息子が夜中すぎに起きてしまって…元気に遊んでますがな。
寝られないのでパソコンつけてmixiを覗いたら、鉄腕DUSHで農業の師匠であったかた、
三瓶明雄さんという方が亡くなったと…。
私はあまり若い人向きの番組は見ないのですが、DUSH村がはじまったとき、
たまたま見ていまして…ご存知ないかたのために説明しますと、
元々は日本の地図に「DUSH村」という地名を載せよう…という企画だったと思います。
里山の土地を借りて、TOKIOというグループ5人の若者が、一から村を作り上げる…という企画。
古民家を買取り、移築して「役所」として、住居の支度も全部自分たちで…。
最初から「昔ながらの手作りで全部」、というのが決まり。
なので、とにかく水車小屋だのお風呂だの…いえいえ台所のかまども、窓にはめるガラス、
使う食器まで、みんなそれぞれが、師匠と呼ぶ人について習いました。
水車も丸太を板にするところから…。炭も炭焼き小屋をつくり、せとものは「窯」を作り…。
とにかく何でも手づくりでした。それがおもしろくて見ていたのです。
農業をすることになって、まずは土を耕すところから、かの「明雄」さんが指導したのですが、
とにかく土をよく知っているし、種の巻き方、育ちの見方、間引きの具合、虫の対策…
ありとあらゆる農作業を教えていました。
全部「自然」な方法で、化学肥料も大きな機械も、できるだけ使わない方法です。
ブルドーザーなどがどうしてものところだけは使いましたが、田植えも稲刈りもみんな昔ながらの手作業。
近くの川から水をひき、合鴨農法を試し、収穫したものを「保存食」にする…
村の女性におしえてもらい、味噌も梅干しも、なんでも手作りしていました。
また明雄さんも村人も、なんでもよく知っていましたねぇ。
立派な田畑ができ、自分たちで作った新種のお米を育て、野菜を作り、温室ではバナナまで作ってました。
それが…残念なことに、その場所があの3.11で「危険区域」になってしまったのです。
事故直後の避難の区域や様子をテレビで見て、愕然としましたっけ。
明雄さんたち村人は全員避難を余儀なくされ、散り散りになりました。
一度、ずいぶん経ってから、防護服を着て、彼の地にメンバーがはいりましたが、
米の取れる田んぼにするには、あれだけの年月がかかり、大変な手間がかかったというのに、
荒廃するのはあっという間です。田畑は雑草がはびこり、温室のビニールは破れ、無残なことになっていました。
その土地で生まれ、嫁取りをし、子供を育て、そのままいずれは故郷の土にかえる…
明雄さんは、当然そのつもりだったでしょうに、遠く離れた住みなれないマンションで暮らしてました。
その後別企画で、TOKIOのメンバーが、日本各地での農作業のお手伝いをするようになって、
明雄さんも同行、いつもタオルを頭にかぶったスタイルで、80過ぎとは思えぬ活気で、
野菜を収穫したり、はこんだり…採れたもので作られた料理に「んまいっ」と、ニコニコしていました。
自分が知らないことについては、こういうふうにするんだーと、研究心もたっぷり。
結局DUSH村のある地域は、地図に載るどころか人の住めない土地になってしまいました。
里山で、自然と共存し、そこにあるものを使い、自然に対して畏敬の念を忘れない…。
たくさんの農業と、暮らしの知恵を授けながら、明雄さんは、その基本となるもっと大切なことを
教えていたのだと思います。
明雄さんや村人が、今はもう古臭いと言われてしまうような作業も、一から漬物や梅干しを作ることも、
生き生きとして楽しく教えていた姿を思い出します。
メンバーか「へぇ~、これってこうやってつくるんだぁ」と感心しながら一生懸命味噌や梅干しを作り、
器用不器用の差はあれど、小屋から作ってヤギを飼い、井戸を掘り、水車を回して粉をひき…。
本当によくやっていたと思います。
着物とは縁のない番組だったけれど、私はやっぱり「丁寧に伝える」ことの大切さを思っていました。
「これはこうする」だけでなく、「何でそうするか」もちゃんと教え、ほかで新しいものを見れば
「これはいいなぁ、使いたいなぁ」と感嘆する、そういうことを見ながら、私もそうでありたいと思いました。
最近明雄さんは、しばらく番組にでていにかったので、お年だからなぁと思っていたのですが、
病をえていたのですね。ついに故郷に戻ることなく、旅立ってしまわれました。
できることなら、荒地に戻ってしまったあの里山を、さぁもう一度一から作り直そう…と、
みんなで始めるところが見たかったです。
原発事故がなければ、まだまだお元気で、もっといろんなことを教えてくれたのではないかと、
そんなことを思いました。テレビで見るだけのおじいちゃんでしたが、
なんだかお隣のおじいちゃんが亡くなったような寂寥感です。合掌。
こんな本が出ています。買ったのはもう何年も前ですが、久しぶりに出して読もうかな。
インタビューの形で、本当の「田舎暮らし」のことを語っています。
DASH村からワシが伝えたかったこと 三瓶明雄の知恵 | |
クリエーター情報なし | |
日本テレビ放送網 |
いつもにこにこお元気で、沢山の知恵をお持ちで
DASH村を楽しみに見ていました。
最近本当にお見掛けしないなぁと思っていたら
ご病気だったのですね。
にこやかなお顔をもう見られないのは寂しいです。
ご冥福をお祈りします。
自分の過去を吐露したのは、初めてのことでした・・・。
私も明雄さんが出てらしたころのあの番組が大好きで、必ず見ていました。
人から人へ伝えられる知恵が、いかに大切なものかを改めて思い知らされる気がしました。
生活の知恵も、あるいは戦争の悲惨さも、実体験をして知っている方がどんどん居なくなってしまう。
それは自然の摂理として仕方ないことですが、ならばせめて先人の知恵や体験は何かの形で残し、受け継いでいかなければ、どこかで大きな失敗をするような気がするのです。
便利な世の中になりました。
主婦の仕事はほとんどが機械任せに出来る時代です。
でも「便利」と「豊か」は似ているようで全く違う。
濡らした新聞紙やお茶がらを使いホウキで掃除をし、雑巾で床掃除をしていた時代を知っています。
なんとなくあの時代のほうが豊かだった気がします。
明雄さんのご冥福を祈らずには居られません。
大急ぎで帰宅。
TOKIOの面々と明雄の会話に
ほのぼのとしたものでした。
そして
明雄さんの豊富な知識に吃驚し
その後の 知識欲 向上心も
見習わなければ・・・と思ったものです。
ご冥福をお祈り申し上げます。
生まれ育った土地に帰してあげたい・・・
ほんとになんでもよくご存じでしたよね。
農家の方々のご苦労も、初めて知ったことが
いろいろありました。
とても残念です。原発問題が解決しないうちで、
さぞ心残りだったのではと…。
お気になさらずに…。
世の中にはいろんな親子、いろんな夫婦がいます。
それぞれがそれぞれの人生を大切にできたら…と思います。
ものすごいスピードで、暮らしが豊かになりましたが、
確かに「便利」であることのすべてがいい…とは、
どうしても思えません。
何かひとつ出てくるたびに、一つ消えていくものの中に、
大切なものはなかったか…と、考えねばならない気がします。
私も新聞紙やお茶柄でそうじをしていた親を見ていますから、
それ自身は「衛生」の面からみて、掃除機のほうが
いいのだろうとは思いますが、
いろいろなことに「手間をかける」という思いは、
なくしたくないと思っています。
心の豊かさ…ってことでしょうかねぇ。
いつも好奇心も探究心も、旺盛な方でしたね。
たくさんの知識を、彼らに伝えることができて、
それは喜んでいたのではと思いますが…。
まだまだ教えてほしかったですわ。
「故郷」に眠ることは、できるのでしょうか。
ほんとにお気の毒です。