![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ab/5134339a97301c103319c08ba0261681.jpg)
写真は手向けの桜の一枝…のつもりで。
昨夜、阪神大震災のときの新聞記者たちのドラマがありました。
あの日から、もう15年経つのですね。
あの時はまだ船橋にいました。時計代わりのテレビをチラチラ見ながら、
家事をしていたら「関西の方で大きな地震があったようです」との一報。
親戚の集まる京都は、関東よりは日頃の地震の少ないところです。
一度、こちらに遊びに来ているときに地震があって、
震度は2くらいでしたが、こわいこわいと言っていたので、
「イトコやらみんな、こわがってるやろなぁ」…そんな程度にしか思っていませんでした。
それがだんだんニュースが緊迫してきて…。
やっと飛んだヘリから送られてきた画像は、あの「倒れた高速道路」でした。
あの映像を見たときの衝撃は、今でも覚えています。
ドミノ倒しじゃあるまいし、橋脚がきれいに何本か横倒しになっていて、
残った橋脚との境目の道路は、ちぎれていました。
落ちそうになりながら、かろうじて引っかかっていたのはバス。
「映画じゃないよね、これ現実だよね」と、アタマのなかで何度も確認しましたっけ。
京都のイトコたち、大阪の長年の友人、神戸の同級生…と、
次々はっきりと顔が浮かび、思わず電話に走りましたが…どこへも通じませんでした。
午後になって実家から連絡が入り、当時はまだ数の少なかったケータイを借りて、
やっとイトコの一家から無事の連絡があったと聞くまでは、何も手につきませんでした。
幸いにも、その後親戚も友人たちもみな無事であったことがわかりましたが、
あの一日のながかったこと…。
あのあとも、新潟の地震もありましたし、
日本以外でも、大きな地震、大津波と天災がいろいろありましたが、
そのたびに「日本人ってすごいよな」と思うのは「暴動」が起きないこと。
確かに日本は国が狭く、山奥の村が陸の孤島になった…といっても、
ヘリが飛べば、何ヶ月も放置されるようなことはありません。
まだまだ不備だらけとはいえ、それなりに手は打たれます。
何も情報が無い状態で、何も進まないときには、人が生きるために罪を犯す…。
もちろん、国の情勢、貧富の差、国民性など、いろいろな違いはあるとは思いますが、
お店を襲ったり、救援物資を奪い合ったり…そういう報道がみられることがあります。
新潟のときでしたか、外国の報道関係者が、
「日本人はすごい、こんなときでも整然と並んで水や食料を受け取っている。
我先にものを取り合う様子が見られない」といったのを聞いた記憶があります。
「こんなときはお互い様なんだから、みんなで助け合う」、
そういうものは、一朝一夕ではできあがりません。
実際には、たぶん小さい小競り合いや、トラブルはたくさんあったと思います。
しかし商売をしていた人が傾いた店の中から商品を出して「持っていって」と、
避難していく人に無償で配ったり、お金はいいからと新聞を配ったり…。
そういうことは、やっぱり根底から「培われたもの」だと思います。
「治安」ということは、イザというときこそ、大切なのですよね。
今、新興住宅地、とよばれるところに暮らし、近所の交流というものがあまりありません。
自治会もあるし、近所の方とは外で顔をあわせれば挨拶もするし、立ち話もします。
それでも、私はいまだに家でお茶飲んだりしゃべったりという交流のある人は、
ひとりしかいません。その手前の何軒かのご家庭については正確な家族構成すらしりません。
こんな状態で何かあったら…まぁ暴動のほうではなく、
互いに思いあえるだろうかと、ふと心配になります。
天災は避けようがありません。そのとき、ちゃんと「ひと」でいられるかどうか。
4億だの9億だの「私は知らない」「ちょっとした記載のまちがいだ」…。
そんなことを言っている政治家が納めるこの国、
結局は一人一人の心にかかっているのでしょう。
あわせて13億、あったら何校の学校の耐震工事ができるでしょうねぇ。
あらためて、数々の天災で犠牲となられたかたがたに、合掌。
昨夜、阪神大震災のときの新聞記者たちのドラマがありました。
あの日から、もう15年経つのですね。
あの時はまだ船橋にいました。時計代わりのテレビをチラチラ見ながら、
家事をしていたら「関西の方で大きな地震があったようです」との一報。
親戚の集まる京都は、関東よりは日頃の地震の少ないところです。
一度、こちらに遊びに来ているときに地震があって、
震度は2くらいでしたが、こわいこわいと言っていたので、
「イトコやらみんな、こわがってるやろなぁ」…そんな程度にしか思っていませんでした。
それがだんだんニュースが緊迫してきて…。
やっと飛んだヘリから送られてきた画像は、あの「倒れた高速道路」でした。
あの映像を見たときの衝撃は、今でも覚えています。
ドミノ倒しじゃあるまいし、橋脚がきれいに何本か横倒しになっていて、
残った橋脚との境目の道路は、ちぎれていました。
落ちそうになりながら、かろうじて引っかかっていたのはバス。
「映画じゃないよね、これ現実だよね」と、アタマのなかで何度も確認しましたっけ。
京都のイトコたち、大阪の長年の友人、神戸の同級生…と、
次々はっきりと顔が浮かび、思わず電話に走りましたが…どこへも通じませんでした。
午後になって実家から連絡が入り、当時はまだ数の少なかったケータイを借りて、
やっとイトコの一家から無事の連絡があったと聞くまでは、何も手につきませんでした。
幸いにも、その後親戚も友人たちもみな無事であったことがわかりましたが、
あの一日のながかったこと…。
あのあとも、新潟の地震もありましたし、
日本以外でも、大きな地震、大津波と天災がいろいろありましたが、
そのたびに「日本人ってすごいよな」と思うのは「暴動」が起きないこと。
確かに日本は国が狭く、山奥の村が陸の孤島になった…といっても、
ヘリが飛べば、何ヶ月も放置されるようなことはありません。
まだまだ不備だらけとはいえ、それなりに手は打たれます。
何も情報が無い状態で、何も進まないときには、人が生きるために罪を犯す…。
もちろん、国の情勢、貧富の差、国民性など、いろいろな違いはあるとは思いますが、
お店を襲ったり、救援物資を奪い合ったり…そういう報道がみられることがあります。
新潟のときでしたか、外国の報道関係者が、
「日本人はすごい、こんなときでも整然と並んで水や食料を受け取っている。
我先にものを取り合う様子が見られない」といったのを聞いた記憶があります。
「こんなときはお互い様なんだから、みんなで助け合う」、
そういうものは、一朝一夕ではできあがりません。
実際には、たぶん小さい小競り合いや、トラブルはたくさんあったと思います。
しかし商売をしていた人が傾いた店の中から商品を出して「持っていって」と、
避難していく人に無償で配ったり、お金はいいからと新聞を配ったり…。
そういうことは、やっぱり根底から「培われたもの」だと思います。
「治安」ということは、イザというときこそ、大切なのですよね。
今、新興住宅地、とよばれるところに暮らし、近所の交流というものがあまりありません。
自治会もあるし、近所の方とは外で顔をあわせれば挨拶もするし、立ち話もします。
それでも、私はいまだに家でお茶飲んだりしゃべったりという交流のある人は、
ひとりしかいません。その手前の何軒かのご家庭については正確な家族構成すらしりません。
こんな状態で何かあったら…まぁ暴動のほうではなく、
互いに思いあえるだろうかと、ふと心配になります。
天災は避けようがありません。そのとき、ちゃんと「ひと」でいられるかどうか。
4億だの9億だの「私は知らない」「ちょっとした記載のまちがいだ」…。
そんなことを言っている政治家が納めるこの国、
結局は一人一人の心にかかっているのでしょう。
あわせて13億、あったら何校の学校の耐震工事ができるでしょうねぇ。
あらためて、数々の天災で犠牲となられたかたがたに、合掌。
目が覚めました。その後の地震はそれまで
経験した事の無いひどい揺れで、生きた心地も
なく思わず南無阿弥陀仏と口走って階段の
手すりにしがみついていた事を思い出します。
一瞬で家族や家を無くした人の心の傷は年月が
過ぎたら消え去るものでもありません。
でも、僅かな期間で復興したのは助けあいの
精神、お互い様という日本人が持っている心が
受け継がれていたからなんでしょうね。
大きな地震はどこにも起きてほしくないですね。
地震の向きで、食器がカタカタ鳴るときが
ありますが、たいして大きくなくても、
あれを聞くと「来るっ!」と、体が固まります。
神戸は近いですもの、こわかったでしょう。
あのころはケータイもありませんでしたしね。
ヒトの心と、いい道具…でしょうか。
災害は忘れたころに・・・といいますが、
それで起こった悲劇は、いつまでも
忘れることができませんよね。
ハイチはひどい状態で、心が萎えます。