すみません袴というのは意外と本にも載っていませんで、写真がありません。
せめて今お福ちゃんが着ている着物アップでゴメンナサイです。
分銅つなぎの模様に貝桶柄、パキッとした色合いですね。
少し小さめ、ティーンエイジャーの着物らしいです。
さて、突然に袴のお話しなんですが、
知り合いのお嬢様が、今年の卒業式に「袴スタイル」でご出席の予定です。
そんなお話しをしていて、着せ方だのなんだのということになったのです。
女袴は「短めに着付ける」というのがカッコいいんですが…。
以前、息子の学校の入学式・卒業式で、袴姿の女性教師を、
何人か拝見したことがあるのですが、なぜか皆さんゾロッと長かったんです。
袴の場合は、タビの上からチラッと足首がみえるかどうか、くらいに
短く着るのがいいんですけどねぇ。そして前よりうしろがちっとあがっている…、
若いお嬢さんほど、キリッとかっこいいものです。
ところで袴をはくときは左足から入れる…というのをご存知でしょうか。
どっちから入れてもよさそうなものですが、バサマに教えられました。
反抗期でしたから、なんでもかんでも「どーして?」と聞いたのですが、
バサマは「決まりごとや!」の一括でオシマイでした。
まぁ自分がはくことはありませんでしたので忘れていましたが、
後年、右足を軸にして立った方が安定するから、と聞きました。
つまり袴をはくときには、ズボンと同じで一瞬片足立ちになります。
袴ってのは、ズボンとちがって幅というか広さがあります。
馬乗り袴など「箱ヒダのスカート」を両足に履くようなもの?
片足で立って、もう片方を袴に入れたとき、引っかかったりして
ぐらついても右足が軸ならブレない、というのです。
だから、というのですがこれ、うそかほんとか知りません。
じゃあ左ききの人で軸足も左なら右からでいいんだと思ったら、
実は武士が切腹するときのあの裃、袴をはくときは右からなのだそうです。
だから右からはくのは縁起が悪い…のでしょうねぇ。
これまたホントかどうか未確認です。
両足いっぺんに飛び込む…やめましょーね。
左ききの人も、がんばって右足軸で、はいてください。
では本日「女袴」のお話です。
女性の服飾の歴史は、まずは貫頭衣から始まり、だんだん進化しますが、
大陸文化の影響を多く受けていまして、なんとなく中国風・韓国風です。
やがて大陸から受けたものを、日本に合うように変えていったわけです。
そこで、貴族の女性は「袴」をはき始めました。
緋の袴で長くひくスタイルですね。一般の女性はもちろんはきませんが、
腰から下にエプロンのような「裳」を巻いていました。
袴の代わりと言いますか、着物の上に更に腰に何かをつける、
これはかなり後まで見られます。
やがて時代が進み、女性は袴を脱ぎました。鎌倉から室町の頃にかけてです。
これ以来、女性は一部(宮中の女性や巫女など)を除いて
袴ははかなくなりました。つまり、女性の袴の歴史ってブツッと切れて
しばらくなかったんですね。復活したのは明治時代です。
維新によって世の中が大きくかわりました。
で、袴が復活したのは昭憲皇太后のおかげ…。
いえ、これって実は「風が吹けば桶屋がもうかる」式の、間接的な関係なんですが
昭憲皇太后というのは明治天皇の奥方様、時代が大きくかわり、
たいへんな時期に皇后として在位したわけですが、
西欧文化を受け入れ、それを広めるにはまずは自分が率先してやるべき、と
自身の立場をよくわきまえた頭脳明晰な女性でありました。実はですねぇ、
日本人が着物きなくなっちゃった一端は、このかたも原因のひとつなんですわ。
つまり、どう考えても着物より洋服のほうが活動的、ですよね。
西欧と肩を並べて行くには、非活動的な着物をやめ洋装にする、と決められて、
お寝巻き以外は着物をお召しにならなかったそうです。
私は今でも、皇室の方々が国賓をお迎えになられたりのレセプションでは、
ゼヒ、いつの場合も日本の盛装である着物を、お召しいただきたいと
思っているのですが、いつもイブニング…これは昭憲皇太后のお考えが
今もいきているということ、なんですわねぇ。わからんでもないが
時代が変わってるんだから…というような柔軟性はないのかなー。
最近はあまりありませんが、たとえば美智子様がご成婚のとき、
ご自宅を出られるのに白いドレスに、シンプルなV字の毛皮のストールを
かけておられました。それがミッチースタイルとしてはやったんですねぇ。
つまり、皇室のなさることや風習などは、奈良平安の時代から、
庶民のあこがれの的だったりしたわけで、時間をかけて
すこしずつ庶民にひろがっていったわけです。
今のひな祭りだの七五三だのも、元はといえば宮中の行事です。
そんなわけで、皇室というのは、別にこうせよと命令をだすわけでなくても、
それを庶民がまねをするという影響力があったんですね。
都が京から江戸に移り、東京となってからはまず関東の人たちが染まってゆく。
喪服が白から黒になり、お雛様の男雛が右から左に移りました。
それもみな、皇室・政府が、外国とのお付合い上決めたことが影響したわけです。
更には戦争なんてものがあって、着物着てはならぬになっちゃいましたからねぇ。
なんかだんだん話しがそれておりますが…。
ともかく昭憲皇太后は、未来の日本について深くご思慮なさり、
婦女子の教育ということにも、熱心にチカラをつくされたそうです。
そういう波がだんだん大きくなっていき、ついには女性も学校へ、
になったわけですが、なんでも最初から完璧はありませんで、
最初は身分のある華族のご令嬢のいくところ、でした。
華族といえばたいへん裕福であり、当時は身分というものもまだありました。
学校で習いましたね、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五階の爵位、
「こうこうはくしだん」と覚えました。
華族というのもややこしくて、元が公家、元が藩主、国家に貢献した功績により
華族となったものなど、もーいろいろあるわけです。
戦争が終わるまで現存したんですよ、この身分制度、つまり「貴族」ですね。
そういうところのお嬢様は、たとえばかつての大名のお姫様、
なんてわけですから、昔なら読み書きはもちろんですが、
あとは和歌だのお琴だの茶の道だの…、
そういうことに励むことがよしとされたわけです。
時代がかわって、女性も学問を…と、そういう風潮が起こったわけですね。
当初は古臭かった内容も改善されてゆき、のちには大学もできたわけですが、
このころ教鞭を振るったのが津田梅子とか下田歌子。
女性の地位を高める動きが、始まったころだったわけです。
なにをするにも「最初の人たち」は苦労したわけですが、
そのかいあって、とりあえず身分の高い家の子女は学校へ行くようになりました。
そこで袴は、いわば通勤着とか制服として使われるようになったわけです。
これを考案したのは華族女学校の校長で、下田歌子。
彼女は幕臣の家系でしたが勤皇派であったため、維新後宮中に上がり、
昭憲皇太后に「和歌」の才能を認められ、「歌子」の名前を賜りました。
あまり詳しくは知らないのですが、結婚して宮中から下がりました。
その後、確か後家さんになったと記憶しているのですが…。
ともかく、教養があったため個人で女性の塾のようなことをしていました。
そんなことから、いよいよ華族女学校ができたとき、教師として働いたわけです。
この人が、英国に視察にいったとき、女子も運動をする、いうのを見て
カルチャーショックを受けたんですね。
それで着物を脱ぐ代わりに、活動的に動ける「女袴」を考案し、
それを制服としたわけです。
昭憲皇太后が女袴の誕生の元、というのはそういうことです。
ちなみに「華族女学校」は、後の「学習院」です。
やれやれ、だいぶ脱線しましたが、やっと結論にたどりつきました。
そういうわけで、今の女袴の歴史はそれほど古くはないわけです。
男袴と女袴では、形が少し違います。男袴は後ろに腰板がついていますが、
女袴は後ろの紐が太くできているだけで、腰板はありません。
また、通常は女袴は「行灯」とよばれる股のマチのない形で、
いってみれば「袴」と言いつつ実はスカートなわけです。ラクですけどね。
下田さんが考案したとき、袴の色は宮中の未婚女性の色に似せて、
海老茶の袴にしたのですが、あの束髪で大きなリボンを飾り、
海老茶の袴に教科書などを抱えて歩く女学生を「海老茶式部」と呼んだそうです。
ブーツもはやったそうですが、あれもまたいいものですね。
さて、今更胸高の海老茶袴なんぞ、まちがってもはけないアタシ、
やっぱもんぺまがいの「カルパン」で闊歩しましょう、
ひとよんで「渋茶式部」…。
せめて今お福ちゃんが着ている着物アップでゴメンナサイです。
分銅つなぎの模様に貝桶柄、パキッとした色合いですね。
少し小さめ、ティーンエイジャーの着物らしいです。
さて、突然に袴のお話しなんですが、
知り合いのお嬢様が、今年の卒業式に「袴スタイル」でご出席の予定です。
そんなお話しをしていて、着せ方だのなんだのということになったのです。
女袴は「短めに着付ける」というのがカッコいいんですが…。
以前、息子の学校の入学式・卒業式で、袴姿の女性教師を、
何人か拝見したことがあるのですが、なぜか皆さんゾロッと長かったんです。
袴の場合は、タビの上からチラッと足首がみえるかどうか、くらいに
短く着るのがいいんですけどねぇ。そして前よりうしろがちっとあがっている…、
若いお嬢さんほど、キリッとかっこいいものです。
ところで袴をはくときは左足から入れる…というのをご存知でしょうか。
どっちから入れてもよさそうなものですが、バサマに教えられました。
反抗期でしたから、なんでもかんでも「どーして?」と聞いたのですが、
バサマは「決まりごとや!」の一括でオシマイでした。
まぁ自分がはくことはありませんでしたので忘れていましたが、
後年、右足を軸にして立った方が安定するから、と聞きました。
つまり袴をはくときには、ズボンと同じで一瞬片足立ちになります。
袴ってのは、ズボンとちがって幅というか広さがあります。
馬乗り袴など「箱ヒダのスカート」を両足に履くようなもの?
片足で立って、もう片方を袴に入れたとき、引っかかったりして
ぐらついても右足が軸ならブレない、というのです。
だから、というのですがこれ、うそかほんとか知りません。
じゃあ左ききの人で軸足も左なら右からでいいんだと思ったら、
実は武士が切腹するときのあの裃、袴をはくときは右からなのだそうです。
だから右からはくのは縁起が悪い…のでしょうねぇ。
これまたホントかどうか未確認です。
両足いっぺんに飛び込む…やめましょーね。
左ききの人も、がんばって右足軸で、はいてください。
では本日「女袴」のお話です。
女性の服飾の歴史は、まずは貫頭衣から始まり、だんだん進化しますが、
大陸文化の影響を多く受けていまして、なんとなく中国風・韓国風です。
やがて大陸から受けたものを、日本に合うように変えていったわけです。
そこで、貴族の女性は「袴」をはき始めました。
緋の袴で長くひくスタイルですね。一般の女性はもちろんはきませんが、
腰から下にエプロンのような「裳」を巻いていました。
袴の代わりと言いますか、着物の上に更に腰に何かをつける、
これはかなり後まで見られます。
やがて時代が進み、女性は袴を脱ぎました。鎌倉から室町の頃にかけてです。
これ以来、女性は一部(宮中の女性や巫女など)を除いて
袴ははかなくなりました。つまり、女性の袴の歴史ってブツッと切れて
しばらくなかったんですね。復活したのは明治時代です。
維新によって世の中が大きくかわりました。
で、袴が復活したのは昭憲皇太后のおかげ…。
いえ、これって実は「風が吹けば桶屋がもうかる」式の、間接的な関係なんですが
昭憲皇太后というのは明治天皇の奥方様、時代が大きくかわり、
たいへんな時期に皇后として在位したわけですが、
西欧文化を受け入れ、それを広めるにはまずは自分が率先してやるべき、と
自身の立場をよくわきまえた頭脳明晰な女性でありました。実はですねぇ、
日本人が着物きなくなっちゃった一端は、このかたも原因のひとつなんですわ。
つまり、どう考えても着物より洋服のほうが活動的、ですよね。
西欧と肩を並べて行くには、非活動的な着物をやめ洋装にする、と決められて、
お寝巻き以外は着物をお召しにならなかったそうです。
私は今でも、皇室の方々が国賓をお迎えになられたりのレセプションでは、
ゼヒ、いつの場合も日本の盛装である着物を、お召しいただきたいと
思っているのですが、いつもイブニング…これは昭憲皇太后のお考えが
今もいきているということ、なんですわねぇ。わからんでもないが
時代が変わってるんだから…というような柔軟性はないのかなー。
最近はあまりありませんが、たとえば美智子様がご成婚のとき、
ご自宅を出られるのに白いドレスに、シンプルなV字の毛皮のストールを
かけておられました。それがミッチースタイルとしてはやったんですねぇ。
つまり、皇室のなさることや風習などは、奈良平安の時代から、
庶民のあこがれの的だったりしたわけで、時間をかけて
すこしずつ庶民にひろがっていったわけです。
今のひな祭りだの七五三だのも、元はといえば宮中の行事です。
そんなわけで、皇室というのは、別にこうせよと命令をだすわけでなくても、
それを庶民がまねをするという影響力があったんですね。
都が京から江戸に移り、東京となってからはまず関東の人たちが染まってゆく。
喪服が白から黒になり、お雛様の男雛が右から左に移りました。
それもみな、皇室・政府が、外国とのお付合い上決めたことが影響したわけです。
更には戦争なんてものがあって、着物着てはならぬになっちゃいましたからねぇ。
なんかだんだん話しがそれておりますが…。
ともかく昭憲皇太后は、未来の日本について深くご思慮なさり、
婦女子の教育ということにも、熱心にチカラをつくされたそうです。
そういう波がだんだん大きくなっていき、ついには女性も学校へ、
になったわけですが、なんでも最初から完璧はありませんで、
最初は身分のある華族のご令嬢のいくところ、でした。
華族といえばたいへん裕福であり、当時は身分というものもまだありました。
学校で習いましたね、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五階の爵位、
「こうこうはくしだん」と覚えました。
華族というのもややこしくて、元が公家、元が藩主、国家に貢献した功績により
華族となったものなど、もーいろいろあるわけです。
戦争が終わるまで現存したんですよ、この身分制度、つまり「貴族」ですね。
そういうところのお嬢様は、たとえばかつての大名のお姫様、
なんてわけですから、昔なら読み書きはもちろんですが、
あとは和歌だのお琴だの茶の道だの…、
そういうことに励むことがよしとされたわけです。
時代がかわって、女性も学問を…と、そういう風潮が起こったわけですね。
当初は古臭かった内容も改善されてゆき、のちには大学もできたわけですが、
このころ教鞭を振るったのが津田梅子とか下田歌子。
女性の地位を高める動きが、始まったころだったわけです。
なにをするにも「最初の人たち」は苦労したわけですが、
そのかいあって、とりあえず身分の高い家の子女は学校へ行くようになりました。
そこで袴は、いわば通勤着とか制服として使われるようになったわけです。
これを考案したのは華族女学校の校長で、下田歌子。
彼女は幕臣の家系でしたが勤皇派であったため、維新後宮中に上がり、
昭憲皇太后に「和歌」の才能を認められ、「歌子」の名前を賜りました。
あまり詳しくは知らないのですが、結婚して宮中から下がりました。
その後、確か後家さんになったと記憶しているのですが…。
ともかく、教養があったため個人で女性の塾のようなことをしていました。
そんなことから、いよいよ華族女学校ができたとき、教師として働いたわけです。
この人が、英国に視察にいったとき、女子も運動をする、いうのを見て
カルチャーショックを受けたんですね。
それで着物を脱ぐ代わりに、活動的に動ける「女袴」を考案し、
それを制服としたわけです。
昭憲皇太后が女袴の誕生の元、というのはそういうことです。
ちなみに「華族女学校」は、後の「学習院」です。
やれやれ、だいぶ脱線しましたが、やっと結論にたどりつきました。
そういうわけで、今の女袴の歴史はそれほど古くはないわけです。
男袴と女袴では、形が少し違います。男袴は後ろに腰板がついていますが、
女袴は後ろの紐が太くできているだけで、腰板はありません。
また、通常は女袴は「行灯」とよばれる股のマチのない形で、
いってみれば「袴」と言いつつ実はスカートなわけです。ラクですけどね。
下田さんが考案したとき、袴の色は宮中の未婚女性の色に似せて、
海老茶の袴にしたのですが、あの束髪で大きなリボンを飾り、
海老茶の袴に教科書などを抱えて歩く女学生を「海老茶式部」と呼んだそうです。
ブーツもはやったそうですが、あれもまたいいものですね。
さて、今更胸高の海老茶袴なんぞ、まちがってもはけないアタシ、
やっぱもんぺまがいの「カルパン」で闊歩しましょう、
ひとよんで「渋茶式部」…。
勉強になりました。
でもすごいですよね、これだけ調べて
書かれるの・・・文章を書くのはお好きだと
おっしゃっていましたが、さすがですね。
和楽器を教育に入れてきていますから、
皇室にももっと働きかけて公式の場で着物を着られるといいですのにね。
そうすれば庶民も見習う?
タレントさんの着物姿も増えていますから
この流れが変わらないことを願います。
その着物姿や髪型が少々洋風であろうとも、
着物を着ること自体が増えれば、嬉しいです。
今週のクロワッサンの着物の時間で
馬場あき子女史もそんな意味のことを書いていらっしゃってました。
皇室を真似ての、芸能人及び一般人による、
衣冠束帯・十二単の姿の結婚式・・
あれは是非やめて貰いたい・・(いったい何様のつもだっ!もっと皇室を重んぜよ)と思うのは私だけだろうか?
あっ!また「り」の字が抜けてる・・
ボクはひらがな打ちなんだけれども「り」の字のキィーが今ひとつ調子がワルイのだ、余程強く押さないと
「り」字が出てきやしねぇ・・
ちなみにボクも、とんぼさんと同じNECのノートパソコンだ、前記事の画像をみればShiftキィー
に絆創膏みたいなものが貼ってあったけど、ボクのも
Shiftキィーの上っ面が剥がれてちまって、今は
無い、だからその下にある突起状のものをクニュクニュ押さえながらやっている・・それからDVDも起動しない・・
ありがとうございます。
いつの間にか「自分がきになること」だけ
選り好みして覚えてきました。
けっこうあやふやな記憶も多くて、
古い資料を引っ張り出したりしています。
記憶力、減退してますわー。
うまこ様
年賀のときなんて、全員紋付に訪問着で
いいと思うんですけれど、皇室の殿方は
紋付はお召しにならないんですよね。
そのへん、カタいですね。
少しずつ、着物人が増えてくれるといいと思います。
伊藤様
そういうものを用意する式場側が、
法律で禁止されてなくても
「そういうことはご不敬じゃないかと存じます」
という思いよりも、そろばんがアタマに浮かんだ、
ということでしょうし、
親もまた子供に「そこは侵しちゃいけない領域だよ」
と、いう感覚をなくしてますね。
総体に「敬う」という自我見えない世の中です。
あの絆創膏は「ケガしちゃったの」みたいな
アピールと、まちがって使わない目印です。
ノーパはDVD壊れやすいといいますね。
私はほとんどCDしか使わなかったんですが、
年賀状のときソフト使えないことに気がついて
マッサオ!確実な方法として、外付けつけました。
伊藤様のノーパさんもお大事に!