東京は連続15日雨…と、さきほどTVで言ってました。
すぐ隣のここ横浜でも、昼間突然、ものすごい降りになりました。
静かになったので止んだのかと思ったら、小降りになっただけ…。
終戦の日と言えば、甲子園でもちゃんとサイレンが鳴って「黙とう」でしたが、
甲子園までも雨で中止になりました。これは天の怒りか…などと思ってしまいます。
この雨の中、どうしてもポスト投函するものがあって、近くのコンビニ前まで行きました。
雨の日の外出は、たまにならいろいろまた風情があっていいもの…
フェンスの外までも枝をのばした百日紅の下は、散った花びらでそこだけピンクの水たまり。
誰もいない小さな公園の草むらには「私たちの天下」と言わんばかりに、
大きなキノコがいくつも傘を広げていました。
雨にぬれる花はかわいそうですが、葉っぱは生き生きとしてツヤツヤ輝いています。
夕暮れどきのことで、私のほかには誰も歩いていませんでした。
ベタベタする湿気はうっとおしいけれど、眼に入る景色はどれもやさしくて生き生きしています。
今、こんな風にひょいと傘をさしてそとを歩いても何も心配ないのは「平和」だから。
私が生まれるほんの数年前までは、どんなに暑い日でも人は皆、綿をきっちり詰めた防災頭巾を首のうしろにぶらさげ、
むねに住所や名前を墨書きした白い布を縫い付けて歩いていました。
ひとたび空襲警報が鳴れば、道端の花を愛でる暇もなく空を見上げつつ走る…。
それが日常だった夏が、確かにあったのですね。
母が「お気に入りの銘仙をモンペにしてしまう時は涙が出た」と言ってました。
母の実家は、さして豊かではなかったわけで…母にとっては数少ない「お出かけ用」だった着物だったと聞きます。
当時の女性たちはみな、お気に入りの紬や銘仙をモンペに作り替えて、
戦時中といういつ終わるともしれないときを過ごしたのですね。
エアコンの効いた部屋の中で、天気に文句ばかり言いつつ、好きなものを食べ、好きなものを着て、
たまに鳴るのは救急車のサイレン。「近所かしら」と耳をそばだてても、遠ざかっていけばそれまで。
身の危険を感じることもなく、穏やかに暮らせる「今」は、戦争を越えた親や祖父母の時代の人が
必死で支えてくれたからこそ、享受できるもの。
毎年8月6日9日は「原爆」のこと、そして15日は戦争すべての様々なことが語られ、報道されます。
今年はなにか「特攻隊」のことが多かったように思います。
かつては「みんなお国のために、喜んで死んでいった」と言われましたが、
「そんなことはない」、実はこう言い残した、こう書き残した…という話を今年聞きました。
「国を守るためじゃない、自分の家族を守るために飛んでいった」という話も。
特攻隊の無線、というのが残っていて、それを聞きました。
「これより突撃」という合図の無線が入り、すぐに「ピーーーーーっ」という単純な音になる、
それは「今、敵艦に向かっている」という音であり、それがプツッと絶えたときが「突撃の瞬間」。
これを受ける側の人は、どんな思いで聞いていたのでしょう。
息子や夫を戦地に出す女性は「生きて帰ってこい」と言えば「非国民」と言われた時代です。
母の知り合いのおばあさんは「手足がなくなってもいいから、生きて帰ってこい」と、
こっそり息子に囁いたといっていたそうな。
無事復員なさったのかどうかまで聞き忘れましたが、どんな思いで送り出したのでしょう。
そんな理不尽な決まり事もない今、平和すぎて緊張感が足りない…そんな気もしています。
「今あるは、過去あればこそ」と、今の時間をどう大切にするか、それを考える日でありたいと思います。
親が子供に対して思う気持ちは変わらないはず?
>手足がなくなってもいいから、生きて帰ってこい
これこそがどんな親でも本心だと思うのです。
それでも、近所の手前?
万歳~と言って送り出さなければならなかった時代。。
戦争というものを知らないけれど、
もう、本当に繰り返してほしくないです。
来週からはまた暑くなるとか。。体調気を付けてくださいね。
言いたいことか言えない、そのことがどれだけ理不尽か、
そこをしっかり考えることですよね。
好き勝手言ってもいいのが自由ではなく、
言うべき時に言うべきことが言える…それだと思うのです。
戦うべき時があるとは確かに思います。
ただ、武力は最後の最後、そのまた最後。
まずは人が持つ最大の武器「言葉」を、
互いに尽くすことを、忘れてはいけないとつくづく思います。
毎日梅雨の真っただ中みたいな天気で、気持ちもメゲますが、
それでも「あの暑さが戻ってくるのはいやだなぁ、なんて、
やっぱり人間は勝手ですねぇ。