本日の朝顔、お昼過ぎてますが雨なのでまだ開いています。
本日は、またNHKの「めしませ きもの」の話題です。
今回は「ゆかた」の話題でした。
なんかねぇ…いろいろ考えてしまいました。
今回の内容は、「おしゃれ工房」の今月号に載っています。
着物スタイリストの秋月洋子さんのお話、彼女は石田節子さんに師事して、
着物のお勉強をなさった方です。
で、「秋月流 大人のゆかたの着こなし提案」ということなのですが…。
大人のゆかたの装いポイントとして「上質素材をえらぶこと」
「たびをはくこと」「お太鼓結びをすること」だそうです。
この上質ってところは、まぁ妥当な説明といいますか、要するに、
普段盆踊りなんかに行くのは「綿コーマ」とよばれるもの、
おでかけに着るなら「絞り」「綿紅梅」「綿麻」など…なんたらかたら。
これらはじゅばんを重ねれば単着物として着られる…云々。
このあたりは、そうそう…です。
まぁ次にいきましょう。
ゆかたは素足のイメージですが、電車に乗るとか…まぁ要するに
ちょっとした「おでかけ」ですね、
そのときはたびを履くのが「大人のマナー」…。
私、これってそう考えたくなる気持ちは、わからなくもないんです。
たとえば、ウン十年前までは、ゆかた着て出かけるのは、
地元のお祭りとか、花火大会とか、ゲタつっかけて行くところだったんですね。
だいたい私たちは、そんなことなくても、夕方お風呂上りや行水あとに
ゆかた着て遊んでました。だれちゃんとこで花火するー、なんて言って…。
それが、着物離れがあり、地域のお祭りもどんどん縮小、あるいはなくなり、
暮らしが豊かになった分「祭り見るなら浅草の…」とか「神田の…」とか。
朝顔市だの花火大会だの、みんな電車に乗ったりしておでかけするところです。
でも、ちょっと前までみんな洋服で「最近は初詣もお祭りも、
着物姿が減って寂しいね」なんていってました。
いつごろからでしょうか「ゆかたブーム」とやらで、
急に若いお嬢さんたちが、トロピカ~ルなゆかたを着るようになりました。
だから、ゆかたで電車もそれは時代の流れで、仕方ないと思うわけです。
でも、そういうことになって「変えなきゃならない」のは、
実は「浴衣は日が落ちてから着るものだ」とか
「遠くまで電車に乗っていくのに着るものじゃない」という
私たちの昔の生活に浸かった感覚の方です。
こういう世の中なんですから、地元で夕方だけ着なさい、といったら、
着るときがなくなります。
少しずつ古い意識も、納得して変えていかなきゃならないと思っています。
だから今の時代に見合う、新しい「ゆかたのスタイル」というのを
考えていくことは、悪いことではないと思うんです。
ただ、それならそれで、元からのことを踏まえて、こうするとどうだろ、
というものでないと、そのうち「何でもあり」になってしまう気がするんですね。
たとえば今回の内容では、「ゆかたでも足袋をはくことで
きちんとした印象になる」とか「おたいこを結ぶことでゆかたに風格が出る」とか。
「ちょっといいものを選んで、たびできちんとした印象をもたせ、
おたいこをしめることで風格を出す」なら、
以前からあーだこーだ言ってる「ゆかたと木綿着物」の境目、
ってことなんですよ。
載っている写真では、結構渋めの綿紅梅とかきているので、
たびにお太鼓でも違和感はないのです。
ただ「じゅばんをきていない」ので襟元がゆかたそのもの、なわけです。
これも見慣れていけば、こういうものもアリになっていくのでしょうか。
なんでもそうですが、若い人が着ているものを見て、
おばちゃんやばーちゃんが「なんだあれは」と顔をしかめる…。
でも、しばらくすると目慣れてしまい、場合によっては、
そのテイストをおばちゃんたちも取り入れたりし始める…。
ミニスカートなんかいい見本ですね。
服飾の文化というものは、そうやって変化していくものだとは思います。
ですから私は「ゆかたにたび、おたいこ」も、頭から「こんなのだめだ」とは
言いたくはありません。
いつもゆかたと木綿の単、のことが出るというのですが、
「ゆかたは生まれたときからゆかた、で、袷になったことはない。
木綿の単はかつて、絹の着物と同じように冬は袷、夏は単で着られていた。
そういう違いがある」なんです。
大雑把に分けても「単の木綿は織が主」で、「ゆかたは染めが主」です。
絹物は「染め」が格上、織が格下、ですが、
木綿は「織が格上、染めが格下」がおおいんです。
絹物でも「紬だけど、染め紬だから」…と小紋に近づけた着方ができます。
木綿も同じだと思います。
つまり、染めだけど単の木綿の風合いだから(綿紬や紅梅など)、
或いは「小紋っぽい色柄だから」と、襦袢着てたびはいての着方ができる。
あくまで「それに近づくことができる」というだけで、
同列にはならないのです。
そのあたりのことが説明不足といいますか、新しいことを進めること優先で、
その部分だけを取り上げて、テレビで放映する、本にも載る…。
あいまいにしていくことは、これは世の常です。
ただ、いつもいうように、土台の上に積み重ねていった変化でないと、
新しく、別のところに別のものを積み上げてしまう…。
着物は民族衣装です。伝統というものをいうと「そんなの古い」と、
そうとられるかたもいるかもしれませんが、
洋服だって、その変化は、一日一日の積み重ねの変化です。
一時洋服がきられなくなって、あらたにできたものではありません。
だから、いくら世の中がかわっても「金鉱掘りの労働着だったGパン」は、
いまだにタキシードの下には着られないのです。
たとえば、シルクやウールのきちんとしたスーツの下には、
木綿のブラウスは着ないと思います。たぶん同じシルクか、
シルクのようなつやとか、しなやかさとかドレープ性をもった化繊でしょう。
それは「見た目重視」だからです。いかにも木綿、というものは、
シルクのスーツには合わない、とされるからです。
いつも言いますが、着物はいったんすっぽりと伝承が抜け落ちた時期があります。
洋服は心配せんでも、洋服の長い歴史を持つ欧米で、
途切れることなく続いた文化として、土台の上に順当に積み重ねた変化を
これからもしていきます。
でも、着物は、ボコッとなくなった分、つながっていないのです。
あたらしいことを考えるのはちっともわるいことではありませんが、
そのときに「本来ゆかたはこう、木綿はこう、だったのですが、
今の時代はこうですから、ここをこんなふうにすると…」と、
それを伝えることで、今の「着物を教えてもらわなかった世代」も、
話や知識だけでも、きちんとした「伝承」の変化として、
つなげていくことができるのではないかと思うのです。
もうひとつ、蛇足みたいで申し訳ありませんが…
番組ではそのあと、要するに「ゆかたの着方」と「お太鼓の結び方」…。
ただの着付け教室になってしまいました。
帯は確かに単でしたけどね、私この番組を見ると
いつも「中途半端だ」と思います。
たとえば「ゆかたにお太鼓」でもいいですから、
そういうときは、こういう着物には、帯はこういうものを選ぶ、と、
何本も見本の帯を並べて、そうでない帯との違いを「見える」ようにするとか。
そういうことのほうが大事だと思いませんか?
モデルさんが締めていたのは、いかにもやわらかそうな単帯でしたが、
仮紐を二本使えば、ホラこーんなにカンタン…とやるわけですが、
あんなにやわらかい薄手の帯を、着物着慣れていない人が、
誰しも持っていると思いますか?
あれをたとえ単でも、硬くて厚みのある帯で初心者がやったら、
いくら同じ手順でやったって、ああはうまく行きません。
企画をする人が若いとか、着物を知らないとか、
そういう状態なのかもしれませんが、もともとテーマからいって、
たった30分で基礎から理解してもらえるような話じゃありません。
だったらその話を受ける側が、もっと企画を練ってくれるよう、
話してほしいものだと思います。
着物が好きで、着物を広めたいならなおのこと、です。
朝顔、4色目、ちっとだけ違うんです。
並べるとわかります。
本日は、またNHKの「めしませ きもの」の話題です。
今回は「ゆかた」の話題でした。
なんかねぇ…いろいろ考えてしまいました。
今回の内容は、「おしゃれ工房」の今月号に載っています。
NHK おしゃれ工房 2009年 07月号 [雑誌]日本放送出版協会このアイテムの詳細を見る |
着物スタイリストの秋月洋子さんのお話、彼女は石田節子さんに師事して、
着物のお勉強をなさった方です。
で、「秋月流 大人のゆかたの着こなし提案」ということなのですが…。
大人のゆかたの装いポイントとして「上質素材をえらぶこと」
「たびをはくこと」「お太鼓結びをすること」だそうです。
この上質ってところは、まぁ妥当な説明といいますか、要するに、
普段盆踊りなんかに行くのは「綿コーマ」とよばれるもの、
おでかけに着るなら「絞り」「綿紅梅」「綿麻」など…なんたらかたら。
これらはじゅばんを重ねれば単着物として着られる…云々。
このあたりは、そうそう…です。
まぁ次にいきましょう。
ゆかたは素足のイメージですが、電車に乗るとか…まぁ要するに
ちょっとした「おでかけ」ですね、
そのときはたびを履くのが「大人のマナー」…。
私、これってそう考えたくなる気持ちは、わからなくもないんです。
たとえば、ウン十年前までは、ゆかた着て出かけるのは、
地元のお祭りとか、花火大会とか、ゲタつっかけて行くところだったんですね。
だいたい私たちは、そんなことなくても、夕方お風呂上りや行水あとに
ゆかた着て遊んでました。だれちゃんとこで花火するー、なんて言って…。
それが、着物離れがあり、地域のお祭りもどんどん縮小、あるいはなくなり、
暮らしが豊かになった分「祭り見るなら浅草の…」とか「神田の…」とか。
朝顔市だの花火大会だの、みんな電車に乗ったりしておでかけするところです。
でも、ちょっと前までみんな洋服で「最近は初詣もお祭りも、
着物姿が減って寂しいね」なんていってました。
いつごろからでしょうか「ゆかたブーム」とやらで、
急に若いお嬢さんたちが、トロピカ~ルなゆかたを着るようになりました。
だから、ゆかたで電車もそれは時代の流れで、仕方ないと思うわけです。
でも、そういうことになって「変えなきゃならない」のは、
実は「浴衣は日が落ちてから着るものだ」とか
「遠くまで電車に乗っていくのに着るものじゃない」という
私たちの昔の生活に浸かった感覚の方です。
こういう世の中なんですから、地元で夕方だけ着なさい、といったら、
着るときがなくなります。
少しずつ古い意識も、納得して変えていかなきゃならないと思っています。
だから今の時代に見合う、新しい「ゆかたのスタイル」というのを
考えていくことは、悪いことではないと思うんです。
ただ、それならそれで、元からのことを踏まえて、こうするとどうだろ、
というものでないと、そのうち「何でもあり」になってしまう気がするんですね。
たとえば今回の内容では、「ゆかたでも足袋をはくことで
きちんとした印象になる」とか「おたいこを結ぶことでゆかたに風格が出る」とか。
「ちょっといいものを選んで、たびできちんとした印象をもたせ、
おたいこをしめることで風格を出す」なら、
以前からあーだこーだ言ってる「ゆかたと木綿着物」の境目、
ってことなんですよ。
載っている写真では、結構渋めの綿紅梅とかきているので、
たびにお太鼓でも違和感はないのです。
ただ「じゅばんをきていない」ので襟元がゆかたそのもの、なわけです。
これも見慣れていけば、こういうものもアリになっていくのでしょうか。
なんでもそうですが、若い人が着ているものを見て、
おばちゃんやばーちゃんが「なんだあれは」と顔をしかめる…。
でも、しばらくすると目慣れてしまい、場合によっては、
そのテイストをおばちゃんたちも取り入れたりし始める…。
ミニスカートなんかいい見本ですね。
服飾の文化というものは、そうやって変化していくものだとは思います。
ですから私は「ゆかたにたび、おたいこ」も、頭から「こんなのだめだ」とは
言いたくはありません。
いつもゆかたと木綿の単、のことが出るというのですが、
「ゆかたは生まれたときからゆかた、で、袷になったことはない。
木綿の単はかつて、絹の着物と同じように冬は袷、夏は単で着られていた。
そういう違いがある」なんです。
大雑把に分けても「単の木綿は織が主」で、「ゆかたは染めが主」です。
絹物は「染め」が格上、織が格下、ですが、
木綿は「織が格上、染めが格下」がおおいんです。
絹物でも「紬だけど、染め紬だから」…と小紋に近づけた着方ができます。
木綿も同じだと思います。
つまり、染めだけど単の木綿の風合いだから(綿紬や紅梅など)、
或いは「小紋っぽい色柄だから」と、襦袢着てたびはいての着方ができる。
あくまで「それに近づくことができる」というだけで、
同列にはならないのです。
そのあたりのことが説明不足といいますか、新しいことを進めること優先で、
その部分だけを取り上げて、テレビで放映する、本にも載る…。
あいまいにしていくことは、これは世の常です。
ただ、いつもいうように、土台の上に積み重ねていった変化でないと、
新しく、別のところに別のものを積み上げてしまう…。
着物は民族衣装です。伝統というものをいうと「そんなの古い」と、
そうとられるかたもいるかもしれませんが、
洋服だって、その変化は、一日一日の積み重ねの変化です。
一時洋服がきられなくなって、あらたにできたものではありません。
だから、いくら世の中がかわっても「金鉱掘りの労働着だったGパン」は、
いまだにタキシードの下には着られないのです。
たとえば、シルクやウールのきちんとしたスーツの下には、
木綿のブラウスは着ないと思います。たぶん同じシルクか、
シルクのようなつやとか、しなやかさとかドレープ性をもった化繊でしょう。
それは「見た目重視」だからです。いかにも木綿、というものは、
シルクのスーツには合わない、とされるからです。
いつも言いますが、着物はいったんすっぽりと伝承が抜け落ちた時期があります。
洋服は心配せんでも、洋服の長い歴史を持つ欧米で、
途切れることなく続いた文化として、土台の上に順当に積み重ねた変化を
これからもしていきます。
でも、着物は、ボコッとなくなった分、つながっていないのです。
あたらしいことを考えるのはちっともわるいことではありませんが、
そのときに「本来ゆかたはこう、木綿はこう、だったのですが、
今の時代はこうですから、ここをこんなふうにすると…」と、
それを伝えることで、今の「着物を教えてもらわなかった世代」も、
話や知識だけでも、きちんとした「伝承」の変化として、
つなげていくことができるのではないかと思うのです。
もうひとつ、蛇足みたいで申し訳ありませんが…
番組ではそのあと、要するに「ゆかたの着方」と「お太鼓の結び方」…。
ただの着付け教室になってしまいました。
帯は確かに単でしたけどね、私この番組を見ると
いつも「中途半端だ」と思います。
たとえば「ゆかたにお太鼓」でもいいですから、
そういうときは、こういう着物には、帯はこういうものを選ぶ、と、
何本も見本の帯を並べて、そうでない帯との違いを「見える」ようにするとか。
そういうことのほうが大事だと思いませんか?
モデルさんが締めていたのは、いかにもやわらかそうな単帯でしたが、
仮紐を二本使えば、ホラこーんなにカンタン…とやるわけですが、
あんなにやわらかい薄手の帯を、着物着慣れていない人が、
誰しも持っていると思いますか?
あれをたとえ単でも、硬くて厚みのある帯で初心者がやったら、
いくら同じ手順でやったって、ああはうまく行きません。
企画をする人が若いとか、着物を知らないとか、
そういう状態なのかもしれませんが、もともとテーマからいって、
たった30分で基礎から理解してもらえるような話じゃありません。
だったらその話を受ける側が、もっと企画を練ってくれるよう、
話してほしいものだと思います。
着物が好きで、着物を広めたいならなおのこと、です。
朝顔、4色目、ちっとだけ違うんです。
並べるとわかります。
そうなんです!
私も前々から「浴衣」と「木綿の単衣」の違い、もっとはっきりせい! って言ってもらいたかったのですよ~。
子供の頃教わった昔話にカラスの話があって、
カラスはもともと真っ黒じゃなかったんですって。
たしか鳥のコンテストかなんかあった時、
カラスは綺麗なクジャクの羽を付けて出たのですが、
その羽がとれて、皆に笑われて恥をかいて
それで恥ずかしくて真っ黒になってしまった。
とかいう内容だったと思います。
お太鼓を付けようと足袋を履こうと、
ビラビラのレース飾りを付けようと「浴衣は浴衣」なんですよね~。
じゃらじゃら着飾った浴衣姿の人を見るたびに
このカラスの話を思い出してしまいます。
浴衣で表は歩きませんが、家にいるときは「木綿の単衣」を浴衣のように肌着の上にじかに着てます。お尻がみっともないのがコンプレックスなので、八寸で「なんちゃって角だし」とかにして。…はだしです。
お風呂の後は、浴衣です。伊達〆だけで寝てしまいます…。
浴衣ではお出かけはしませんが、薄手木綿ででて、呉服屋さんの方に「アラ、今日は何かありましたか?浴衣でらして。」と言われて むっとしたことが…。
相手のあるお出かけなら 失礼のないように・という線引きがありますが、まったくの意普段着としての木綿の単衣の使い道や着方って、私、ひょっとしてとんでもないことしてるかも!!
助けて~~・とんぼさ~~ん!!
ですから、浴衣としても単としても着られる
のはどんなのがいいですかって・・・
でも、生地に対しては知らない事が多すぎて、
見るからにゆかたと分かるような大きな花柄
とかは避ける方がいいとしか言えなくて・・・
実際に見れば多少は感覚で分かるんですけど
木綿着物にゆかた、難しいですね。
テレビでやってたからと(ましてNHK)鵜呑みにしたら危険ってことですな。
地元は有松絞りの有松の近くなんですけど総絞りの浴衣・・・高級品だと思うんですけどやっぱり浴衣のくくりなんですか?
高級なんだから着物として着られるということも聞きますがまたいつかこの総絞りの木綿についても教えてください。
以前とんぼさんが言ってらした、「浴衣はジャージみたいなもの」、まさにそれだと思います。
電車に乗るとき、ジャージだと気後れします。そりゃあ試合があったりしたら仕方がないですけど、それでも嫌です…。
私はちょうど、浴衣がわりになるような単を持っていて、困ると大抵それを着ます。なぜなら、お祭りとかに遠出するとなると真っ昼間から出歩かなきゃいけなくて、現地に5時とか、6時頃着くような算段になるからです。
で、なんかおかしいと思って襦袢を着て、足袋をはいて、お太鼓をつくると…浴衣でなくて着物になってしまいますそれで、友達と合流すると、そりゃあ浮くんです(-_-;
かといって、裸足に下駄で、襦袢なしで半幅帯で文庫とかつくると…これで電車かぁ、と気が重くなります。足袋だけはくと暑苦しいし、半幅帯でお太鼓もどきをつくるようなのも、やってみたんですけど…。
どうしたらいいんでしょうとんぼさんー!!!
また夏が来てしまいました悩みの夏が…。
・浴衣で遠出するとき
・浴衣と兼用になりそうな単の使い分け
とか教えていただけたら嬉しいです。。。
内容ですよね~。
私も見ていて物足りなさと多少の違和感が…。
”夏着物”じゃなくて”浴衣”でお太鼓…?
正直、暑くないですか?(^_^;)
お太鼓結びの勉強にはなりますが、浴衣と銘打つならば
半幅帯の大人な結び方をいろいろやって欲しかったです。
どちらかというと「美の壺」的な方向で時間とって
じっくりの方が目の保養にもなっていいんじゃないか
と思ったりもしています。
なんて、テキスト無しじゃ着られないくせにまぁ~~
ナマイキな自分(笑)
なぜならば~・・・・
昔お稽古していた長唄の浴衣浚いの時は、皆さん浴衣に足袋履いてお太鼓でしたから。
昼間から会がありましたから、日の高いうちにその格好で出かけてました。
今から30年も前のことですので、昨今のように邦楽のお稽古が流行っていたわけでは無く、会に出られるのは本当に着物を着慣れた方々ばかりで、この着方はいつ頃からかは分かりませんが、昔から続けてこられたことだと思います。
街中で浴衣に足袋、お太鼓の人を見ても一概に「変」とは言えないこともあることはあるわけです。
帯はほとんどの方が博多の献上を締めてらっしゃいました。
お洒落な人たちは同門で毎年染められる揃いの浴衣の細かい男柄に白に白の献上を締めてらして、最年少だった私などは「カッコいい!」と憧れたものでした。
ただし、これはその日だけのことで、お祭りなんかの時には裸足で半幅帯でした。
浴衣でない木綿の単も、襦袢無しでそれだけで着てうろうろ歩いてしまいます。
普段着なので大目に見てください~(^^;
ついでに、麻着物などに襦袢を重ねて着ても裸足に下駄スタイルです。
これも暑いので大目に見てください~(^^;
礼装はきちんとしています。
足袋はいてお太鼓をしめて出かけたいのなら、浴衣でなくてもよいだろうに~と思います。
紅梅でも麻でも、襦袢つきで「夏着物」として着れば済むことでしょう。
業界の方々が、どうしてそこまで「浴衣」にこだわるのかが、わかりません。
りらさんと同様、稽古事の夏姿ですから。
私の場合は茶道の浴衣茶会や浴衣で稽古ですが、綿コーマの浴衣でも素肌に直接でなく肌襦袢を着ることと、茶室では白足袋をはくことが決まりです。
初めての浴衣茶会の時、電車に乗って通っていた10代の私は悩みました。浴衣を持って行って着付けるのも恥ずかしくて、阿波しじら(当時は浴衣扱いされておらず盛夏の普段着でした)に半幅帯、半衿付き筒袖半襦袢と裾除けで着て、足袋をはき、下駄で出掛けました。
先輩たちが縮み、紅梅、綿絽、絞りなどいわゆる高級浴衣に綿献上、紗献上、羅などの八寸帯を締めているのを見て、うわあ素敵と浴衣にお太鼓の大人の姿に憧れました。半衿はありなし、見せる見せない、いろいろでした。
透ける小千谷縮みや麻で、襦袢を着ても半衿を見せずに浴衣代わりにするという大人のお洒落も教わりました。
もうかれこれ30ン年前の話です。
数年前に駅で遭遇した、大きな柄の(たぶん綿コーマの)紺白浴衣をお召しの女性、襦袢の袖が見えて半衿もバッチリ、絽綴れ八寸のお太鼓、足袋をはいて麻の草履でした。うーん。
菖蒲か何かの伝統柄でしたから、浴衣らしくあっさりお召しになっていたら、本当に素敵だったと思います。
でも失敗は成功の母であります。