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ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

今日は歌舞伎話題の方が

2013-04-02 18:28:39 | 着物・古布

 

過去写真からの引っ張り出しです。

今日の日を、一緒に迎えるはずだった、惜しい方々に敬意を表しまして…。

 

今日は雨の中、歌舞伎座にお出かけになられたブロガーの方もたくさんいらっしゃるはず。

よそ様のブログでの公演の報告記事で、行った気になろうという、このアタシです。

 

ここでもう一枚、古写真、これは縮緬じゅばん、「ヒイキ」なんて字もあるんですよ。

 

           

 

さて、歌舞伎座がリニューアル・オープン…なんていうと、なんか安っぽく聞こえちゃいますね。

ここはやっぱり「こけら落とし」でしょう。

実は「こけら」という漢字、下書きではちゃんと出るのに、アップすると出ません。

えーと「柿(かき)」という字と間違えられやすいのですが、「かき」の方は、木ヘンに市町村の「市」、

「こけら」の方は木ヘンに横棒の「一」を書いて、下に「巾」という字、縦棒を一の上から突き抜けて書きます。

だから画数も一画減ります。

 

「こけら」は、大工さんが建築の際、木を削ったりして出る木屑のことですが、

屋根を葺いたあと、屋根の上に残る木屑などを下に掃き落としたことから

「完成後の初舞台」の意味に使われるようになりました。

なので、本来は舞台関係の建物についての言葉でしたが、

今はなんでも、出来上がって開場することを言うようになりましたね。

 

さて、歌舞伎についてはそれほど専門的なことはわからないので、歴史的なことでお話いたしますと…。

歌舞伎の世界は、いまや「名門」とか跡継さんを「御曹司」とか呼びますが、

かつて歌舞音曲を生業とするものは、身分卑しいものとされていました。賎民とかですね。

一箇所に定住し、農業や技術などで日々の糧を得る人たちと比べて、娯楽を生業とする流れ者集団…。

河原で興行して、日々の米や食料を乞うから…また女性は舞台を降りての「売色」ということもありましたから

一段下に見られていたわけですね。

芸能関係のひとのことを「河原乞食」とか「河原モノ」と蔑称で呼ぶことがありますが、

そういう言葉の成り立ちによる名残です。 

余談ですが、元々「河原もの」の本来の意味は「皮革加工業者」のこと。

殺生に関わり、皮を加工するシゴトであったため、これもまた賎民とされていました。

役者も河原の広いところで舞台を張ったことで、混同されたようですね。

 

始祖といわれる出雲阿國が一世を風靡して以来…歌舞伎はその後さまざまな制約を受けることとなります。

今と違うのは演目も卑猥なものがあったり、舞台後の「売色」のほうがメインだったり…

そんな亜流も多かったわけで、まず「女性がやってはならん」になりました。

これが今に至るも、守られているわけですねぇ。ほんとは歌舞伎は女が始めたのに~~!

とりあえず、男だけでやらなきゃならなくなったので「女形」が誕生したわけです。

美少年に女装をさせて舞台に上げていましたら、今度はこれがイカン…になり、

「元服前の男子」は使ってはならぬ…になりました。当時の元服は15~16歳で前髪を落とし、月代を剃ります。

舞台に並ぶのは、たとえ少年と言われる年代でも、頭の真ん中そりあげた「一人前の野郎ばかり」、

なので「野郎歌舞伎」なんていわれました。役者の頭に、紫ちりめんを簪でとめるスタイルがありますが、

あれは「月代」を隠して、少しでも男っぽさを隠すため、と言われています。「野郎帽子」とも言います。

 

その後、とりあえず男だけでやってきましたが、常設で芝居小屋が並ぶようになっても身分は変わらず…

1700年代に入ってようやく奉行所から「ま、あんたたちも定住してがんばってるしね」…

といわれたかどうかは別として、ちゃんと良民である、という身分を与えられました。

役者さんは売れれば売れるほど、庶民なんぞより裕福になるわけですが(このへん今もそうですねぇ)、

元々の身分もありますから、表立って副業に励むのははばかられ、

実家や親戚の屋号などを名乗って副業を始めた…というのが、今の屋号の始まりとされています。

トップスターはともかく、脇役や若手さんは、バイトや副業しなきゃたいへんだったでしょうしねぇ。

今でも話の中で「成田屋さんの」とか「音羽屋さんが」とか表現するのは、

役者の内では、「何衛門さん」とか「何之助さん」と、名前で呼ぶのは、失礼に当たるからだそうです。

名前一つにも、時の積み重ねを感じます。

 

とまぁそんなわけで、元々は旅から旅への…だったものが関西関東、どちらにも根を下ろして、

定住し、定職となった…わけです。

名門、とか御曹司、と呼ばれることは、その出自からみれば、ちょっと外れることではありますけれど、

どんなに蔑視されても、芸に生き、芸を磨き、人に感動を与え、人から賞賛される地位を築き、

今に至る歴史をみれば、そういう言葉もすんなり納得できようというものです。継続は力なり、ですね。

私はいつか歌舞伎を見に行けることがあったら、敬意を表してやっぱ訪問着かな、と思っています。

 

さて、最後に「梨園」と言う言葉、これは歌舞伎界のことですが、

唐の玄宗皇帝が、自分の好きな音楽を楽しむために作った、いわば「皇帝専属宮廷音楽隊養成所」。

梨の木が多く植えられた庭園で、皇帝自らが指導することもあったことから「梨園弟子」と呼ばれたんだそうです。

本来は、歌舞音曲全般にわたるのでしょうけれど、日本でのその方面は、歌舞伎が一番人気があったし、

歴史を積み重ねてきたこともあって、歌舞伎界の呼び方になったのですね。

 

実は…私はもし歌舞伎座へ行けたら、舞台よりも「お土産コーナー」に直行するタイプです。

歌舞伎幕のエクレア…すぐ売切れるとか…。

いつの日か…訪問着着て、開場と同時にエクレア売り場に突進するおばさんがいたら…それはアタシざんす。 


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (とんぼ)
2013-04-03 23:53:30
まあや様

衣装の豪華さだけでも、見る価値あり…ですね。
物語の複雑さなど、めんどくさい部分はこっちへおいて、
ただもう見ているだけでもステキだと思います。
返信する
Unknown (とんぼ)
2013-04-03 23:50:27
天鼓様

歌舞音曲は、神代の昔から…で、生業としては、
素質があれば誰でもできる…。
その産まれや育ちで、道もわかれたのでしょうね。
文楽もクグツからですし、角付けは、
女性の正月用特別商売でしたし。

なにによらず、きびしいとはいえ、逆におおらか、
と言う気風も今よりあったといわれていますね。
ちなみに男性同士の「道」は、子供がうまれないことが、
逆に「真の思い」と言う考え方もあったわけです。
特に武家社会の人は、結婚は当たり前に政略で、
しかも跡継ぎを作るための結婚でしたから、
子供が望みではない交わりが、本当のつながり…
というような。
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Unknown (とんぼ)
2013-04-03 23:41:47
陽花様

今はもう死語ですねぇ。
そのかわり、芝居をすることを運命付けられて…
というご苦労もあるのだろうなぁとか、
伝統というものの重さも感じています。
返信する
詳しくないけれど歌舞伎大好きでして (まあや)
2013-04-03 17:58:49
子どもの時数回、祖母と見ただけで、詳しいことも知りませんが、歌舞伎大好き。
衣装の独特の色使いが、特に勧進帳の富樫(冨樫?)の衣装の緑と青と卵色のような色、好きでしょうがないです。
返信する
Unknown (天鼓)
2013-04-03 00:00:35
歌舞伎だけでなく、芸能関係は元々はみんなそうですね。
部外関係だけでなく、音楽関係も三味線も尺八も、門付けとか。
例外は「礼」として入ってきた雅楽(舞含む)くらい。

「売色」はダメ、で男性のみになったのに、江戸時代までは日本では問題なかったので、やっぱり役者の「売色」はあったようです。
男だったらいいのか?と思ったことがあります。

「○○屋」、副業の屋号とは初めて知りました。
同じ名字でもなぜ屋号は違う?と随分不思議に思ってたんですよ。
返信する
Unknown (陽花)
2013-04-02 23:14:21
私も河原乞食という言葉を随分前に
聞いた事があります。
昔はそんな風に言われていたのに
今とは随分違いますね。
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