写真は近所の公園のユリノキ、葉っぱが半纏に似ているので
「半纏の木」ともいわれています。ほんとに特徴的な形ですよね。
今年は桜もなんですが、少し黄葉が遅い感じがします。
そろそろ茶色のマダラができ始めたもの、黄色いまま散っているもの、
まだまだ緑のもの、はっぱが大きいから見てもきれいですね。
ちょっといろいろ写してみました。
今日はお天気がよくて、前の日の雨で空気もきれい、色のコントラストがグっ!
できるだけ幹に近づいて、ひっくり返りそうになりながら…。
幹の一番下のほうから生えている小枝クン。
いっちょまえに、二枚しかないはっぱが枯れはじめています。
ちゃんと「伝えられている」ってことですよね。
これから葉を落として寒い冬に耐え、春になったら芽を吹いて、
きっともう一枝伸ばし、はっぱも何枚か増やすのでしょう。
私たちは、次世代に伝えるべきことをちゃんと伝えてきたのだろうか…。
このひょろりんと、でも元気に伸びた細い枝を見ながら、
ふっとそんなことを思いました。
着物に関してはもぉ…伝わってないでしょ、としかいいようがありません。
もったいないことです。
戦争ってぇモノもいけなかったのですが、それにしても、
今遅ればせながらでもいいから、先日からしつこく言っている「選択眼」を
ちゃんと持ってほしいと思うのです。
私はこれまた以前から言っておりますが、ポリ着物もインクジェットも否定しません。
選択肢が増えただけのことで、それを選ぶ理由と基準が、
自分のなかでしっかり確立していればそれでいいと思うのです。
たとえば…今の時代、よほど着物好きとか、着物が珍しくないうちでもなければ、
若い女性が「持ち物」として着物をたくさん持つ時代ではありません。
成人式でさえ「私振袖よりブランドのスーツと毛皮のコートがいい」なんて、
おっそろしく悲しいことをいう女性も出てきています。
買ったところで、何度も着ないですよね。
私が若いころは、振袖は結婚するまでしか着られないけど、
まぁお正月と、お友達や身内の結婚式と…と、そんな感じでした。
ところがいまや振袖は「成人式のコスチューム」で、
お正月の初詣は普段着か、おしゃれな洋装、結婚式はカラーフォーマル…。
こうなると、ほんとに数えるほどしか着ないわけです。
おまけにそれを誰かに伝える、なんてことは今はあまり考えません。
いずれ結婚して女の子が生まれたら、とか孫の代まで着られるようにするとか…。
昔、着物は誰か別の人が着ること、何かに作り変えることが、
当たり前だったわけですから、着物を作るときからそれをアタマにおいていたわけです。
いい着物ほど、伝えることが当然だったのですね。
時代がかわって、いっときのイベント衣装感覚で振袖を着る、
そのこと自体の是非は、ここでは申しませんが、
要するにいずれすぐ用がなくなるもの、ならば、ポリでも貸衣装でも
私はかまわないと思います。
そのかわり、ポリの振袖というものが、正絹のちりめんや綸子とどう違うのか、
インクジェットと友禅染はどう違うのか。
自分は(自分の娘は)こういう理由でこれを選ぶ…という
はっきりと判断しているかどうか、
そういう意識をしっかり持ってほしいと思うのです。
私たちは普段買い物をするとき、衣料に限らず食品でも道具でも、
自然と「目的別に選ぶ」ということをしています。
しょっちゅう自分が関わるものは、値段も品質もけっこう気にする、
人に送るときは「まさか安物送れない」と、自分のためには買わないものを送る、
そういう選択をちゃんとやっています。
それは、その素材とか価値とかを理解し、目的にあわせて選ぶというワザを
ちゃんと使っているわけです。
着物でも、そういう知恵や知識や判断力・選択力が、あったほうがいいわけです。
安いからこれでいい、と価値もわからず知ろうとしなかったり、
逆に価格だけでとびついてしまう…もったいないことです。
洋服や野菜などでは「なんで安いのか」、けっこう知っています。
大手商社やスーパーでは、大量に仕入れるから、
産直なら中間マージンがないから、中国製だから、時として「倒産品だから」
なんて理由もあります。
食物自給率は知っていても、生糸の自給率は知らない、
いや、そんなことは数字で知らなくてもいいのですが、
今安く売られている着物は「○○という理由で安い」ということを、
知っておくことが、結局は損をしないことだと思うのです。
消費者が賢くなるということは、長い目で見れば、
売り手作り手を育てることにもなるのです。
食品偽装が相次いで、私たちは用心深くなりましたよね。
完全国内産が少ないことにも気がつきましたよね。
着物だけが、どこでどう作られたかわからないものでいい、わけはないのです。
上ばかり見ていて首がいたくなるほど写真を撮って、
やれやれと前を見たら、りっぱな幹がありました。
ここまで育つ間に、どれだけの雨嵐に耐えてきたのでしょうね。
いいカオだと思いませんか?
「半纏の木」ともいわれています。ほんとに特徴的な形ですよね。
今年は桜もなんですが、少し黄葉が遅い感じがします。
そろそろ茶色のマダラができ始めたもの、黄色いまま散っているもの、
まだまだ緑のもの、はっぱが大きいから見てもきれいですね。
ちょっといろいろ写してみました。
今日はお天気がよくて、前の日の雨で空気もきれい、色のコントラストがグっ!
できるだけ幹に近づいて、ひっくり返りそうになりながら…。
幹の一番下のほうから生えている小枝クン。
いっちょまえに、二枚しかないはっぱが枯れはじめています。
ちゃんと「伝えられている」ってことですよね。
これから葉を落として寒い冬に耐え、春になったら芽を吹いて、
きっともう一枝伸ばし、はっぱも何枚か増やすのでしょう。
私たちは、次世代に伝えるべきことをちゃんと伝えてきたのだろうか…。
このひょろりんと、でも元気に伸びた細い枝を見ながら、
ふっとそんなことを思いました。
着物に関してはもぉ…伝わってないでしょ、としかいいようがありません。
もったいないことです。
戦争ってぇモノもいけなかったのですが、それにしても、
今遅ればせながらでもいいから、先日からしつこく言っている「選択眼」を
ちゃんと持ってほしいと思うのです。
私はこれまた以前から言っておりますが、ポリ着物もインクジェットも否定しません。
選択肢が増えただけのことで、それを選ぶ理由と基準が、
自分のなかでしっかり確立していればそれでいいと思うのです。
たとえば…今の時代、よほど着物好きとか、着物が珍しくないうちでもなければ、
若い女性が「持ち物」として着物をたくさん持つ時代ではありません。
成人式でさえ「私振袖よりブランドのスーツと毛皮のコートがいい」なんて、
おっそろしく悲しいことをいう女性も出てきています。
買ったところで、何度も着ないですよね。
私が若いころは、振袖は結婚するまでしか着られないけど、
まぁお正月と、お友達や身内の結婚式と…と、そんな感じでした。
ところがいまや振袖は「成人式のコスチューム」で、
お正月の初詣は普段着か、おしゃれな洋装、結婚式はカラーフォーマル…。
こうなると、ほんとに数えるほどしか着ないわけです。
おまけにそれを誰かに伝える、なんてことは今はあまり考えません。
いずれ結婚して女の子が生まれたら、とか孫の代まで着られるようにするとか…。
昔、着物は誰か別の人が着ること、何かに作り変えることが、
当たり前だったわけですから、着物を作るときからそれをアタマにおいていたわけです。
いい着物ほど、伝えることが当然だったのですね。
時代がかわって、いっときのイベント衣装感覚で振袖を着る、
そのこと自体の是非は、ここでは申しませんが、
要するにいずれすぐ用がなくなるもの、ならば、ポリでも貸衣装でも
私はかまわないと思います。
そのかわり、ポリの振袖というものが、正絹のちりめんや綸子とどう違うのか、
インクジェットと友禅染はどう違うのか。
自分は(自分の娘は)こういう理由でこれを選ぶ…という
はっきりと判断しているかどうか、
そういう意識をしっかり持ってほしいと思うのです。
私たちは普段買い物をするとき、衣料に限らず食品でも道具でも、
自然と「目的別に選ぶ」ということをしています。
しょっちゅう自分が関わるものは、値段も品質もけっこう気にする、
人に送るときは「まさか安物送れない」と、自分のためには買わないものを送る、
そういう選択をちゃんとやっています。
それは、その素材とか価値とかを理解し、目的にあわせて選ぶというワザを
ちゃんと使っているわけです。
着物でも、そういう知恵や知識や判断力・選択力が、あったほうがいいわけです。
安いからこれでいい、と価値もわからず知ろうとしなかったり、
逆に価格だけでとびついてしまう…もったいないことです。
洋服や野菜などでは「なんで安いのか」、けっこう知っています。
大手商社やスーパーでは、大量に仕入れるから、
産直なら中間マージンがないから、中国製だから、時として「倒産品だから」
なんて理由もあります。
食物自給率は知っていても、生糸の自給率は知らない、
いや、そんなことは数字で知らなくてもいいのですが、
今安く売られている着物は「○○という理由で安い」ということを、
知っておくことが、結局は損をしないことだと思うのです。
消費者が賢くなるということは、長い目で見れば、
売り手作り手を育てることにもなるのです。
食品偽装が相次いで、私たちは用心深くなりましたよね。
完全国内産が少ないことにも気がつきましたよね。
着物だけが、どこでどう作られたかわからないものでいい、わけはないのです。
上ばかり見ていて首がいたくなるほど写真を撮って、
やれやれと前を見たら、りっぱな幹がありました。
ここまで育つ間に、どれだけの雨嵐に耐えてきたのでしょうね。
いいカオだと思いませんか?
あの最近の「はかま姿」はなんとかならないものかと
毎年思っています。
ヘンな言い方かもしれませんが、
決まりごとではないけれど、当たり前のこと
たとえば振袖に「おたいこ」は結ばないし、
ウールにキンキラ帯はしめないとか、
そういうことの中に「はかまってのは」
というのがもう抜け落ちて、
何でもいいから華やかにかわいらしく…。
「付加価値」のつもりかもしれませんが、
もう作り手が、ちゃんとしたものを
見えなくなっている気がします。
しょい綿は暖かいですよね。
ご好評でなによりです。
ほんとに、もっと気楽にと思います。
わからないから、どこかでなにか言われると、
そこから動かないんですね。
いいことも悪いことも、みんな固定されてしまって
損していることに気がつかない…。
だいたい「考える」ということを、
なんか放棄している気がします。
なんでも「疑問」を感じることが
大切だと思うんですけどねぇ。
大本の職人さんや、待場の小さな呉服屋さんなんかは
努力していてくれるんですが、
なぜか一番お客の多くいくようなところが、
そろばん先行なんですよ。
私は、町の呉服屋さん同士の横のつながりって
もっとできないものかなと思っています。
大きなところに対抗するには、
そういう結束も必要だと思います。
買うほうも、わざわざ大手とかへ行くんですけどね。
私はチェーン店などは、絶対お勧めしてません。
着物の知恵を持つ店員さんが期待できないからです。
酸ツリー、お買いになったんですね。
がんばって…ただし直前に作ってくださいね。
自然のものの力強さは、物言わぬ強さで、
ココロにしみしみしますね。
おぉ繊維関係でしたか。
「繊維」の本っておもしろいですね。
私も、わかりもしないのに、いろいろ読んでます。
着物のことって、少しでもわかる人だと、
話していても、昔はねぇなんて続くんですが、
一から説明…の場合は「こんなに知らないんだ」と、悲しくなります。
若い人ならともかく、同じくらいのひとなのに。
お母様は、お祖母様に対する反感?かにゃ?
それにしても、何で着物なんか?って
言われることは、少ないですけど、
悲しいですねぇ。
戦後、アメリカ文化にどーっと流されてしまった
日本人も、うかつだったんだと思いますが、
売る側の努力も方向が違ってしまいましたから。
ダレだけが悪いということではないのですが、
私たちも職人さんも「損」してるんですよね。
なんとかならないものかと、
ごまめの歯軋りを続けています。
この幹、ほんとにいいカオです。
魚拓ならぬ「木拓」をとりたくなりました。
それは残念でしたね。
まぁ成人式に着物を着る、ということからして
なんとなく意味がわからない部分もありますね。
ただ、振袖は嫁入り前しか着られませんから、
いつか貸衣装でもいいから、
写真一枚とっておくと、記念になりますよ。
フシギなもので、年をとってから
ああ着ておけばよかった、なんて思うものなんです。
私も普段洋装ですから、着物はやはり絹物主体です。
ポリは汚れる可能性のある場合。
そんなふうに、自分の暮らしの中で、
ちゃんと自分なりの線引きができることが、
無意識にできることが、失敗のないことだと
そんな風に思います。
私の着物と自分で選んだ貸衣装。
あれから2年、今度卒業式で袴と着物を着たいと言って学校から貰ってきたパンフレット。
品の無さに絶句でした。
袴に刺繍や大柄が入っていたり、着物の襟にレース・・・
昔は、とは言いたくないが、これで大学の卒業式!?水商売の顔見せじゃないの?
主人もそんなのに金払いたくないと激怒。
私の着物に無地の袴を借りて終わらせようかと思っています。
とんぼさんの処で知った背負い真綿を入れた羽織下を祖母の縫った着物を解いて何枚も縫いました。
着てないように軽いのに暖かいと大好評です。
祖母の着物はあっちこっち繕った部分が有るので、娘に見せて説明しています。
100年以上経って居るのにまだ使える、着物・絹物のすばらしさを娘に伝えたいです。
ことなのでしょうか?
<着てみたいけど、まわりの目が...>で、
あきらめてしまうことのほうが危険なのでは...。
<これ、ポリなんです、正絹じゃありません>って
言わなくてはいけないの?
<パーテイではこれが一番よいのですよ、なんていっても
手入れが簡単ですから...>じゃだめ?
私が思うにそういう考え方が出来ない着物の世界が
おかしい!のではないかと...。
正絹じゃなければ...ではなく、TPOにあわせて
柄や帯を選んで...のほうが好きですね。
もう、普通に着物を楽しむ文化は後退して久しく、
品の良し悪し、お値段先行で価値が決まって、
着る人の品格まで...になっていませんか?
このあたりで着物文化の見直しが根本からされるのなら、
私は着物を扱う人に自覚を促したいのです。
着たい!!着物を、着せてあげたい!!着物に高め、
お値段だけが、価値をきめるような目をやめて、
もっと学びながら、日本の着物文化にふれることを
若い方たちに教えてあげて欲しいと心から思うのです。
言葉足らずですが...。
先日手伝ってもらいながら、ようやく鉢植えの植え替えを
終わらせました。切った茎から芽を出して、根っこと茎が
別々に仕事をして世代を伝えているのだなと感じました。
伝える事は祈りに近いな、と思います。
静かに、力強く、あきらめない!そうすれば、眠った根っこから
新しい芽が出るような…感じがします。
先日の酸ツリー今日届きました^^お教えいただいて
ありがとございます!
先日 飲み会でポリ縞着物に正絹帯で出かけました。飲み会といってもアカデミックな会で還暦オーバーの男性が半分以上ですのに、以前は結城にレモン汁飛ばされたので、以来ポリか木綿と決めました。そういう席に着ていくワタスもバカなのかもしれませんが、ポリ縞着物に
『おっ、これが大島ですか、いいですね♪』と大先輩がお世辞のつもりか言いましたTT
『ポリですよ。小紋ですよ。』といっても
『小紋てナンデスカ?着物といったら大島ではないのですか』です。
彼に限らず男女含めて20人以上全滅です。
和裁習ったり日本刺繍習っている私に母も『何でそんなの習うの?バカでないの?』とハッキリ言います(亡祖母は和裁教室の鬼先生でした)し、海外アルピニストの義母はネパールだかどっかの民族衣装は着て自慢するのに、『着物なんて着て』といいます。まぁ こうして文化が廃れるのも運命だとコアラ師匠はいうのですけどね。(-_-)
それはそれで、「○○だからこれでいい」と言う
理解して納得してのお買い物ならそれも良いと思います。
でも、知らずに「安いから」だけで買ってしまうのは、
作り手さんを減らしてゆくだけなんですよね。
今の「デフレ」の様に、海外で作ってしまうのは
安上がりかもしれませんが、国内で作っている方の着物が売れなくなってしまう。
そうすると、売るためには安くするしかなくて、
安くすると職人さんが減ってしまう。
技術も失ってしまう。
そして、技術を持った職人さんが減ってしまうと、
本物が少なくなり高価になって、更に手に入りにくくなる。
そして、伝統文化が消えてゆく。。。
私も着物の職人さんや、伝統工芸の職人さんたちを
もっと沢山の方に伝えるにはどうにか出来ないかな。。。
なんて思案しています。
私に思いつく事はたかが知れていますが。。。
木の幹、良い顔していますね。
風雨にさらされても力強く生きてきた生命力が感じられます。
それに、この幹を見ていると私には自然の英知を感じます。
来年も元気な若葉を茂らせてくれるのでしょうね。
半年くらい前、とんぼさんにたくさん相談に乗っていただいた振袖の件ですが、なんだかんだ言ってわたしの振袖は作らないことになりました。弟の受験で忙しいから、ということです。最初は母も賛成していたのに、烏の着物は、振袖でなく趣味で作れば、と言われてしまいました…。
成人式も時間的に出られないし、母は忙しいらしく、たまに帰ってきても家の振袖を出してくれる気配もないし、あきらめます…。
とんぼさん、その節は本当にありがとうございました。実行に移せなくてごめんなさい。
将来、私が自分で着物を仕立てるときは、またアドバイスよろしくお願いしますねっ
思います。私も普段ちょこっと着て出掛ける
着物は惜しげなく着られる程度のお値段で、
それでいて正絹の物。改まったお席に着る
着物はひけを感じない程度にはりこんだ物と
決めています。
自分で納得して、正絹を身にまとっているという自己満足かもしれませんが・・・