ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

真夜中過ぎてますが…

2014-06-07 02:59:58 | つれづれ

 

息子が夜中すぎに起きてしまって…元気に遊んでますがな。

寝られないのでパソコンつけてmixiを覗いたら、鉄腕DUSHで農業の師匠であったかた、

三瓶明雄さんという方が亡くなったと…。

 

私はあまり若い人向きの番組は見ないのですが、DUSH村がはじまったとき、

たまたま見ていまして…ご存知ないかたのために説明しますと、

元々は日本の地図に「DUSH村」という地名を載せよう…という企画だったと思います。

里山の土地を借りて、TOKIOというグループ5人の若者が、一から村を作り上げる…という企画。

古民家を買取り、移築して「役所」として、住居の支度も全部自分たちで…。

最初から「昔ながらの手作りで全部」、というのが決まり。

なので、とにかく水車小屋だのお風呂だの…いえいえ台所のかまども、窓にはめるガラス、

使う食器まで、みんなそれぞれが、師匠と呼ぶ人について習いました。

水車も丸太を板にするところから…。炭も炭焼き小屋をつくり、せとものは「窯」を作り…。

とにかく何でも手づくりでした。それがおもしろくて見ていたのです。

農業をすることになって、まずは土を耕すところから、かの「明雄」さんが指導したのですが、

とにかく土をよく知っているし、種の巻き方、育ちの見方、間引きの具合、虫の対策…

ありとあらゆる農作業を教えていました。

全部「自然」な方法で、化学肥料も大きな機械も、できるだけ使わない方法です。

ブルドーザーなどがどうしてものところだけは使いましたが、田植えも稲刈りもみんな昔ながらの手作業。

近くの川から水をひき、合鴨農法を試し、収穫したものを「保存食」にする…

村の女性におしえてもらい、味噌も梅干しも、なんでも手作りしていました。

また明雄さんも村人も、なんでもよく知っていましたねぇ。

立派な田畑ができ、自分たちで作った新種のお米を育て、野菜を作り、温室ではバナナまで作ってました。

それが…残念なことに、その場所があの3.11で「危険区域」になってしまったのです。

事故直後の避難の区域や様子をテレビで見て、愕然としましたっけ。

明雄さんたち村人は全員避難を余儀なくされ、散り散りになりました。

一度、ずいぶん経ってから、防護服を着て、彼の地にメンバーがはいりましたが、

米の取れる田んぼにするには、あれだけの年月がかかり、大変な手間がかかったというのに、

荒廃するのはあっという間です。田畑は雑草がはびこり、温室のビニールは破れ、無残なことになっていました。

その土地で生まれ、嫁取りをし、子供を育て、そのままいずれは故郷の土にかえる…

明雄さんは、当然そのつもりだったでしょうに、遠く離れた住みなれないマンションで暮らしてました。

その後別企画で、TOKIOのメンバーが、日本各地での農作業のお手伝いをするようになって、

明雄さんも同行、いつもタオルを頭にかぶったスタイルで、80過ぎとは思えぬ活気で、

野菜を収穫したり、はこんだり…採れたもので作られた料理に「んまいっ」と、ニコニコしていました。

自分が知らないことについては、こういうふうにするんだーと、研究心もたっぷり。

 

結局DUSH村のある地域は、地図に載るどころか人の住めない土地になってしまいました。

里山で、自然と共存し、そこにあるものを使い、自然に対して畏敬の念を忘れない…。

たくさんの農業と、暮らしの知恵を授けながら、明雄さんは、その基本となるもっと大切なことを

教えていたのだと思います。

 

明雄さんや村人が、今はもう古臭いと言われてしまうような作業も、一から漬物や梅干しを作ることも、

生き生きとして楽しく教えていた姿を思い出します。

メンバーか「へぇ~、これってこうやってつくるんだぁ」と感心しながら一生懸命味噌や梅干しを作り、

器用不器用の差はあれど、小屋から作ってヤギを飼い、井戸を掘り、水車を回して粉をひき…。

本当によくやっていたと思います。

 

着物とは縁のない番組だったけれど、私はやっぱり「丁寧に伝える」ことの大切さを思っていました。

「これはこうする」だけでなく、「何でそうするか」もちゃんと教え、ほかで新しいものを見れば

「これはいいなぁ、使いたいなぁ」と感嘆する、そういうことを見ながら、私もそうでありたいと思いました。

最近明雄さんは、しばらく番組にでていにかったので、お年だからなぁと思っていたのですが、

病をえていたのですね。ついに故郷に戻ることなく、旅立ってしまわれました。

できることなら、荒地に戻ってしまったあの里山を、さぁもう一度一から作り直そう…と、

みんなで始めるところが見たかったです。

原発事故がなければ、まだまだお元気で、もっといろんなことを教えてくれたのではないかと、

そんなことを思いました。テレビで見るだけのおじいちゃんでしたが、

なんだかお隣のおじいちゃんが亡くなったような寂寥感です。合掌。

 

こんな本が出ています。買ったのはもう何年も前ですが、久しぶりに出して読もうかな。

インタビューの形で、本当の「田舎暮らし」のことを語っています。

DASH村からワシが伝えたかったこと 三瓶明雄の知恵
クリエーター情報なし
日本テレビ放送網

 


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6 コメント

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Unknown (陽花)
2014-06-07 07:33:36
三瓶明雄さん亡くなられたんですか。
いつもにこにこお元気で、沢山の知恵をお持ちで
DASH村を楽しみに見ていました。
最近本当にお見掛けしないなぁと思っていたら
ご病気だったのですね。
にこやかなお顔をもう見られないのは寂しいです。
ご冥福をお祈りします。
返信する
Unknown ()
2014-06-07 10:45:45
先日は重苦しいお話で、失礼いたしました。
自分の過去を吐露したのは、初めてのことでした・・・。


私も明雄さんが出てらしたころのあの番組が大好きで、必ず見ていました。
人から人へ伝えられる知恵が、いかに大切なものかを改めて思い知らされる気がしました。
生活の知恵も、あるいは戦争の悲惨さも、実体験をして知っている方がどんどん居なくなってしまう。
それは自然の摂理として仕方ないことですが、ならばせめて先人の知恵や体験は何かの形で残し、受け継いでいかなければ、どこかで大きな失敗をするような気がするのです。
便利な世の中になりました。
主婦の仕事はほとんどが機械任せに出来る時代です。
でも「便利」と「豊か」は似ているようで全く違う。
濡らした新聞紙やお茶がらを使いホウキで掃除をし、雑巾で床掃除をしていた時代を知っています。
なんとなくあの時代のほうが豊かだった気がします。

明雄さんのご冥福を祈らずには居られません。
返信する
Unknown ()
2014-06-07 13:57:58
テレビのDASH村を見たいが為に
大急ぎで帰宅。
TOKIOの面々と明雄の会話に
ほのぼのとしたものでした。
そして
明雄さんの豊富な知識に吃驚し
その後の 知識欲 向上心も
見習わなければ・・・と思ったものです。

ご冥福をお祈り申し上げます。

生まれ育った土地に帰してあげたい・・・



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Unknown (とんぼ)
2014-06-07 17:31:05
陽花様

ほんとになんでもよくご存じでしたよね。
農家の方々のご苦労も、初めて知ったことが
いろいろありました。
とても残念です。原発問題が解決しないうちで、
さぞ心残りだったのではと…。
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Unknown (とんぼ)
2014-06-07 17:46:16
夢様

お気になさらずに…。
世の中にはいろんな親子、いろんな夫婦がいます。
それぞれがそれぞれの人生を大切にできたら…と思います。

ものすごいスピードで、暮らしが豊かになりましたが、
確かに「便利」であることのすべてがいい…とは、
どうしても思えません。
何かひとつ出てくるたびに、一つ消えていくものの中に、
大切なものはなかったか…と、考えねばならない気がします。
私も新聞紙やお茶柄でそうじをしていた親を見ていますから、
それ自身は「衛生」の面からみて、掃除機のほうが
いいのだろうとは思いますが、
いろいろなことに「手間をかける」という思いは、
なくしたくないと思っています。
心の豊かさ…ってことでしょうかねぇ。

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Unknown (とんぼ)
2014-06-07 17:48:28
惠様

いつも好奇心も探究心も、旺盛な方でしたね。
たくさんの知識を、彼らに伝えることができて、
それは喜んでいたのではと思いますが…。
まだまだ教えてほしかったですわ。
「故郷」に眠ることは、できるのでしょうか。
ほんとにお気の毒です。
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