本日の古本は、「少女倶楽部」昭和15年1月号付録の手芸本。
一度にお見せしたくて、開いて裏表紙も一緒に写してしまいました。
裏表紙の広告は、その名も「トンボ鉛筆」、私はまだ生まれてませんよぉ。
それにしても「めだて!」といわんばかりの図柄、まぁお正月号ですから・・。
書き方は右から左、言葉遣いは「~しませう」式、時代ですなぁ。
ちなみに、書いてある宣伝文は
「昭和15年の学習は、ただ試験に合格することだけでなく、
実力を伸ばすやう一生懸命勉強しませう。
トンボ鉛筆は常に座右の親友としてご愛用くださいませ」(原文のまま)
では中身をちょっと・・・。
これは裏表紙、さすがに「少女倶楽部」、「名作集」の紹介です。
ふりがながすごい「小公女・・せうこうぢょ」「巌窟王・・がんくつわう」
「ロビンソン漂流記・・へうりうき」「三銃士・・さんじうし」・・・。
「しょう」とか「りゅう」という表記になったのは戦後なんですね。
次はいよいよ中のベージ、いろいろなカンタン手芸が載っています。
お人形さん、というか「マスコット」となっています。
こんな感じのお人形が4個、いずれもはぎれてできる、小さなもの、
そしてその下が・・・
「腹巻」です。真ん中に「虎」の文字。
実は上のお人形にも、この腹巻にも説明に書いてあるのですが、
「皇軍慰問用」、お人形も、この腹巻も「慰問袋」に入れるものです。
慰問袋とはなんぞや・・・。お若い方はご存知ないでしょうね。
遠く海外の戦地で働く「兵隊さん」達に、内地(本土)からのプレゼントとして
運ばれ、配られるもの、誰に届くかはわかりません。
子供たちはみな手紙と一緒に、こういうお人形など作って送ったのでしょうか。
聞いた話では、最初の頃は手紙のほか、アメや缶詰お菓子など入っていたものが、
戦況が悪くなるにつれて、入れてくる袋も木綿からペラペラの人絹へとかわり、
食料品も干しいもなどにかわっていったということです。
で、「腹巻」は当然実用品ですが、「虎」の文字は、
「虎は千里を行って、千里を帰る」ということから、無事帰還を祈ってのこと。
また、もらったほうも、お守りのように思ったことでしょう。
4枚目は「裏表紙のウラ」です。
広告ページ、今でも健在な「オリムパス刺繍糸」。
文を読むと「時節柄高いものは買わないで、一寸した工夫で
貴女のお持ち物を美しく生かしませう」「国産の凱歌 オリムパスの刺繍糸は
品質も光沢も強さに於いても、従来の舶来品よりも数等優れて居り、
而もたいへん刺しよいので、どなたにも驚く程美しく綺麗に仕上がります」
手芸そのものが、戦時下においては居心地の悪い位置づけであったと思います。
のちの「更生、繰り回し」ほどではなく、「別になくてもいいもの」を作る
という感の強い状況では、自らまず「ぜいたくはやめよう」と提案し、
更に「敵国・外国」よりもよいものであると強調し、
慰問袋に入れるもの作りに活路を求める・・と言ってはおげさでしょうが、
実際、仕事はやりにくかったことでしょうね。
私が生まれたのは戦後数年経ってからですので、ものごころついたころには、
もう「戦争の傷跡」というものが、顕著に残っているなどというのはあまり
ありませんでした。それでも周囲の大人たちから、話しとしては耳にしました。
戦争をリアルタイムで経験した人ばかりですから、どこそこのおばあちゃんは
息子さんが三人ともサイパンで亡くなった、とか、
だれそれさんの今の旦那は戦地でなくなった夫の弟さんだ、とか・・。
そんなこと、珍しくなかったんですよね。通りふたつ先には、
右の肩から20センチくらいのところから、腕のない老人が居ました。
野戦病院で、とりあえずつぶれた右腕を切り落とし、皮をひっぱってむりやり
縫い合わせた、その傷口は、ほんとに巾着の口のように縫い縮めてありました。
母は京都の片田舎出身でしたから、戦争はリアルタイムで経験しているものの、
空襲を知りません。空襲警報が鳴ると「さて、今日はどの本を読もうか」と、
防空壕のなかで読む本を選んでいたそうです。戦後すぐに結婚し、
父のふるさとである横浜にきたとき、その焼け野原に呆然とし、はじめて
「戦争」が実感できたそうです。瓦礫の山の中に、ポツンと立った
一本の水道からポタリポタリとしずくが垂れていた・・・、
二人の兄は戦地へ送られたし(幸い二人とも無事でした)、父親は病気がち、
女ばかりでは野良仕事も思うに任せず、たいへんだったけれど、
少なくとも米麦にこまることはなく、命が危うい目にもあわなかった・・。
自分は本当に幸運だったのだ、と改めて思ったそうです。
50過ぎた私でさえ、戦争ということは実感としてその恐ろしさは知りません。
それでも、そういう時期があったことはまぎれもない事実で、
まちがいなくその延長線上に、私たちは生きているわけです。
古着を集めていると、たまに「昔の農家の蔵からでたものです」
なんていうのに出会います。当主が代替わりして蔵のオソージするんでしょうね。
そういう中で着物もけっこう出るんですが、いかにも農家の奥さんや
お嫁さんのもの、というジミ目の着物や木綿モノ、絣の野良着の作り置き、
なんていうのに混じって、どう見ても「芸者さん」か「踊りのお師匠さん」か
なんてものが出てきたり、やけに華やかでそれだけきわだって異質に感じる着物、
或いは、そういうものを作り直したと思われる襦袢や着物、
なんてのがでることがあります。そういうものは、戦中戦後に都会の女性が、
お米や野菜と交換するためにもってきたものが多いのです。
「私の嫁入りのときの着物は、全部『食べちゃった』のよ」、なんていう人
たくさんいました。それを着て、ご主人とお見合いしたのかもしれない、子供の
七五三に着たのかもしれない、そういう着物が、お米や野菜に変わったんですね。
働きたくても仕事がない、買いたくても食糧がない、
今日明日食べるお米を手に入れるには、着物を手放すよりなかったんです。
私は、古い着物を手にするたびに、どういう人のどんな暮らしを見てきたのか、
と、とてもいとおしく思うのです。私が手に入れるものの多くは、
すでに着物としては着られないようなものばかりですが、
着物としてもう生きられないなら、せめて何かに形を変えて、
布である間はその命をまっとうさせてあげたいと思うのです。
人があの戦火を越えたように、その着物も戦火を越えてきたのですから。
今、モノがあふれ、働けばお金は入る、そのお金があればほしいものは買える・・
そういう時代です。シアワセなんですよ。ほんとうに。
だからこそ、モノを大切にしたいと思うのです。きもののことを思い出し、
着たいともえば好きに着られる・・
だからこそ、細くなってしまった「着物暮らし」の糸だけど、
大切につなげていきたいと思うのです。
本日「少女倶楽部」から、ちょっとおとめちっくになった?とんぼでした。
私もとんぼ様と同年代で物々交換という
話をよく耳にしました。
親がどんな思いで持たせた着物でも
背に腹は変えられない時代だったのですね。
そのことを思うと今は食料と交換なんてこと
はなく着ないからとか不要だからということで
手放す時代だから本当に平和だと思います。
色は身頃が紺色で胸から上は白と赤の縞になっていました。
小学生のころに(10歳ぐらいでしょうか)
ほとんどこれ一枚を毎日着て学校に通っていました。
懐かしいです。当時は毎日着ているものを変えていくなんて事はありませんでした。
だれかが(母かも知れない)この本を見ながら私にセーターを編んでくれたのでしょうか。
友人が、お姑さんの着物だから見たくもない、
といって廃品回収にお金はらって
もってってもらった、というのを
聞いたことがあります。仲が悪かったので
人の思いもわかりますが、せめて古着屋さんに
ひきとってもらいたかったですねぇ。
なぎさ様
お忙しいことでしょう!
お越しいただいてありがとうございます。
昔は、そんなに数多く持っていませんでしたよね。
靴下なんてつくろって履いてたし・・。
紺に、上が白と赤・・それのほうが
ずっとスマートですね!
とんぼ様の乙女ちっく、懐古趣味っぽいのいいですね~♪ 「今の若いモンは~~」調が入っていないので、イケズにはなってないし~
私の母まったくの専業主婦、家族のためにこまごま工夫の色々、専門教育をそんなに受けないでの工夫の色々は本を見てでした。
そんな本とっておけばよかったものを、引越しをしたのもありますがみんな捨ててしまった。実用書って残っているのって貴重なんでしょうね。時代がすけて見えて面白いですね。
小説よりも実情がすけてみえて面白いと思っています。
これからもどんなものが飛び出すか楽しみに読ませていただきます。
ほんとは言いたい「イマドキの~」、
ってときもありますねぇ。
「懐古」けっこうしてますしー。
蜆子様
このテの本は、本当に残っていません。
実は先日母からもらった「和裁本」があるのですが、
52年度版、しっかりした表紙のもので
「雑誌」ではありませんで、元は1600円、
それが9800円で売られています。
私、同じ本の、もっと前の版もあるのです。
こうなると「お宝?」
ヒロをぢ様
この本には「空き箱利用の愛国貯金箱」なるものも
あります。まだまだ元気があったころの日本ですね。
わずか数年後の悲惨な結果を思うと、
なにやら切なくなります。
平和な時代に生まれてほんとによかったです。
それと、本に載っているお人形、かわいいですね~ ねねさまが書いていらっしゃるように、「文化人形」と呼ぶのですか?作り方が書いてあったら見たいです。機会があったら載せてください/hiyo_please/}
私がまだ幼稚園前の頃に渋谷に行くと、いつも東急の歩道橋の下に片手や片足のない「傷痍軍人」の人が音楽を鳴らしながら座り込んで募金?を募ってました。怖くて母の手を引っ張って遠ざかるように歩いたものです。人々は明るかったけど、暗い隅には時々戦争の傷が垣間見れる時代でした。