過去写真からの引っ張り出しです。
今日の日を、一緒に迎えるはずだった、惜しい方々に敬意を表しまして…。
今日は雨の中、歌舞伎座にお出かけになられたブロガーの方もたくさんいらっしゃるはず。
よそ様のブログでの公演の報告記事で、行った気になろうという、このアタシです。
ここでもう一枚、古写真、これは縮緬じゅばん、「ヒイキ」なんて字もあるんですよ。
さて、歌舞伎座がリニューアル・オープン…なんていうと、なんか安っぽく聞こえちゃいますね。
ここはやっぱり「こけら落とし」でしょう。
実は「こけら」という漢字、下書きではちゃんと出るのに、アップすると出ません。
えーと「柿(かき)」という字と間違えられやすいのですが、「かき」の方は、木ヘンに市町村の「市」、
「こけら」の方は木ヘンに横棒の「一」を書いて、下に「巾」という字、縦棒を一の上から突き抜けて書きます。
だから画数も一画減ります。
「こけら」は、大工さんが建築の際、木を削ったりして出る木屑のことですが、
屋根を葺いたあと、屋根の上に残る木屑などを下に掃き落としたことから
「完成後の初舞台」の意味に使われるようになりました。
なので、本来は舞台関係の建物についての言葉でしたが、
今はなんでも、出来上がって開場することを言うようになりましたね。
さて、歌舞伎についてはそれほど専門的なことはわからないので、歴史的なことでお話いたしますと…。
歌舞伎の世界は、いまや「名門」とか跡継さんを「御曹司」とか呼びますが、
かつて歌舞音曲を生業とするものは、身分卑しいものとされていました。賎民とかですね。
一箇所に定住し、農業や技術などで日々の糧を得る人たちと比べて、娯楽を生業とする流れ者集団…。
河原で興行して、日々の米や食料を乞うから…また女性は舞台を降りての「売色」ということもありましたから
一段下に見られていたわけですね。
芸能関係のひとのことを「河原乞食」とか「河原モノ」と蔑称で呼ぶことがありますが、
そういう言葉の成り立ちによる名残です。
余談ですが、元々「河原もの」の本来の意味は「皮革加工業者」のこと。
殺生に関わり、皮を加工するシゴトであったため、これもまた賎民とされていました。
役者も河原の広いところで舞台を張ったことで、混同されたようですね。
始祖といわれる出雲阿國が一世を風靡して以来…歌舞伎はその後さまざまな制約を受けることとなります。
今と違うのは演目も卑猥なものがあったり、舞台後の「売色」のほうがメインだったり…
そんな亜流も多かったわけで、まず「女性がやってはならん」になりました。
これが今に至るも、守られているわけですねぇ。ほんとは歌舞伎は女が始めたのに~~!
とりあえず、男だけでやらなきゃならなくなったので「女形」が誕生したわけです。
美少年に女装をさせて舞台に上げていましたら、今度はこれがイカン…になり、
「元服前の男子」は使ってはならぬ…になりました。当時の元服は15~16歳で前髪を落とし、月代を剃ります。
舞台に並ぶのは、たとえ少年と言われる年代でも、頭の真ん中そりあげた「一人前の野郎ばかり」、
なので「野郎歌舞伎」なんていわれました。役者の頭に、紫ちりめんを簪でとめるスタイルがありますが、
あれは「月代」を隠して、少しでも男っぽさを隠すため、と言われています。「野郎帽子」とも言います。
その後、とりあえず男だけでやってきましたが、常設で芝居小屋が並ぶようになっても身分は変わらず…
1700年代に入ってようやく奉行所から「ま、あんたたちも定住してがんばってるしね」…
といわれたかどうかは別として、ちゃんと良民である、という身分を与えられました。
役者さんは売れれば売れるほど、庶民なんぞより裕福になるわけですが(このへん今もそうですねぇ)、
元々の身分もありますから、表立って副業に励むのははばかられ、
実家や親戚の屋号などを名乗って副業を始めた…というのが、今の屋号の始まりとされています。
トップスターはともかく、脇役や若手さんは、バイトや副業しなきゃたいへんだったでしょうしねぇ。
今でも話の中で「成田屋さんの」とか「音羽屋さんが」とか表現するのは、
役者の内では、「何衛門さん」とか「何之助さん」と、名前で呼ぶのは、失礼に当たるからだそうです。
名前一つにも、時の積み重ねを感じます。
とまぁそんなわけで、元々は旅から旅への…だったものが関西関東、どちらにも根を下ろして、
定住し、定職となった…わけです。
名門、とか御曹司、と呼ばれることは、その出自からみれば、ちょっと外れることではありますけれど、
どんなに蔑視されても、芸に生き、芸を磨き、人に感動を与え、人から賞賛される地位を築き、
今に至る歴史をみれば、そういう言葉もすんなり納得できようというものです。継続は力なり、ですね。
私はいつか歌舞伎を見に行けることがあったら、敬意を表してやっぱ訪問着かな、と思っています。
さて、最後に「梨園」と言う言葉、これは歌舞伎界のことですが、
唐の玄宗皇帝が、自分の好きな音楽を楽しむために作った、いわば「皇帝専属宮廷音楽隊養成所」。
梨の木が多く植えられた庭園で、皇帝自らが指導することもあったことから「梨園弟子」と呼ばれたんだそうです。
本来は、歌舞音曲全般にわたるのでしょうけれど、日本でのその方面は、歌舞伎が一番人気があったし、
歴史を積み重ねてきたこともあって、歌舞伎界の呼び方になったのですね。
実は…私はもし歌舞伎座へ行けたら、舞台よりも「お土産コーナー」に直行するタイプです。
歌舞伎幕のエクレア…すぐ売切れるとか…。
いつの日か…訪問着着て、開場と同時にエクレア売り場に突進するおばさんがいたら…それはアタシざんす。
衣装の豪華さだけでも、見る価値あり…ですね。
物語の複雑さなど、めんどくさい部分はこっちへおいて、
ただもう見ているだけでもステキだと思います。
歌舞音曲は、神代の昔から…で、生業としては、
素質があれば誰でもできる…。
その産まれや育ちで、道もわかれたのでしょうね。
文楽もクグツからですし、角付けは、
女性の正月用特別商売でしたし。
なにによらず、きびしいとはいえ、逆におおらか、
と言う気風も今よりあったといわれていますね。
ちなみに男性同士の「道」は、子供がうまれないことが、
逆に「真の思い」と言う考え方もあったわけです。
特に武家社会の人は、結婚は当たり前に政略で、
しかも跡継ぎを作るための結婚でしたから、
子供が望みではない交わりが、本当のつながり…
というような。
今はもう死語ですねぇ。
そのかわり、芝居をすることを運命付けられて…
というご苦労もあるのだろうなぁとか、
伝統というものの重さも感じています。
衣装の独特の色使いが、特に勧進帳の富樫(冨樫?)の衣装の緑と青と卵色のような色、好きでしょうがないです。
部外関係だけでなく、音楽関係も三味線も尺八も、門付けとか。
例外は「礼」として入ってきた雅楽(舞含む)くらい。
「売色」はダメ、で男性のみになったのに、江戸時代までは日本では問題なかったので、やっぱり役者の「売色」はあったようです。
男だったらいいのか?と思ったことがあります。
「○○屋」、副業の屋号とは初めて知りました。
同じ名字でもなぜ屋号は違う?と随分不思議に思ってたんですよ。
聞いた事があります。
昔はそんな風に言われていたのに
今とは随分違いますね。