毎年、この時期は、お話させていただいています。
写真は、義父の手書きの「履歴書」です。
「支那事変」という文字が見えます。
今は使われない言い方で「日中戦争」と呼ばれるもの。昭和12年ころだったでしょうか。
実際にはどちらも宣戦布告をしていないので「事変」と呼ばれていたわけです。
義父はそのあと世界大戦になって従軍、最後はシベリアで4年間の抑留でした。
この履歴書は父が生きた証し、戦争に参加した証し、です。
年々戦争の記憶が少しでもある方たちは、残り少なくなっています。
今がもう「実体験」としての生の声を聞ける最後の時期なのだと思います。
今まで「思い出したくない」「話したくない」といっていたお年寄りが、
「やはり伝えねば」と、重い口を開くことが増えてきました。
以前オットが「親父は人を殺しているんだろうな」…と、ぽつんといったことがあります。
すでに鬼籍に入っている義父ですが、生きている間、人生の楽しみから
できるだけ遠いところで生きようと、ただひたすら静かに命の終わりをまっていたような
そんなところがありました。最後に、病気症状改善の「バイパス手術」を
直前になって「やらない」と拒否したのは「助かりたくない」というより
「助かってはいけない」というキモチだったのかもしれません。
シベリアの凍土の下においてきた、戦友たちの顔が思い浮かんだのかもしれません。
体力的には十分可能な手術だったのに…。
義父は明治の終わりの生まれ、通信関係の学校へ行った実績があったためでしょう、
通信兵として、三度召集されました。
義父は戦争の話はヒトコトも話さないまま逝きましたが、
オットは「自分がツートン・ツーツー、とやったことで、何千何万もの兵隊が、
あっちへこっちへやられたんだろう。それで全滅だったりしたら、
たとえ命令でやったとしても、つらいよな」といいました。確かに…。
広島の「原爆の日」に、アメリカのルース駐日米大使が出席したことを
エノラ・ゲイの機長の息子さんが「謝罪と取られる、承服しかねる」といったそうです。
また、実際に原爆の被害にあわれた方、その遺族にとっては、
心の奥底に「アメリカは憎い」という思いがあることも事実だと思います。
日本でも今回のルース氏の出席に、拒否反応を示す人もいました。
戦争というものは、どちらの側も「自分たちが正しい」と信じてするものです。
でも、聖戦と呼ばれようと、民族の解放とか領土の奪還とか、そういわれようと、
「そういうことを理由に人が人を殺す」という手段は、「戦争」という方法は、
断じて間違っている、と私は思います。
「核」は、そのもっとも恐ろしい武器です。
今、昔のことを伝えてほしい、と、封印を解いて話をしてくれている人たち、
心の底には、きっと「怨嗟」の思いは澱のように残っていると思います。
何かでかき乱されれば、それは水底にたまったヘドロのように、
もわもわと湧き上がるものなのだと思います。
それでも、かの人たちは、告白の最後に「だからアメリカを憎んでほしい」とか、
「アメリカは悪い国だ」とは、決して言いません。
今、この核てんこ盛りの地球では、その思いを沈めてでも、
「まず理不尽な恐ろしい死を大量に与える核は、もってはいけない」
「それを使う戦争をおこしてはいけない」と、訴えています。
広島の碑には「過ちは二度とくりかえしませぬから」と書かれています。
それは「誰が過ちを犯したか、どちらがわるかったのか」ではなく、
「戦争という過ちを核を使うという過ちを、おかさない」ということだと思うのです。
今日、広島と長崎、両方で被爆した人のリポートを見ました。
なんて不運なのかと思う一方、90過ぎまで生きられた生命力に驚嘆します。
その人は英語を学び、国連に行って反核を訴え、そして90でガンに侵されても、
アメリカからきた学生に原爆の話を伝え、講演後に涙ぐみながらハグしてきた女学生に
「あなたに幸運がありますように」といいました。
そこまでくるには、さぞ葛藤があったと思います。
平和な暮らしはいいものです。でも、だから何も考えなくていいわけではありません。
戦争の話しを語り継ぐのは、私が「古い洗濯機」の話をするのとはわけが違います。
ただ古いことを話すのではなく、それを以って「未来」を考えなければなりません。
基地の問題にしても、拉致問題にしても、じれったくても実際に、
今日明日に片付く話ではないでしょう。それでも忘れてはいけないわけです。
みんな「あの日」「あの時代」があって、今があるのです。
あの日の上に、私たちは乗っかっているのです。
今、自分がそろそろ「おばあちゃん」と呼ばれる年代に入ってきても、
私は子供たちに話す実体験がありません。
それでも、聞いた話を伝えることはできます。
このバトンは、しっかりちゃんと渡さねばならないと思っています。
戦争という悪魔によって命を奪われたすべてのかたがたに「合掌」。
写真は、義父の手書きの「履歴書」です。
「支那事変」という文字が見えます。
今は使われない言い方で「日中戦争」と呼ばれるもの。昭和12年ころだったでしょうか。
実際にはどちらも宣戦布告をしていないので「事変」と呼ばれていたわけです。
義父はそのあと世界大戦になって従軍、最後はシベリアで4年間の抑留でした。
この履歴書は父が生きた証し、戦争に参加した証し、です。
年々戦争の記憶が少しでもある方たちは、残り少なくなっています。
今がもう「実体験」としての生の声を聞ける最後の時期なのだと思います。
今まで「思い出したくない」「話したくない」といっていたお年寄りが、
「やはり伝えねば」と、重い口を開くことが増えてきました。
以前オットが「親父は人を殺しているんだろうな」…と、ぽつんといったことがあります。
すでに鬼籍に入っている義父ですが、生きている間、人生の楽しみから
できるだけ遠いところで生きようと、ただひたすら静かに命の終わりをまっていたような
そんなところがありました。最後に、病気症状改善の「バイパス手術」を
直前になって「やらない」と拒否したのは「助かりたくない」というより
「助かってはいけない」というキモチだったのかもしれません。
シベリアの凍土の下においてきた、戦友たちの顔が思い浮かんだのかもしれません。
体力的には十分可能な手術だったのに…。
義父は明治の終わりの生まれ、通信関係の学校へ行った実績があったためでしょう、
通信兵として、三度召集されました。
義父は戦争の話はヒトコトも話さないまま逝きましたが、
オットは「自分がツートン・ツーツー、とやったことで、何千何万もの兵隊が、
あっちへこっちへやられたんだろう。それで全滅だったりしたら、
たとえ命令でやったとしても、つらいよな」といいました。確かに…。
広島の「原爆の日」に、アメリカのルース駐日米大使が出席したことを
エノラ・ゲイの機長の息子さんが「謝罪と取られる、承服しかねる」といったそうです。
また、実際に原爆の被害にあわれた方、その遺族にとっては、
心の奥底に「アメリカは憎い」という思いがあることも事実だと思います。
日本でも今回のルース氏の出席に、拒否反応を示す人もいました。
戦争というものは、どちらの側も「自分たちが正しい」と信じてするものです。
でも、聖戦と呼ばれようと、民族の解放とか領土の奪還とか、そういわれようと、
「そういうことを理由に人が人を殺す」という手段は、「戦争」という方法は、
断じて間違っている、と私は思います。
「核」は、そのもっとも恐ろしい武器です。
今、昔のことを伝えてほしい、と、封印を解いて話をしてくれている人たち、
心の底には、きっと「怨嗟」の思いは澱のように残っていると思います。
何かでかき乱されれば、それは水底にたまったヘドロのように、
もわもわと湧き上がるものなのだと思います。
それでも、かの人たちは、告白の最後に「だからアメリカを憎んでほしい」とか、
「アメリカは悪い国だ」とは、決して言いません。
今、この核てんこ盛りの地球では、その思いを沈めてでも、
「まず理不尽な恐ろしい死を大量に与える核は、もってはいけない」
「それを使う戦争をおこしてはいけない」と、訴えています。
広島の碑には「過ちは二度とくりかえしませぬから」と書かれています。
それは「誰が過ちを犯したか、どちらがわるかったのか」ではなく、
「戦争という過ちを核を使うという過ちを、おかさない」ということだと思うのです。
今日、広島と長崎、両方で被爆した人のリポートを見ました。
なんて不運なのかと思う一方、90過ぎまで生きられた生命力に驚嘆します。
その人は英語を学び、国連に行って反核を訴え、そして90でガンに侵されても、
アメリカからきた学生に原爆の話を伝え、講演後に涙ぐみながらハグしてきた女学生に
「あなたに幸運がありますように」といいました。
そこまでくるには、さぞ葛藤があったと思います。
平和な暮らしはいいものです。でも、だから何も考えなくていいわけではありません。
戦争の話しを語り継ぐのは、私が「古い洗濯機」の話をするのとはわけが違います。
ただ古いことを話すのではなく、それを以って「未来」を考えなければなりません。
基地の問題にしても、拉致問題にしても、じれったくても実際に、
今日明日に片付く話ではないでしょう。それでも忘れてはいけないわけです。
みんな「あの日」「あの時代」があって、今があるのです。
あの日の上に、私たちは乗っかっているのです。
今、自分がそろそろ「おばあちゃん」と呼ばれる年代に入ってきても、
私は子供たちに話す実体験がありません。
それでも、聞いた話を伝えることはできます。
このバトンは、しっかりちゃんと渡さねばならないと思っています。
戦争という悪魔によって命を奪われたすべてのかたがたに「合掌」。
聞いていてもうわべだけしか
分からないです。
でも愚かな戦争を避ける為には
伝える、聞くという事で、意識
をする事が大切なんですね。
人と話すのが苦手な私は、伝え聞いた戦争の話をどうやって次の世代に伝えていけばよいのか。
戦争は絶対に起こしてはならないと。
考えてみれば、私は両親や祖父母たちからは話しを聞いた覚えがありません。
学校教育や、書籍、新聞記事、広島や沖縄へ行って戦争のむごさを知りました。
もう私の周りにも、経験者がほとんどいません。
子供のころの記憶でもいいから、
聞いておきたいと思います。
戦争なんて、ゼッタイいやですものね。
私が始めて遭遇した「本物の衝撃」は、
長崎の原爆資料館でした。
今でもあの焼け爛れた洋服などを
思い出します。
絵本でもいいものが出ていますよ。
ひろしまのピカ、まちんと、おこり地蔵など。
少し大きい子供さんには読み聞かせもいいと思います。
右側のほんの紹介、下三冊は、
いずれも戦争と戦後のお話です。
伝えていくこと、は、今生きている私たちの
責任でもあると思っています。
今年の5月国連でNPT(核不拡散再検討会議)がありました、世界的に昨年のプラハでのオバマ大統領の「核のない世界を目指す」演説から核廃絶の機運が高まっています。
私はある女性団体で平和の取り組みをしています(勧誘ではありません…、でももし良ければ…^^)
‘核兵器のない世界を’という署名をあつめ5月2日国連前でカバンチュクラ議長に渡しました。
6,901,037筆の署名が入った箱の山に大変感動され、会議の開会の挨拶の中で「市民に示された平和の願いをムダにしてはいけない」と、そしてパンギムン国連事務総長は「核廃絶は地平線の向こうに見えている」と挨拶しました。
駅前等で署名活動をしても悲しくなる事、むなしくなる事しょっちゅうですが、一人でも声を出し続けること、あきらめない事が大事!と多くない仲間と頑張り過ぎない程度に頑張っています。
「着物で9条」って、ご存知でしょうか?
日本全国に9,000を超える「9条の会」の流れの会です。どこに?と言われても、あちこちに…、としか言えないのですが… 私は一人で着物で9条。普段はストレッチの指導で奈良県下を走り回っていますが、何かある時は着物で!と心に決めて。
作家の澤地久枝さん(9条の会の呼びかけ人です)も公の席では着物を着るようにされているそうです。平和のため、伝統と文化を守るため云々は胸において発信できる立場として、だそうです。
「核のない世界に」の署名は全国の95%の首長が記名して下さいました。我が天理市長にもお願いに上がり出来れば職員の方達にも、と。
後日受け取りに行った際に偶然廊下で市長に会え、直接お礼を言えました。
先日改めてのお礼とNYに行かれた方の報告をお願いしましたら15分程ならと懇談できました、時間を大幅に過ぎたのですが市長が話しすぎたせいです。
その懇談の時、市長はほんの数秒会っただけの私のことを覚えておられました、着物の力!!です。暑い中着て行った甲斐がありました。
話があちこちにそれて申し訳ありません。
ただ戦争についてのとんぼさんのお話を読ませていただいて思わず反戦・反核の思いを・・・
だらだらと長くなってしまってますね・・・これも申し訳ありません。
これからもあれこれ授業ヨロシクお願いします。
こちらこそはじめまして。
ようこそおいでくださいました。
声は、あげ続けなければなりません。
あきらめたらそこでおしまいです。
思いを継いで、つないでいかなければ、
何のためにたくさんの人が犠牲になったのか
わからなくなります。
世界中でたった二箇所だけの「被害地」、
発信していかなければ、復興した意味も
ありません。
今のうちに、実体験者から、聞けるだけのことを
きいておかなければという時期だと思います。
「着物で9条会」、しりませんでした。
ネットで拝見したら、楽しそうな会ですね。
いえ、お遊びしてるという意味ではなくて。
着物ってインパクトありますからねぇ。
活動、がんばってくださいね。