父といいましても、実父、つまり私が12のときになくなった「馬面父」の方。
この写真の説明によれば、東京官立工芸学校受験用の証明写真。
これがまたややこしいのですが、当初は「東京芝浦」にあったそうで。
結局現在の千葉大学の「工学部」の母体となったそうです。
以前「千葉工大」というのがありましたが、そこの元でもあるようです。
どうやら父は工業デザインとテクノロジーと両方やっていたらしい…。
その「アタマ」は残念ながら、うけつぎませんでひたー。
で、この父の着ている着物なのですが、当然母もみたことがありません。
時代からいって木綿だとおもいます。
当時18歳ですから割と柄も大きめ、なのでしょう。
私の頭のなかでは「これは紺であるべき」となってます。ですよね。
私の記憶の中の父は、着物より洋装が多かったのですが、
冬の夜などは「どてら」でした。らくだのシャツと股引、タビではなく、
昼間の靴下そのままはいてましたっけ。
兵児帯のあの絞りが伸び縮みするのが面白くて、ひっぱって遊んでは、
母に叱られてました。一応「絹もの」だったようです。
半天姿も記憶にあり、また母の話では子煩悩な人でしたから、
私が赤ん坊のころは私をおぶって、銘仙のねんねこを着てそのへんを
子守して歩いていたとか…昔はそういう「おとーちゃん」も結構いたんですよね。
今の父も冬場やお正月には「母のめーれー」によって、
着物を着ていました。それでいて母は「男もんの着物はほんまにおもろない」と
けなしていましたっけ。オットのアンサンブルを作ったときも、父の着物を出して
「並べといたらどっちゃでもおんなじやな、二人ともまんま50年着られるわ」
なるほど、それで「男物」は数が少ないのねぇ…。
男着物は、女性より更に更に「風化」してしまいましたから、
いまや「小紋」を着る男性がなかなかおりません。
それが残念ですー。木綿の唐桟や会津を着ているのもかっこいいですが、
間近で見なきゃ柄がわからないような「いわれ小紋」なんか、
きてみてほしいものです。今の父も正絹の着物ももちろんありますが、
ウールとの足捌きの違いを実感して、やっぱいいなぁ、と言っておりました。
歩いたときの前裾の「返り」、あれがいいですね。
母は私が嫁にでるとき「若いうちは男もウールでいいけど、
じゅばんだけは、安もんでええから絹のじゅばん着せたりや」と言いました。
じゅばんが絹であるだけで、裾捌きが違うからと。
でもねぇ、結局は我が家の男性は「言わなきゃ着ない、着せなきゃ着ない」です。
もったいないなぁ…。
本日のおまけ、一緒に出てきた私の写真、1歳ちょいです。
着物は裾の影になっているところを見ると、細かいマーガレットみたいな花柄。
これはさすがに記憶がありませんねぇ。
たぶん、母の洋服だったものだとはおもうんですが。
この乳母車は、かすかに記憶があります。
最後はゆがんじゃって、おしても車輪が浮き上がっていたと思います。
乗っているお人形は記憶がありません、あの「文化人形」だとは思うんですが。
女の子って、昔からこういうものがすきなんですね。
この写真の説明によれば、東京官立工芸学校受験用の証明写真。
これがまたややこしいのですが、当初は「東京芝浦」にあったそうで。
結局現在の千葉大学の「工学部」の母体となったそうです。
以前「千葉工大」というのがありましたが、そこの元でもあるようです。
どうやら父は工業デザインとテクノロジーと両方やっていたらしい…。
その「アタマ」は残念ながら、うけつぎませんでひたー。
で、この父の着ている着物なのですが、当然母もみたことがありません。
時代からいって木綿だとおもいます。
当時18歳ですから割と柄も大きめ、なのでしょう。
私の頭のなかでは「これは紺であるべき」となってます。ですよね。
私の記憶の中の父は、着物より洋装が多かったのですが、
冬の夜などは「どてら」でした。らくだのシャツと股引、タビではなく、
昼間の靴下そのままはいてましたっけ。
兵児帯のあの絞りが伸び縮みするのが面白くて、ひっぱって遊んでは、
母に叱られてました。一応「絹もの」だったようです。
半天姿も記憶にあり、また母の話では子煩悩な人でしたから、
私が赤ん坊のころは私をおぶって、銘仙のねんねこを着てそのへんを
子守して歩いていたとか…昔はそういう「おとーちゃん」も結構いたんですよね。
今の父も冬場やお正月には「母のめーれー」によって、
着物を着ていました。それでいて母は「男もんの着物はほんまにおもろない」と
けなしていましたっけ。オットのアンサンブルを作ったときも、父の着物を出して
「並べといたらどっちゃでもおんなじやな、二人ともまんま50年着られるわ」
なるほど、それで「男物」は数が少ないのねぇ…。
男着物は、女性より更に更に「風化」してしまいましたから、
いまや「小紋」を着る男性がなかなかおりません。
それが残念ですー。木綿の唐桟や会津を着ているのもかっこいいですが、
間近で見なきゃ柄がわからないような「いわれ小紋」なんか、
きてみてほしいものです。今の父も正絹の着物ももちろんありますが、
ウールとの足捌きの違いを実感して、やっぱいいなぁ、と言っておりました。
歩いたときの前裾の「返り」、あれがいいですね。
母は私が嫁にでるとき「若いうちは男もウールでいいけど、
じゅばんだけは、安もんでええから絹のじゅばん着せたりや」と言いました。
じゅばんが絹であるだけで、裾捌きが違うからと。
でもねぇ、結局は我が家の男性は「言わなきゃ着ない、着せなきゃ着ない」です。
もったいないなぁ…。
本日のおまけ、一緒に出てきた私の写真、1歳ちょいです。
着物は裾の影になっているところを見ると、細かいマーガレットみたいな花柄。
これはさすがに記憶がありませんねぇ。
たぶん、母の洋服だったものだとはおもうんですが。
この乳母車は、かすかに記憶があります。
最後はゆがんじゃって、おしても車輪が浮き上がっていたと思います。
乗っているお人形は記憶がありません、あの「文化人形」だとは思うんですが。
女の子って、昔からこういうものがすきなんですね。
ますね。
舌を出してる可愛い写真、小さいのに上手に
鼻緒のじょじょ履いていますね~。
ありがとうございます。
着物業界もやっとグローバル化の動きが出てきて
共同で、男性用の着物一式の価格破壊に成功したそうです。
休日を和服で過ごされる方が増えて、着てみたいけど
お値段が…という声に応えて、呉服屋さん同士協力で開発
価格を抑えて品質を維持した男性着物は好評だそうです。
女性に比べて絶滅状態だった殿方の着物。
復活してほしいものです。
明治うまれの両家の父も主人も家でくつろいでいるときは
いつも和服でした。 お父様の着物姿そのままに、
絹ものだったり、絣だったり、ウールだったりでした。
咲き織りをはじめたときに一枚をほどいてベスト用を
織って仕立てました。
息子は184センチで、なかなか反物の長いものに
よい雰囲気のがなかったのと、ジーンズ世代ですから
着せたい!!とも思わずにの今日です。
改めて写真を拝見しますと、ストレスの多い今、
着物姿でくつろぐ姿が見たいですね。
お嫁さんもジーンズですから、無理かな...。
父の顔を、上下につぶすと私だと
いわれています。
このころってなんかはが伸びるのに
かゆかったんでしょうか、
どの写真もしたを出していて「あさり」と
呼ばれていました。
そういわれてみれば、このころから
ゲタであそんでましたねぇ。
ほのぼのしていただいてよかったです。
男着物は、なんかやたらと高いものが
着られる人ばっかりが、
着物はいいですよ、とやっている気がして…。
着物業界は、根底から考え直す必要が
あるんでしょうね。
黄八丈のようなどてらとか、紺色系のはんてん
そんな記憶があります。
今のかたは特に男の人は体が大きくて
「古着」のいいのがあっても着られませんね。
男物羽織なんて、私でも着られるくらいです。
我が家もいくら言っても着たがりません。
ゆったりするにはいいんですけどねぇ。