ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

震災から半年、9.11から10年…

2011-09-11 20:02:16 | つれづれ

 

記事をアップしようとして、9.11という日であることを思い出しまして…。

すみませんが、今日はこちらのお話。

 

あの日から10年…なんですね。

私は今いるこの部屋で、早朝のNHKニュースをみており、まだ詳細がわからなくて「~のようです」と、

話をしている松平アナのうしろの画面で、二機目がビルに吸い込まれるように突っ込むのを見ていました。

そのあとの惨状は、世界中の人々の知るところです。

 

あの時、主人は海外にいました。アジア圏です。行ったりきたりしていたのですが、

あの事件以来、動けなくなりました。帰れない上、日本からの交代要員や出張予定の人も

一切動くなと会社からの命令でした。命のキケンということならば仕方ないことでしたが、

いつまでこんなことが続くのかと、不安になりました。

 

いつのまにか、あれから10年、私たちは遠い日本にいて、もうあまり関係ないことのように思えて、

「あぁたいへんだったよね、あのときは」です。

先日「ビンラディン殺害」というニュースが流れて、おぉそうだった…なんて感じです。

でも、アメリカ国内では、この10年で、いろんなことがあったわけで…。

またそれで終わったわけではありません。

 

渡辺謙のリポートを見ました。

ニューヨークにある「遺族の運営する記念館」、そこは、あの9.11でなくなった消防士の父親が

館長を勤めていました。展示されている息子さんの消防服の悲しかった事。

ハイジャックされた機のゆがんだ窓枠、あのタワーのレストランで使われていた曲がったフォーク…。

本物は、言葉より雄弁ですね。

その館長さんが「こういう館を作ったのは、憎しみや悲しみを越えて、忘れないため、伝えるため、

エジュケィション(教育)になると思うから」と言いました。

別に押し付ける教育と言うことでなく「何かを学べるよすが」と言うことですね。

 

震災も原発も、まだ何も終わっていません。その上、今度は紀伊半島の水害です。

そのときは大変だと言っても、近くにいないものは、日々そのことが思考を支配する時間は減っていきます。

でも忘れてはいけないのですよね。学ばなきゃいけません。

 

私はあの福島原発の事故がおきたとき(今はアレは人間による事件だと思っていますが)、

チェルノブイリのことやスリーマイルのことと同時に、東海村の臨界事故のことを思い出しました。

当時「あまりにもズサンな作業方法であったがために起こった事故だ」…という認識はありましたが、

被爆するとどうなるか…ということに対して、知識がありませんでしたから、

広島や長崎での原爆よりは、バクダンでない分、手足が吹き飛ぶとかそういうことはなかったのだろう、

そんな程度の知識でした。情けないことに…です。

それでも、放射能というものは、体の中に入ってしまったら、

もうどうすることもできないものなのだということだけは、当時「治療法がないなんて」と、

とても恐ろしく感じたことは覚えています。

 

最近になって、こんな本があるのを知りました。

 

朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 

 

あの1999年、東海村の臨界事故の被害者大内さんの、事故にあってから亡くなるまでのドキュメンタリーです。

初めて知ることがたくさんありました。

彼らが浴びたのは「中性子線・ガンマ線」という放射線です。放射能物質ではありません。

だから、そばにいても二次感染はなかったのですね。そんなことすら、当時はわからなかったのだそうです。

被害者が浴びた中性子線は、浴びた時は痛くも痒くもない、あのレントゲンと同じですね。

ところが、その瞬間、体中に突き刺さった放射線は、全ての染色体を破壊する…。

染色体は、要するに細胞の設計図です。それを一瞬にして全部壊されるとどういうことになるか。

人間の体の細胞は、毎日少しずつあたらしいものに変わっていきます。

皮膚の表面のものは「垢」になって落ちていくし、誤って生爪をはがすことがあってもまた再生されます。

その全ての「再生」がなくなったわけです。すぐには何も起こらない…でも、少しずつ日がたって、

表面の細胞が垢になって取れていくと…皮膚は二度と再生されないので、むき出しになるのです。

体液がどんどん流れ出てゆく…。その「再生されない」ことは内臓にも及ぶわけです。

なくなった後解剖した結果、内臓の粘膜は、何もなかったそうです。

それなのに、心臓の筋肉だけは、細胞が破壊されていなかったのだとか。

人の「生きる」という力の強さを思います。

残酷なことに、脳細胞はその「新陳代謝」がほとんどないために、最後まで変わらない…。

意識はずっとあると言うことです。途中からはもう薬で眠らせるほかなかったそうですが、

まだ意識があるとき「帰りたい」と訴え「俺はモルモットじゃない」といったそうです。

壮絶…などという言葉では言い表せないほどの過酷な83日間を生きた被害者。

その83日間の被害者と医師たちとの放射能との闘いの全てから、何か学べているのでしょうか。

 

実は、途中まで読んで、まだ全部読めないまま置いてありました。気が重くて進まないのです。

この医療に携った医師や看護師の中には、国内初めての臨界による被爆患者であったがために、

データを取り、治療の効果をみるために生かしているのでは…というキモチがぬぐえない人もいたわけです。

もちろん医療関係者は、どんな場合でも「命を救う、生かす」ことを最優先にします。

それでも心の矛盾は起こる…。それほどひどい状態だったのですね。

 

安全をないがしろにしたと、この事故の責任は裁判で争われました。それで終りですか。

今、福島でおきていることは、この臨界事故とは違います。でも、同じ状態にはならない…という保証はありません。

第一、いったい本当は何がどうなっているのか。「~の恐れはない」という報告ばかりですが、

それは本当に信頼できることなのか…。

テロリストたちでさえ、原発を攻撃することは、現段階では放射能の拡散を予測できないからやめたと言います。

人が作り出すものは、使い方によって人を滅ぼすものとなる…賢くなければ生き抜いていけないのは、

自然界に生きる動物たちよりも、実はもっと難しいことだと思うのです。

放射能を出すものを使う、と言うことのリスクをよーくよーく考えなければならないと、

今日は改めて思いました。


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もう一日… | トップ | 着方の次は…の2 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (陽花)
2011-09-11 21:14:46
9.11のあの画像は最初は現実のものとは
思えず、映画のワンシーンを撮っている
ような気がしました。
あれから10年も経ったんですね。
色んな事が次々起きて、この先どうなって
しまうのだろうと不安に思います。
返信する
Unknown ()
2011-09-12 20:20:49
9・11
ついこの間に起こった出来事に様に感じますが
10年経ったのですねぇ
9.11 も 3.11と共に
この先 風化しない様に 心に留めて生きていかなくては
返信する
Unknown (とんぼ)
2011-09-12 23:13:24
陽花様

私も何度見ても「映画」のように見えてなりませんでした。
あの時あの建物と一緒に、たくさんの人が崩れ落ちていったのだと
それを考えるのが、たまらなく怖かったです。
本当に不安なことの多い現代ですね。
返信する
Unknown (とんぼ)
2011-09-12 23:16:13
惠様

そうなんです。
今日も父が来て、あの東海村は戦時中父が疎開していたところでした。
あの臨界事故のあったときも、場所を知っていたので驚いてました。
そういうことがあると「あそこでねぇ」と話題にもなりますが、
そうでないと、ほんとに「風化」してしまいますね。
覚えていなければいけないことだと思います。
返信する

コメントを投稿

つれづれ」カテゴリの最新記事