記事をアップしようとして、9.11という日であることを思い出しまして…。
すみませんが、今日はこちらのお話。
あの日から10年…なんですね。
私は今いるこの部屋で、早朝のNHKニュースをみており、まだ詳細がわからなくて「~のようです」と、
話をしている松平アナのうしろの画面で、二機目がビルに吸い込まれるように突っ込むのを見ていました。
そのあとの惨状は、世界中の人々の知るところです。
あの時、主人は海外にいました。アジア圏です。行ったりきたりしていたのですが、
あの事件以来、動けなくなりました。帰れない上、日本からの交代要員や出張予定の人も
一切動くなと会社からの命令でした。命のキケンということならば仕方ないことでしたが、
いつまでこんなことが続くのかと、不安になりました。
いつのまにか、あれから10年、私たちは遠い日本にいて、もうあまり関係ないことのように思えて、
「あぁたいへんだったよね、あのときは」です。
先日「ビンラディン殺害」というニュースが流れて、おぉそうだった…なんて感じです。
でも、アメリカ国内では、この10年で、いろんなことがあったわけで…。
またそれで終わったわけではありません。
渡辺謙のリポートを見ました。
ニューヨークにある「遺族の運営する記念館」、そこは、あの9.11でなくなった消防士の父親が
館長を勤めていました。展示されている息子さんの消防服の悲しかった事。
ハイジャックされた機のゆがんだ窓枠、あのタワーのレストランで使われていた曲がったフォーク…。
本物は、言葉より雄弁ですね。
その館長さんが「こういう館を作ったのは、憎しみや悲しみを越えて、忘れないため、伝えるため、
エジュケィション(教育)になると思うから」と言いました。
別に押し付ける教育と言うことでなく「何かを学べるよすが」と言うことですね。
震災も原発も、まだ何も終わっていません。その上、今度は紀伊半島の水害です。
そのときは大変だと言っても、近くにいないものは、日々そのことが思考を支配する時間は減っていきます。
でも忘れてはいけないのですよね。学ばなきゃいけません。
私はあの福島原発の事故がおきたとき(今はアレは人間による事件だと思っていますが)、
チェルノブイリのことやスリーマイルのことと同時に、東海村の臨界事故のことを思い出しました。
当時「あまりにもズサンな作業方法であったがために起こった事故だ」…という認識はありましたが、
被爆するとどうなるか…ということに対して、知識がありませんでしたから、
広島や長崎での原爆よりは、バクダンでない分、手足が吹き飛ぶとかそういうことはなかったのだろう、
そんな程度の知識でした。情けないことに…です。
それでも、放射能というものは、体の中に入ってしまったら、
もうどうすることもできないものなのだということだけは、当時「治療法がないなんて」と、
とても恐ろしく感じたことは覚えています。
最近になって、こんな本があるのを知りました。
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朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫) |
クリエーター情報なし | |
新潮社 |
あの1999年、東海村の臨界事故の被害者大内さんの、事故にあってから亡くなるまでのドキュメンタリーです。
初めて知ることがたくさんありました。
彼らが浴びたのは「中性子線・ガンマ線」という放射線です。放射能物質ではありません。
だから、そばにいても二次感染はなかったのですね。そんなことすら、当時はわからなかったのだそうです。
被害者が浴びた中性子線は、浴びた時は痛くも痒くもない、あのレントゲンと同じですね。
ところが、その瞬間、体中に突き刺さった放射線は、全ての染色体を破壊する…。
染色体は、要するに細胞の設計図です。それを一瞬にして全部壊されるとどういうことになるか。
人間の体の細胞は、毎日少しずつあたらしいものに変わっていきます。
皮膚の表面のものは「垢」になって落ちていくし、誤って生爪をはがすことがあってもまた再生されます。
その全ての「再生」がなくなったわけです。すぐには何も起こらない…でも、少しずつ日がたって、
表面の細胞が垢になって取れていくと…皮膚は二度と再生されないので、むき出しになるのです。
体液がどんどん流れ出てゆく…。その「再生されない」ことは内臓にも及ぶわけです。
なくなった後解剖した結果、内臓の粘膜は、何もなかったそうです。
それなのに、心臓の筋肉だけは、細胞が破壊されていなかったのだとか。
人の「生きる」という力の強さを思います。
残酷なことに、脳細胞はその「新陳代謝」がほとんどないために、最後まで変わらない…。
意識はずっとあると言うことです。途中からはもう薬で眠らせるほかなかったそうですが、
まだ意識があるとき「帰りたい」と訴え「俺はモルモットじゃない」といったそうです。
壮絶…などという言葉では言い表せないほどの過酷な83日間を生きた被害者。
その83日間の被害者と医師たちとの放射能との闘いの全てから、何か学べているのでしょうか。
実は、途中まで読んで、まだ全部読めないまま置いてありました。気が重くて進まないのです。
この医療に携った医師や看護師の中には、国内初めての臨界による被爆患者であったがために、
データを取り、治療の効果をみるために生かしているのでは…というキモチがぬぐえない人もいたわけです。
もちろん医療関係者は、どんな場合でも「命を救う、生かす」ことを最優先にします。
それでも心の矛盾は起こる…。それほどひどい状態だったのですね。
安全をないがしろにしたと、この事故の責任は裁判で争われました。それで終りですか。
今、福島でおきていることは、この臨界事故とは違います。でも、同じ状態にはならない…という保証はありません。
第一、いったい本当は何がどうなっているのか。「~の恐れはない」という報告ばかりですが、
それは本当に信頼できることなのか…。
テロリストたちでさえ、原発を攻撃することは、現段階では放射能の拡散を予測できないからやめたと言います。
人が作り出すものは、使い方によって人を滅ぼすものとなる…賢くなければ生き抜いていけないのは、
自然界に生きる動物たちよりも、実はもっと難しいことだと思うのです。
放射能を出すものを使う、と言うことのリスクをよーくよーく考えなければならないと、
今日は改めて思いました。
思えず、映画のワンシーンを撮っている
ような気がしました。
あれから10年も経ったんですね。
色んな事が次々起きて、この先どうなって
しまうのだろうと不安に思います。
ついこの間に起こった出来事に様に感じますが
10年経ったのですねぇ
9.11 も 3.11と共に
この先 風化しない様に 心に留めて生きていかなくては
私も何度見ても「映画」のように見えてなりませんでした。
あの時あの建物と一緒に、たくさんの人が崩れ落ちていったのだと
それを考えるのが、たまらなく怖かったです。
本当に不安なことの多い現代ですね。
そうなんです。
今日も父が来て、あの東海村は戦時中父が疎開していたところでした。
あの臨界事故のあったときも、場所を知っていたので驚いてました。
そういうことがあると「あそこでねぇ」と話題にもなりますが、
そうでないと、ほんとに「風化」してしまいますね。
覚えていなければいけないことだと思います。