。
病院へ行ったのは、予約のこともあって、このときから10日目くらい。
少しずつ元にもどってきてはいましたが、まだまだ「ヘン」でした。
ただ、こんなふうな急激な変化は、しばらくすると少しずつ戻ります。
母も一ヶ月ほどで、ほぼ元に戻りました。
それと、認知症の症状というのは、三歩進んで二歩戻る、です。
おかしなことを言い張るのが三日ほど続くと、ふと元に戻ります。
もちろん、当人はそれを覚えていません。
認知症のつらいところは、最初のころ、自分がそうなのだと自覚することです。
母も、一時期の激しい変化がおさまって元に戻ってから、
「なんでこないなことになったんやろ」とか「考えようとするのに考えられへん」
「なんもわからへんようになるのが怖いねん」など、
盛んに不安を口にしました。
実はこれが一番困ります。私は「ずいぶん長いこと生きてきたんだから、
忘れてもわからなくなっても、それはそれでいいじゃない。
じーちゃんと私がちゃんと覚えているから、ゼッタイ大丈夫、
なんにも心配することはないよ」としか、いいようがありませんでした。
以前、京都を舞台にしたあるドラマで、認知症の初期の女性が
最後にそれを人に話す場面がありました。
自分でいつもどおりに食事のしたくをして、
さぁそれではと箸を持ち「いただきます」と一口二口ご飯を食べたところで、
ふと「さっき、ご飯食べたやんか」と思い出す。
「きっついでっせぇ…」ちょっと苦く微笑みながらの演技。
私は「あぁ自分で気がついてしまうことが、この病気の一番残酷なところなんだ」
と、そう思いました。一人で悩むのはつらいです。
だからこそ、家族の支えが必要なわけです。
それにはまず家族がその病気を知って、認めなければなりません。
認めたくない気持ちはわかるのですが、それは認知症という病気に対して
偏見があるからです。単純にいうところの「ボケるんだ」「ヘンになるんだ」
「何もわからなくなるんだ」「壊れていくんだ」…。
私も実は、以前の記事では「母が壊れていく」という表現を使っています。
実際、正常な立場のものから見れば、壊れていくのです。
でも「壊れること」を忌み嫌うことはないのです。
以前書いたように、頭の中のさまざまなことが、次々眠りについていくのです。
だから壊れていくように見えるだけで、本人はどこまでいっても「その人」です。
最後には赤ちゃんのようになる、というのは、
すべてのことが眠ってしまうから、だと、私はそう考えています。
それぞれの人で、それぞれの家族で、いろいろ状況も事情も違うとは思いますが、
少しでも「兆し」を感じたら、おびえないでしっかり見なければなりません。
「ガンじゃないか」と思っても怖くて病院にいけない…なんてこと聞きます。
ずるずるしているうちに進行してしまったらどうしますか?
あと一ヶ月早かったら手術できたのにとか、それって悔しいでしょう。
認知症は、早急に命をとられる病気ではありませんから、
よけいに一日伸ばしにしたり、いや年だから、とか気のせい、とか
言いたくなりますよね。でも、始まったら、その人によって、
いつ、どんな症状がでるかわかりません。
台所の火の扱い、車の運転、大切な書類などのやりとり…。
何か起きてからでは遅いです。
まずは「認知症」を本人以外が「恥ずかしい病気・怖い病気」と
思わないことです。近所に隠す、というのもよく聞きますが、
時にはご近所の協力も必要となることがあります。
「みっともない病気」でも「恥ずかしい病気」でもありません。
私は息子がまだ3~4歳のころ、ひとに見られるのがイヤでした。
みるからに「普通ではない」とわかるからです。
同じ年頃の子に並ばれるのはもっとイヤでした。
「なんでこの子歩けないの?」とか「よだれたらしてきたねぇ」とか、
ひとつひとつの言葉がナイフみたいに突き刺さりました。
でも、少しずつわかってきました。
だって息子にとっては「演技」でもなんでもない、
見せている姿が「あるがまま」の彼なのです。
彼が気負ってもいないのに、なんで私がそれを気にする必要がある…です。
命の重さやや人間の尊厳で考えるなら、彼はみんなと同じです。
なーんだ、彼は一番彼らしくいるんじゃないか、だったら私もそれでいい…。
人が振り返ろうと、こそこそ指差して話していようと(そんなこともありました)
それは何も知らないアチラの事情、私は息子をよく知っているし、
息子はいつも自然体…これがフツーですから。
たぶん、これがあって、私は母のことも受け入れられるのだと思います。
大きく違うのは「母は元からそうではなかった」ということです。
アタマのキレる人だったのに、器用で何でもできたのに…。
だから悲しいし寂しいですが、それが一番悲しくて寂しいのは本人でしょう。
本人以上に悲しがってちゃ介護になりません。
幸いにも、母は、もう悲しがることすら鈍くなってきました。
母が悲しがらないことは、私もうれしいです。
たとえ母が私を忘れても、母が悲しくないほうが、子供としてはありがたいです。
「なるようになっていく」なら「なるように乗っていく」です。
「認める」ということは「先に進める」ということです。
家族で何をどう考えていけばいいのか…。
介護って、ある意味「先手必勝」なのですよ。
おしまいになりましたが、写真の説明…
近くの公園で、椿の木が何本もばっさりと根元から切られてしまいました。
でも、ちゃんと横に小さなのが伸びていました。
新旧交代…命はつながっていくのですね。
自分の中で消していくんですから、本当に
ある意味残酷ですよね。
母も生前「なんでこんなに忘れになったんやろ」とよく言いました。
一人で出掛けたら帰る家が分からないとか
人によって色んな症状が出ますものね。
時々普通に戻って分かる時が一番可哀想に
思いますね。
認めたくなくても認めざるを得ない辛いお気持ち分かります。
医学の力で早く特効薬が開発されればいいのにと思います。
私はひとり暮らしですから、例え、誰も気づかないうちに
死んでいくこともありましょうし、覚悟もできている
つもりです。 そうならない為の注意はすべて自分の
為にと思っています。
でも、老いだけは必ずやってきますし、今も
完全か?って聞かれたら<そのつもり>と答えるでしょう。
じゃあ、どうしたら、老いからくるもろもろを
自分でいち早く知ることが出来るのか...と
考え、1年に一度、脳のMRIを撮っています。
それでも、確実にやってくる老いか原因のことの
ために、記憶帳を作ることを考えてはじめました。
ありとあらゆる書類の在り処と届出印とか
保険の内容、パソコンの開き方、友人名簿、ドナーカード、
鍵の在り処、自身が忘れてしまったら、
子供たちが困ってしまうだろう
ことなどを記入しておくことにしました。
主人の母のときに困ったことを思い出しながら
作成するようにと...。
いずれ行く道、辿る道です。
そのときに<いよいよ来たな>なんて、自分で覚悟が
できればよいのですが、その辺りが一番あやしい
私なのが困ります。
(多分まだらボケ状態ですね)
認知症の検査をすればかなり得点(苦笑)できそうですが、
とにかく少しでも長く自分のことができるようにと
最低限、食事の援助だけにしています。
(たぶん食事の偏りと身内のことでの鬱がきっかけ)
一方、自分自身の記憶力も着実に弱っています。
以前の義母と似たようなことをしている自分に気づき
一人苦笑していますが、さらに記憶力がだめになっても
生活に困らないよう、記憶に頼らない習慣づけをしている最中です。
今やったことを忘れても大丈夫なようにというわけです。
次の段階の、判断力が弱ってきた時にどうすればよいかは、現在考え中です。
親はこちらが覚悟を決めて対処するほか無いですが、
自分のこととなると・・・・今はそちらの方が不安です。
親を観ることは、自分自身の老後の予行演習です。
祖母は最近、「ごはん食べたっけ」が始まりました。
そう、痴呆の進行というのは、環境の変化でだいぶん進むらしいですね。祖母はこの前入院したとき、いきなり赤ちゃんがえりしていてかなり驚きました。最近は戻ってきましたけど。
本人が言ってることを否定しないほうがいい、というじゃないですか。こういう場合、母だと発言の辻褄が合わないことにイラついて怒鳴ったりきついこと言ったりしますから、祖母と一緒に住んでるのが私でよかったな、ってつくづく思います。
私はまだとんぼさんみたいに悟りは開けないけど(笑)、ゆっくり、そこそこに、祖母の老いと付き合っていきたいと思っています。
亡き父もアルツハイマーによる認知症でした。
病院で、もう1年早く来てくれていれば、と言われましたが
後から考えてみたら・・・という兆候は、幾度かあったのですよね。
生前、やはり時々自覚してはうなだれて、悩んでいました。
そんな時は言葉も掛けられなかったのですが
「私達がいるから大丈夫だよ」と言ってあげれば良かったと
それだけが悔いとして残っています。
私達家族は近所に隠さず、お隣には何かあったら言ってくれるようにも頼んでいました。
ご近所にも、それで入院してる方もいたりしましたし。
けれど他界した時に、友人に「世間体もあって大変だったね」みたいに言われ
母と、別に恥ずかしいなんて思ってないし隠してもいない!と憤慨しました。
今でもそれは忘れません。まぁ、まだ普通に付き合ってはいますけれど、そういう見方の人なんだな、と。
私自身なるべく父の話をするようにして、そういった見方も変えていかれたらと思っています。
ということがこの春にありまして、愕然としました。
まだ現役で働いていますし、刺激の多い毎日ですから「罹らないのかもな」と思っていましたが。
「非常にまじめ、頑固、曲がったことが嫌い、白黒はっきり、好き嫌いが激しい、融通が利かない、社交性がない、」
これ、あまりに母にピッタリ過ぎて笑っちゃいました。
そろそろ同居している兄と話し合った方が良さそうです。
ほんとにおっしゃるとおり、
「歴史を消して」いくんですよね。
全部消えてしまったら
苦しくないのかもしれませんが、
やっぱり医学でなんとかならないかと思います。
ちょうじゅになればなるほど、
こういう医学って大切ですね。
父もいずれは一人暮らし…、
施設に入ると言っています。
正直なところ、いつも人の目があることは
ありがたいです。
「記録」って大事ですねぇ。
義父がなくなったとき、書類探しに、
ぬか床までひっくり返しました。
「備え」は必要ですね。
こういうことって、何かと忌み嫌われますが、
ある人が「還暦」になったら、
ひとつまとめてみる。
あとは誕生日ごとに更新、って言ったんです。
私も来年満年齢で還暦ですから、
少し準備をと思います。
きっかけ…なんですよね。
ほんとに記憶力って、減退しますね。
鍛えれば…といわれますが、
それが面倒っていうのもトシでしょうか。
年寄りがそばにいると、自分の老い先の
勉強になりますね。
いいトシをとりたいものです。
症状ってほんとにかわりますね。
一進一退もあるし…。
とにかく「やさしく」が基本ですが、
親子だからっていうところ、あるんですよね。
進んだら、人の手を借りることも、
必要になりますから。
ゆったりいってください。