私の実父のもの。
今日父が「たぶんまだ使えると思うけど」と持ってきてくれました。
カメラ好きの方でしたら、あぁコレ、と名前もご存知かと思います。
今はもうない「小西六」のパールというシリーズ、それの「3」です。
皮カバーから出してみますとこんなです。なんかへん?レンズはどこ?
更にあけますと…はい、でてきましたー。
小西六というのは、日本に写真技術というものがはいってきて、
盛んに「写真館」ができ始めたころ、その写真の石版などの材料を扱っていた
その名も小西六兵衛さん、のお店が、後年印画紙やフィルムを扱うと同時に、
カメラも生産した…という経緯でできた会社です。
その後社名変更されたコニカ、と言えば若い方もご存知でしょう。
今はそれも吸収されて「コニカミノルタ」になっていますね。
この「パール3」は、パールシリーズの中でも評判がいいものだったそうです。
実父はたぶん、私を撮るために、無理をして買ったのだと思います。
よくよく考えて見ますと、実父が写真を撮りまくり、臭いからやめてと言われても押入れ暗室で現像し、
アマチュアのコンテストなどに出していたのは私が10歳くらいまでで、そのあとは家庭のスナップ程度です。
今の父と暮らすようになったころ「動画」、つまり8ミリとか16ミリ…が出始めました。
いまや国会でしかお目にかかれない?扇千景さんの「私にも写せます」のカセットポン時代ですね。
コニカ、ではフィルムも出しまして「サクラカラー」といいました。これ記憶にあります。
そのあとフジカラーが出たのですが、一時期は「フィルムといえばサクラ」でした。
逆転されたころを覚えています。いつのまにか店頭には「フジカラー」が並び、
「サクラフィルムください」と言うと、おくから出してくるようなあんばいになりましたっけ。
昔はカメラは高価なもの、私が小さいころは、何か写真を撮るといったら写真館に行くとか、
カメラを持っている人に借りるか、頼んで撮りにきてもらうか…そんな時代でした。
実父のカメラ好きのおかげで、私の子供時代は一年にアルバム一冊くらいの割合の写真があります。
今にして思えば、シアワセなことですね。
その楽しい?1枚、たぶん野毛山遊園地だと思うのですが…
これはこういう角度で撮れています。引き伸ばしてあるので、紙でいうとA4サイズ以上の大きさです。
母は高所恐怖症…だったのですねぇ。
かーちゃんごめんね、ハジかかせて…ド・あーっぷ!
前で平然としているのが私です。
その後、バカチョンカメラ、使い捨てカメラが出たかと思ったら、デジカメの出現、ケータイの写メ…。
パソコンで取り込んで…など、驚異的な進歩です。
今、もし実父が生きていたら、一番高い一丸レフを買って、写真だけのためにパソコンを習って、
好きなように加工することでしょう。
でも…実父の写真への思いは「リアリズムの追求」でした。
どんなに隠しても、写真には真実が写る…しかーし…私はジャマな電線なんか消してますからねぇ…。
「邪道だっ!」といわれるかもしれません。
カメラの調子は見ていません。全体には保存がいいのですが、問題は中です。
グリースがかたまってやられるのは「絞り」の羽です。一度フィルムを入れて試してみたいのですが…。
このカメラのフイルムは、ブローニーというサイズ、今のフィルムより細長いタイプです。
まだ売っているのですが、モノクロが…ない。カラーよりモノクロの方がいいんですけどねぇ。
というわけで…いつになったら着物話題にもどるんだろアタシ…。
ていたなんて、さすが物持ちのいい家系!
お父様はとんぼ様の事、可愛くてしかたがなかったんでしょうね。
幼い頃の事も写真があると、より深く思い出として残りますね。
お父上はお洒落だったのでは?
それにしても良く残っていましたね。
我が家にカメラなんて近代的なものが登場したのは私が欲しいとせっつく年頃になってから。
とんぼさんのご家庭はかなりハイカラだったご様子。
動けば良いですが、今コニカミノルタへ修理に出しても出来るかどうか。
電子部品は無いので技術者が残っているかどうかですね。
ほんっとに物持ちいいですよね。
ずっしり重たい8ミリもありますよ。
ついでに映写機も…。
一人っ子でしたから、かわいがるだけで、
叱られたことがありませんでした。
生きてたら「嫁には出さん」と言ったと思います。
本職はエンジニアでしたが、絵も書もやるヒトで、デザインもしてましたから。
進駐軍にいましたから、車とか家電品、新しい道具には、
眼がなかったですね。
母にタバコを勧めたという逸話もあります。
ビンボー暮らしだったのに…とよく思います。
コニカではすでに修理できないそうです。
浅草にクラシックカメラの修理専門店があるので、
少し時間ができたらオーバーホールに出してみるつもりです。