昨日のコメントに「銃後」の暮らしについて触れておられるかたがありました。
戦争は、その戦いの現場にいる人たちと、ふるさとでその安否を気遣う人と、
そのどちらにも過酷な運命をたどらせました。
息子が出生・戦死したからと、その嫁が次の跡取りの次男と結婚する、
なんてざらにあった話です。友人のご主人のお母様も、戦死したご主人の子達と、
その弟さんを父とした子供たちと、すべて育てたそうです。
また、私の主人側の叔母は、嫁いだものの子供だけとられて還され(理由は不明)
実家へ出戻ったものの、直後に実家の跡取りであった弟が戦死、
叔母はそのまま実家にとどまり、とうとう結婚はせず、
女の子を養女に迎え、結局その叔母が跡取りとなりました。
たった数ヶ月の結婚生活だった人、せっかく復員した夫が今でいうところの
PTSDで腑抜け状態になったり、また戦地で受けたケガや病気で、
結局は寝付いてそのままになってしまった人…。
そういう苦しみを持った人の数は、詳しく数えられていません。
子供のころ、近くに右手の上腕部半分から腕がない老人がいました。
戦地でケガをし、野戦病院で切り落とされたのだそうです。
きちんとした病院なら、適切な「外科的」な処置がなされたでしょうが、
ろくな手当てもできない戦地のこと、その老人の傷口は、
本当に「皮をひっぱって絞って縫い縮めた」という処置で、
傷口は巾着のように絞られ、みょうな形の肉片が小さくぶら下がっていました。
それでもそれを隠すことなく、夏はいつもランニングシャツに短パンで
歩いておられました。生きていること、それだけで良かったのだと思います。
横浜駅がまだ入場券を買わないと西口から東口に抜けられなかったころ、
今のオカダヤの前あたりに「地下連絡通路」がありました。
そこに「傷痍軍人」がいたのを何度か見ています。その姿が怖かったです。
先日は東京大空襲で生き残った本屋さんが、戦後初めて語る…と、
今はニギヤカな通りになった一角を指差して、
「そこに真っ黒焦げの遺体が、二階に届くほど積み上げられていた」と…。
未だに「生死不明」の家族を持つ人もたくさんいます。
戦争は、終わった後も延々と人を苦しめるものです。
戦いに行って、怖い思いをして、人の命を奪って、生き延びて…、
それもどんなにかつらいことだったかと思います。
そしてまた、夫や息子の無事を祈りながらも自由な言葉で励ますことも、
生きて帰れということもできず、ひたすら貧困と命の危険の中で暮らし、
ようやく生き延びたら「戦死」の公報…、遺骨も遺髪もなく、
石ころ一つ入った骨壷で「未亡人」や「片親」にされ、
焼け野原で生き延びねばならなかった人が、どれだけいたことか。
戦後11年目に、経済白書で「もはや戦後ではない」と言う言葉が使われました。
確かに、勤勉で誠実な日本人は「焼け野原」から、
わずか十年で、ほんとにみごとに復興しました。
しかし、終わったのは戦争直後の混乱と貧困だけで、
人々の心が背負っている「戦争」は、終わることはなかったのです。
今、老いた人たちが、まるで申し合わせたように「戦争を語らねば」と、
次々重い口を開いています。
あまりにも過酷な運命を、もう一度見据えることは、大変なことだと思いますが、
そういう話は、何度も聞いていると同じようなハナシに聞こえます。
でも、大切なのは「何の話か」ではなく、それを何時までも語りたいという思い、
つまりそういう人たちには「戦後」はいつまでたってもこない、ということです。
戦争のさなかの惨状、そして戦争が終わった後の惨状、
なんとか「形」は整い、モノには恵まれるようになってなお、
「失ったものの大きさ」は、少しもかわっていないということ、です。
あと20年も経てば、戦争の記憶を持つ人は、ほとんどいなくなるでしょう。
そのとき、私たちが鮮明に覚えていなければならないこと、
語り伝えていかにければならないこと、は「戦争はいけない」ということと共に、
「戦争というおろかさと恐ろしさの結果は、やっている間だけでなく、
その後もずっと続くものであり、その苦しみは国による保障だの、
お金によるねぎらいなどでは、決してすまされるものではない」ということ。
私たちは「戦争」そのものの恐ろしさは知りません、でも、
今、白髪で、病気や障害を持つ体で、必死に自身の経験と悲しみや苦しみを
訴える人たちとは、リアルタイムで会っているのです。
「そういう人」に自分がならないように、自分の子供や孫がならないように、
次は私たちが「そういう人とリアルタイムで話しを伝えられた世代」として、
語り伝えねばならないと思うのです。
この時期になると思い出す風景があります。
以前にも書きましたが、子供のころに母と訪ねた「元・母の会社の同僚」の家、
本人は戦死しており、品のいいお母様が「生きて戻ったらあなたを嫁にもらう、
と言っていた」と母に言いました。私のことをこんな孫がいたかもねと、
やさしく言ってくれました。その人が戦死しなかったら、
今の私はここにいません。命と命の出会いを捻じ曲げるのも戦争です。
りっぱなお屋敷の大きな玄関で、何時までも私たちを見送ってくれた
白髪のきれいなおばあさん、もう顔も覚えていませんが、
私にとっての「戦後の写真」なのです。
生き延びてくれた親から生まれた私たち、今の平和をありがたく思いつつ、
また明日からがんばろうと思います。一日遅れでもう一度
「すべての戦没者に・合掌」
戦争は、その戦いの現場にいる人たちと、ふるさとでその安否を気遣う人と、
そのどちらにも過酷な運命をたどらせました。
息子が出生・戦死したからと、その嫁が次の跡取りの次男と結婚する、
なんてざらにあった話です。友人のご主人のお母様も、戦死したご主人の子達と、
その弟さんを父とした子供たちと、すべて育てたそうです。
また、私の主人側の叔母は、嫁いだものの子供だけとられて還され(理由は不明)
実家へ出戻ったものの、直後に実家の跡取りであった弟が戦死、
叔母はそのまま実家にとどまり、とうとう結婚はせず、
女の子を養女に迎え、結局その叔母が跡取りとなりました。
たった数ヶ月の結婚生活だった人、せっかく復員した夫が今でいうところの
PTSDで腑抜け状態になったり、また戦地で受けたケガや病気で、
結局は寝付いてそのままになってしまった人…。
そういう苦しみを持った人の数は、詳しく数えられていません。
子供のころ、近くに右手の上腕部半分から腕がない老人がいました。
戦地でケガをし、野戦病院で切り落とされたのだそうです。
きちんとした病院なら、適切な「外科的」な処置がなされたでしょうが、
ろくな手当てもできない戦地のこと、その老人の傷口は、
本当に「皮をひっぱって絞って縫い縮めた」という処置で、
傷口は巾着のように絞られ、みょうな形の肉片が小さくぶら下がっていました。
それでもそれを隠すことなく、夏はいつもランニングシャツに短パンで
歩いておられました。生きていること、それだけで良かったのだと思います。
横浜駅がまだ入場券を買わないと西口から東口に抜けられなかったころ、
今のオカダヤの前あたりに「地下連絡通路」がありました。
そこに「傷痍軍人」がいたのを何度か見ています。その姿が怖かったです。
先日は東京大空襲で生き残った本屋さんが、戦後初めて語る…と、
今はニギヤカな通りになった一角を指差して、
「そこに真っ黒焦げの遺体が、二階に届くほど積み上げられていた」と…。
未だに「生死不明」の家族を持つ人もたくさんいます。
戦争は、終わった後も延々と人を苦しめるものです。
戦いに行って、怖い思いをして、人の命を奪って、生き延びて…、
それもどんなにかつらいことだったかと思います。
そしてまた、夫や息子の無事を祈りながらも自由な言葉で励ますことも、
生きて帰れということもできず、ひたすら貧困と命の危険の中で暮らし、
ようやく生き延びたら「戦死」の公報…、遺骨も遺髪もなく、
石ころ一つ入った骨壷で「未亡人」や「片親」にされ、
焼け野原で生き延びねばならなかった人が、どれだけいたことか。
戦後11年目に、経済白書で「もはや戦後ではない」と言う言葉が使われました。
確かに、勤勉で誠実な日本人は「焼け野原」から、
わずか十年で、ほんとにみごとに復興しました。
しかし、終わったのは戦争直後の混乱と貧困だけで、
人々の心が背負っている「戦争」は、終わることはなかったのです。
今、老いた人たちが、まるで申し合わせたように「戦争を語らねば」と、
次々重い口を開いています。
あまりにも過酷な運命を、もう一度見据えることは、大変なことだと思いますが、
そういう話は、何度も聞いていると同じようなハナシに聞こえます。
でも、大切なのは「何の話か」ではなく、それを何時までも語りたいという思い、
つまりそういう人たちには「戦後」はいつまでたってもこない、ということです。
戦争のさなかの惨状、そして戦争が終わった後の惨状、
なんとか「形」は整い、モノには恵まれるようになってなお、
「失ったものの大きさ」は、少しもかわっていないということ、です。
あと20年も経てば、戦争の記憶を持つ人は、ほとんどいなくなるでしょう。
そのとき、私たちが鮮明に覚えていなければならないこと、
語り伝えていかにければならないこと、は「戦争はいけない」ということと共に、
「戦争というおろかさと恐ろしさの結果は、やっている間だけでなく、
その後もずっと続くものであり、その苦しみは国による保障だの、
お金によるねぎらいなどでは、決してすまされるものではない」ということ。
私たちは「戦争」そのものの恐ろしさは知りません、でも、
今、白髪で、病気や障害を持つ体で、必死に自身の経験と悲しみや苦しみを
訴える人たちとは、リアルタイムで会っているのです。
「そういう人」に自分がならないように、自分の子供や孫がならないように、
次は私たちが「そういう人とリアルタイムで話しを伝えられた世代」として、
語り伝えねばならないと思うのです。
この時期になると思い出す風景があります。
以前にも書きましたが、子供のころに母と訪ねた「元・母の会社の同僚」の家、
本人は戦死しており、品のいいお母様が「生きて戻ったらあなたを嫁にもらう、
と言っていた」と母に言いました。私のことをこんな孫がいたかもねと、
やさしく言ってくれました。その人が戦死しなかったら、
今の私はここにいません。命と命の出会いを捻じ曲げるのも戦争です。
りっぱなお屋敷の大きな玄関で、何時までも私たちを見送ってくれた
白髪のきれいなおばあさん、もう顔も覚えていませんが、
私にとっての「戦後の写真」なのです。
生き延びてくれた親から生まれた私たち、今の平和をありがたく思いつつ、
また明日からがんばろうと思います。一日遅れでもう一度
「すべての戦没者に・合掌」
やはり戦地での悲惨な光景を目の当たりに
していたからだったのでしょう。
一番上の姉が母のおなかにいる時に名前だけ
つけて戦地に行ったと聞いています。
こんな事が自分の身に降りかかったらと
思うだけで母はどんなに心細かっただろう、
父はわが子の顔も見られず、いつ帰れるかも
しれない、そんな思いをしていたんだろうなと
今更ながら思いました。
着物はほとんど食糧に変わり、鍋釜だけでなく貴金属も供出させられ、犬も供出させられたと言って涙ぐんでいました。
犬は軍用犬にされたのではなかったらしいと言っていましたが、調べてみたらこんなところがありました。
http://www.nskk.org/tokyo/data/9511sengo/0018.htm
私も「不戦の誓い」をもう一度
「すべての戦没者(動物も含む)に・合掌」
そして、とんぼさまに・敬礼
そうですか、
陽花様のお父様も戦地にいかれたんですね。
私の父は、胸が悪かったために召集はされず、
肩身が狭かったようです。
そういう時代だったんですね。
お母様も、ほんとによく辛抱なさったんですね。
子供を抱えると女は強いですけれど、
それでも、泣きたいこともたくさんあったでしょう。
みんな生きててよかったです。
MH様
お年寄りに着物の話を伺うと、
「いいものはみんな食べちまった」とよく聞きます。
お米や野菜に替わっちゃったんですね。
動物にとっても受難の時代だった…。
なにひとついいことなんてありゃしないんですよね。
HPのご紹介ありがとうございました。
拝見させていただきました。
こういうことも、語り伝えたいですね。
ミッチ様
そうです。今もやっているのですよね。
世界のあちこちで…。そのお友達、沖縄で
少しは心癒されておられるでしょうか。
生きていってほしいですね。
とんぼの幼稚園BFだったヒー君、
これ読んでくださってるかな。
左の一番下「とんぼへのお便り」から
メールでもくださいな。
やだねぇ、中学生のキミしか思い出せませんがな。
お互いおじさんおばさんになっちゃったもんねぇ。
道で会ってもわかんないんじゃない?
昔は、今のようないい車イスとか義足とか
ありませんでしたから、
けっこう目に痛い姿も見ましたね。
片腕を失い復員後漫画家に。
「水木しげるの昭和史全8巻」に詳しいです。
その水木さんが数日前のテレビ番組で言われた事。
戦後人にに同情したことがない、なぜか、
それは戦場でばたばたと死んで行った人達がこの世で一番かわいそうだからです。
腕がない事に不自由はないですか?の質問に、
生きて帰れなかった人に比べれば、私は腕がないだけなんです。
戦場に行った人の気持ちはこれですべてが言い尽くされてると思いました。
また、銃後の家族の戦後は、とにかく自分の意思を押し殺して生きていた・・・と今ずーっと考えています。
友人のお父さんも、いやに若いなと思っていたら、戦死したお父さんの弟さんだった。
残された兄の子供を育てる一心で姉さんと結婚した。
こう言う話題を書いて下さってありがとうございます。原爆や空襲の話は大々的に取り上げられますが、こう言う一面を伝えるものは殆どありません。
昨日、ちょっと腹たった事を書かせて下さい。
都内某ビルの地下街で原爆展をやっていて、偶然通りかかったので足を止めました。
やっぱり絶対やってはならない事と強く思う写真展で、このような写真に数多く出会う機会を作る事は大切、いい企画だと思いました。
結構若い人が足を止めていました。
そばで展示会管理受付の中年女性が数人、大きな声でおしゃべりに大笑いしながら折鶴を折っていました。
涙も出ないほど衝撃を受けながら見ているすぐそばでのこの態度はとっても違和感がありました。
悪気は全然ないのはわかっていますがマナーは大切だと思いました。
原爆展ですよ!
すみません、あらぬ方向へ飛んでしまって。
失礼しました。
先日いただいたコメントのお返事、
すっかり失念しておりましてすみませんでした。
水木しげるさんのドラマを、この前見ました。
よく生きて戻られたものだと思います。
淡々と語られても、その内容は
ドラマのシーンなんかではとても言い尽くせない
もっともっとおぞましいものだと思います。
大きな出来事から、片隅の小さな出来事まで、
戦争の被害は重さは同じだと思います。
受付の女性たち、悪気はなくても無神経ですね。
最近、緊張感に欠けるといいますか、
「相手」がいるとかそれが誰だとか、
そういうことを敏感に感じない人が気になります。
「世間様」という言葉を使わなくなって久しいです。
沢山の中に自分はいるのだ、と言う意識から
誇りとか謙虚さとか思いやりとか感謝とか、
生まれるものだと思うのですが…。