写真は昭和29年の和装本より。「訪問着」です。モデルは山本富士子さんですよー。
いろいろ着物の種類について書いてきましたが、今日は今までにも書いてきた
「着物は着られなくなった時期がある」ということ。そのせいで…みたいなことでしょうか。
見回しても、日常の暮らしの中に着物姿を見ることがほとんどなくなったのは、
私が高校生くらいから…でしょうかねぇ。
子供のころは、まだまだご近所に着物姿のおばちゃんもおばぁちゃんもいましたし、
入学式といえば色無地に黒羽織、お正月は振袖…というシーンが、当たり前の時代でした。
最近は、普段着物どころか、結婚シーズンでも留袖姿や振袖のお嬢さんをあまり見かけません。
洋装で行って、式場で着付けてもらう…らしいですね。寂しいことですわ。
さて、そんな中で、着物を着ていこうというと、先日来お話ししておりますように、
細かい、めんどくさい、なんで、そんなのいいじゃない…なんてことがいろいろいわれるわけです。
ひとつずつわかっていただきたいと思うのですが、とりあえず「そういう状態」って…と考えてみました。
できれば知っている人に聞けるといいのですが、今この「知っている人」というのが
「着物で普通に暮らしてきた人」というのが少なくて、着付け教室の先生だったり、呉服屋さんだったりするわけです。
私は着付け教室に行ったことがないので、一般的なお話しの引用しかできませんが、
決まった道具を使うことも昔はよく聞きましたし、「○○センチ出す」などのような断定的名言い方もあるとききます。
それはそこの教室でのやり方ですから、それはそれでいいのかもしれませんが、
着物なんて、元々おんなじ形のものを、違う体型の人が着るのです。
その人の好みもあります。あくまでも「基本はこうです」…であってほしいと思います。
着物の着方そのものなんて、みんな親が着ているのを見て覚えたり教えてもらったり…
みんな「我が家流」で着たものなんですから。
それから「着物を扱う人」…。これは例えばヤ○オクやショップで、全然違う説明が書いてあったりすると、
この人ほんとに着物を扱うひとなのだろうか…と思ってしまいます。
見かねて違いを指摘しても、返信も来なかったり、訂正もしないとか…。
それを見る人が、全て着物の知識が豊富で「この人まちがってるわ」と判断できるわけではありません。
無責任な発言は、知識の乏しい人にとって無益というより有害になることもあります。
もう一つが「着物を扱う人が、あいまいなことを更にあいまいにする」…。
ちょっと書きましたが、ある呉服屋さん系サイトで「訪問着はコレコレこういうものだったが、今はいろいろなものがある」
いや、今いろいろあるのではなく、昔はいろいろあったんでしょ、と思ったら
「最近は紬の訪問着などもありますので…」と、そこから先はオシャレを楽しみましょうみたいなことでホヨホヨと終わり…。
別の老舗の呉服屋さんは「紬の訪問着」のお話しをしたあとで
「でも、元々普段着なので、礼装には着られません」と書いてありました。だからパーティーなどで楽しむ着物ですと。
つまり礼装にもTPOがあるよ、と言ってるわけですね。こういうところが大切だと思うのです。
洋装だって、例えば刺繍がスワロのビーズてんこ盛りで、本物のダイヤも縫い付けられていても、
それがGジャンだったら披露宴には着られません。それが洋装の「格」というものです。
でも、友達みんなでクリスマス・パーティーとかなら、カッコイイですよね。
そういうところを、着物なら…というおはなしで、しっかり伝えていただきたいのに、
呉服屋さんの方がばらばらで「今は着られてます」とか「最近はうるさくありません」とか、言ってしまう…。
着物と言うものは、食べ物とも似ていて、その土地、地域で特色があったりします。
納豆にお砂糖の土地もあるのです。だったら砂糖はおかしいではなく、
「納豆は、一般的にはこうだが、こういう土地もある」でないと、正確な情報とはいえません。
訪問着は今はいろいろ着られてますから…で、披露宴に紬の訪問着を着ていって、
「それは失礼でしょ」といわれることだって、まだまだあるわけです。
いろいろなものが変化していくのは当たり前のこと…と言うのは、このシリーズの最初の方で書きました。
例えば、留袖のところでお話しした「留袖の帯締めは、白の丸ぐけから、金銀の組紐になった」というお話。
最初にそれを考えたり締めたりした人は「留袖には丸ぐけって言われないかな」と思いつつも、
「でも金銀が入ってて、この方が豪華に見えるし、いけるんじゃないか」と思った…。
それが受け入れられて、しかもこの方がいい…になったわけですね。
プロセスというものは大事なものだと思うのです。
いきなりポーンととんで、結果オーライ…世の中にはそういうこともありますが、
長くうけつがれてきたものであればこそ、薄紙一枚のような積み重ねでも、大切だと思うわけです。
京友禅の証紙が「新しい技術」なんていう、もっともらしい理由で「インクジェット友禅」にも使われる…。
友禅って、柄だけそれらしければいいんでしょうか。
何がそれを生み出すか、それを丸ごと守ってこその証紙だと思います。
そしてその意味が細かくはわからなくても、受け継がれて培われたものだということを理解して大切にする…
そういうことが、本当の伝承ではないかと思うのです。
その中で、古臭くなって現状に合わないことは、今、5月でも暑ければ単衣を着るように、
自然の流れの中でなじませていけばいいと思うのです。
昔は呉服屋は客に育てられ、客は呉服屋に育てられる…そういうところがありました。
別に箇条書きにして覚えたわけでなくても、知らないうちに「応用編」の勉強ができたわけです。
またそういうことで、みんなで着物の流れを作ってきた気がします。
今は呉服屋さんも減り、そういうお付き合いも難しくなりました。
難しい時代なのですね。
単純に着たいものを着ればいい…は、マチガイではないけれど
「勝手」と「自由」は違うということをわきまえることで、
着物美人になり「着物賢人」になってほしいと思います。
ツギは件の「紬の訪問着」のことでも、考えてみましょうか。
「結婚式の披露宴に着てゆけます。」とアドバイスできる売り子さんがいるか。
とりもなおさず、ブラックフォーマルを結婚式の披露宴用として、買い求められるか。
この空白をどう、つかむか、かなと
自分なりに感じました。
これが和装になると、売り手側の言いなり、
買い手側の趣味(流行)となり
それを着て出向く場への「礼」って、どうなるの?になるのでは。
以前どこかの掲示板で「おひとりさまでフルコースを食べられたらキングか」という
テーマが立ちました。
意外なのが「できる、できない」で語られていて
肝心のフルコースをお出しできるお店への気配りにふれられているのがない。
外国では、おひとりさまでフルコースは無礼にあたるものです。
日本人はそこまで傲慢になったのかとおどろきました。
またお話きかせてください。
物事基本と言うのはやはり大事だと思うのです。アレンジはイロイロありますが知っててするのと知らないでするのでは大きな違いがありますよねえ~~
私などは物を知らない方ですぐ、どうでもいいでしょーなんて言ういい加減人間ですが、その私でも目が点になることが時々というか、よくあるんですよねえ~~
昔からの約束事と言うのは伝えていくことが本当に難しくなってきていますね。
特に着物はもはや日常的にお召しになっている人を目にしなくなりましたから余計にそうですね。
こちらに来ると本当に勉強になります。
さて、今を去ることン十年前、母が一張羅を作ってあげようと申しまして、染め物屋さんへ。
白生地選んで、柄を選んで、誂え染めなら紋も抜こう……で出来上がったのは、抜きの一つ紋付き付け下げでございました。訪問着と付け下げの違いなんて当時は知りませんでした。
着ると、うーん、衿に模様が続いてない、共八掛けじゃない、これ、付け下げ?と聞かれますが、大事に着ております。
客は「店員が言った」といい、店員(作り手売り手)は、
客のニーズにこたえてという。
どっちのせいなんだか、鶏と卵ですが、だからこそ
「これはどういうものか」とわかると、おのずと方向性は、決められると思うのですがね。
「考える」ということを減らしてきた弊害でしょうね。
「アレンジ」は、元を知っていてこそだ着るものだと思います。
勝手にやったら、そりゃ「新ネタ」ですよ。
そのあたりが、知らず知らずに…なんですね。
洋服はずっと着られていますから、イマドキの「なにあれ」ファッションも、まっ今までの流れから行くと、とか
どうせまたかわるとか、いずれこうなるだろうとか、
そういうこともわかるのですが、
慣れていないことは、突然変異のように現れるので、
びっくりするんですよ。
ネットが広がって、少し着人口も増えているのではないかと
期待しているのですが、だからこそ、
新しくここからではなくて、少し過去までもどって、
雑草に埋もれたレールをみつけて、そこからまた動き出してほしいと、
そうねがっているのです。
実際「なんでもあり」になってしまっていますから、
昔の本には「紋がないから気楽に」とか、訪問着ほどきばらないとか、
いろいろかいてあるのですけれど、その記述が役に立たないわけです。
何がとこで間違ったのか…と、そんなことを思います。
こういうことの軌道修正は、至難の業ですから。