ハギレで、80センチほど、しかも2箇所「裂け」があります。
しぼのある、いいちりめんですが、向こうが見えるほど薄いです。
古い割りに色褪せがありません。地は黒ですが、格子の枠にブルーグレーの
縁取りがあるせいか、立体的に見えます。海鼠壁っぽいですね。
柄は「千社札」、いろいろあるのですが2枚、接写してみました。
一枚目は格子に付けられた「街灯」。名前が「河庄」と書いてあります。
近松の「心中天網島」の舞台になった御茶屋の名前ですね。
このハギレの千社札は「吉原」に関連するものが絵になっています。
3枚目の「天水桶」は、右上に「大門口」とあります。
大門とは、吉原への唯一の出入り口のことです。
「天水桶」は「用水」の別の呼び方。
火事の多かった江戸では、町のあちこちにこの「用水」を設置していました。
以前「赤穂浪士」の衣装が「火事装束であった」というお話しのときに、
「火消し」のお話しをちょっと致しました。今日はもうちょっと詳しく・・。
家康が江戸入りして、江戸城も増築され、町も形を整えたわけですが、
1657年の「明暦の大火」で、当時の江戸の6割が焼けたといわれています。
このとき、江戸城も本丸・二の丸・三の丸、ついでに天守閣も焼け落ちました。
この火事をきっかけとして、江戸の町はいわゆる「都市計画」の見直しをして
防火を考えた町に作り直されました。4台将軍家綱の治世です。
このとき「火除け地」や、今に名を残す「広小路」が作られました。
武家屋敷・寺社などをいままでより郊外に移転させたことや、
両国橋などの大きな橋をかけたことなどで、町全体も少し大きくなりました。
「火消し」ですが、明暦の大火の前に、一度組織は作られました。
そのときは、石高によって選定された大名に一定の人数を出させ、組を作って、
火事の際は現場に近い組が、消火活動にあたりました。「大名火消し」です。
ところが「明暦の大火」が起こり、この制度は見直しとなったわけです。
大火のあと、旗本4名が選出され「屋敷・お金」が与えられ、
火消しを専門に行う役職となりました。これが「定火消し」、このあと
60年ほど経ってから、ようやく大岡忠相が「町火消」の組織を作りました。
これが今の「○組」と名前の残る組織の始まりです。
これは与力・同心が指揮を執る組織で、区分けされた町ごとの負担で、
いわゆるユニフォームや道具が揃えられ、運営されました。
最初に町を区分、組成したとき47であったため、最初はいろは47組、その後
1組増えて48になりましたが「へ・ら・ひ」は、字が嫌われ、替わりに
「百・千・万」、「ん」の代わりに「本」が使われ48組となりました。
最初は町ごとに町人のボランティア?で行われていたものが、
やがてお金を払って「鳶人足」を雇うようになり、かなりの高給取りだったらしく
当時の女性の「玉の輿」相手は「火消し・力士・与力」だったそうです。
当時の火消しは「消火」というより「延焼防止」の方が多く、
火除け地や広小路も、そこで火を食い止めるために作られたものです。
火消しは火事場では「打ちこわし」て、延焼を防ぐということが第一。
だから高いところも平気だったり、鳶口などの道具の扱いになれた
「鳶職」の人が雇われたのですね。彼らは火消しは「バイト」でした。
とまぁこんなところですが、「天水桶」、最近は「雨水の利用」ということで
見直されているようですね。ジサマのとこでも、雨どいから水を引いて
庭木に水をやるのに使ってます。夏の打ち水も効果があるといわれてきましたし
少しずつ「昔の暮らし」のいいところが見直されてきているようで、
うれしいですね。
背景の格子、ほんと、ナマコ壁のように見えますね。 御堂の格子扉とも、ちと違うような。。。
千社札をデザイン化したこの端切れ、見飽きないですね♪
染料もちがうのでしょうね。昭和も30年40年になってくると、ほとんどが「化学染料」です。発色はいいのですが、変色・変質もあるのが「化染」です。
このハギレ、額に入れてそのままかざってもいいなぁと思ってます。「裂け」の部分から先が20センチくらいあるので、そこだけは小物を作ってみようかなと・・。メガネケースなんてシャレてますね。
生地は昔のものは、やわらかいものがはやっていたというか、染めをのせやすいものをまず考えていましたので、生地はうすい、弱いですね。
薄い生地を裏から当て布して、補充したいとき、厚めの生地、丈夫な生地は、もとの生地を裂けさせることになりかねない、弱いものには弱いものをというのが鉄則だそうです。文化財を補修する人の話です。
仕入れた古着の補修跡は、昔の人の手わざのオンパレード。薄くなったところには使い込んだ羽二重が細い糸で当ててある、穴の部分は、同じ布でなくてもできるだけ同じ素材同じ色合いで細かく継ぎ当てる・・学ぶことが多いです。