まずは写真、絽のハギレです。ちょっとしかなくて残念です。
こんな着物着てみたかったなぁ・・・。
昔、こんな風景、実際に見てましたね。電線にツバメが並ぶ・・。
最近は、鳥といえば、カラス、ムクドリ、オナガ、カワウ、ハト、
それがみんな「公害」の主役として、テレビに出てます。ありゃりゃ・・。
トリあえず、今日は鳥のお話はこっちへ置いといて・・です。
先日いつもブログをお読みいただいているかたから、メールを頂戴致しました。
「絽の道中着」を着る季節についてのご質問でした。
「正解」ではなく、私の考えたこと、をお話させていただいたのですが、
14日の記事についていただいたコメントにも、そういう「決まり事」について
お話がありました。このところ、着物の着方などについて綴ってきましたので、
今日はその「きまりごと」について書いてみようと思います。
いつにもまして、長くなると思いますが・・。
まず、コメントにありました「留袖はなぜ身内の結婚式にしか着られないのか」
ということ。これについては、「留袖」ってなんだろな・・から。
まずは、江戸初期のころ、その頃はまだその前の時代の文化を
色濃く残しておりました。振袖を着るのは子供だけ、女の子は年頃になると、
その袖の「振り」を切って短くしました。「切る」では縁起が悪いので「留める」
としたわけです。当時の着物は、元禄袖で身幅は広く裄は短い。
帯もまだ広くはありませんでした。つまり、袖を切ると振りを縫いふさいで
袖付けがそのまま袖丈になったわけです。つまり、昔は子供を卒業すると
みな「留袖」になるのでした。これが時代とともに帯の幅がだんだん広くなり、
身幅は狭まり、裄も長くなる・・それで身八ツ口を大きく開けることで
「袖が長くても着られる」ため、振袖が子供ではなく「若い娘」のものになり、
今度は嫁に行くと袖を留める、になっていったわけです。
留めた袖の残り布で、最初の子供の産着を縫うという習慣もありました。
つまり、花嫁の振袖が留められて、残り布が赤ちゃんの一つ身になったわけです。
「留袖」とは、最初から黒のすそ模様で振袖ではないもの、という形で
現れたものではないわけで、まずは「童女から娘へ」次に「娘から妻へ」
変わるために、着ていた着物の袖を留めたもの・・という意味だったわけです。
花嫁振袖は昔は3枚襲が普通で、黒・赤・白の三枚、その一番上の黒の振袖の
袖を留めたものを、今度は嫁さんが身内の結婚式に着て出席する・・
みんな順番にそうなっていったわけですね。その黒い裾模様の着物が、
結婚式の正式な服装として定着したのは、江戸後期くらいです。
これで留袖がどうやって今の位置づけになったかは大体お分かりかと思います。
さて、それではなぜ、身内の結婚式にしか着られないのか。
最初に申し上げておきますが、別に結婚式しか着られないわけではありません。
今でも「舞」「謡曲」などの発表会などで、女性は留袖を着るかたがいます。
五つ紋のついた「第一正装」だからです。要するに紋付だからですね。
この「紋」というのは、つく数によって格が違ってくるわけです。
ところが、たとえば宮中での叙勲の儀式・・なんていうとき、女性は紋付でも
まず「訪問着」ですね。これは実は皇室では「黒留」は着ないというのが
しきたりなのです。元々留袖は武家や庶民からでたものですから、
そういうところで着ないのかもしれません。
そんなわけで、留袖は身内の結婚式しか着ない・・という図式に
なってしまったわけですが、ここから先は、私の個人的な考えです。
そもそも昔、黒留袖が結婚式に着られるようになった・・といっても、
それは一部の裕福な家だけだったわけで、一般庶民はせいぜい「晴れ着」程度、
そのときばかりは、ためていたお金で、めったに買わない「新品の反物」を買い、
母親とか本人とかが、晴れ着として縫ったものを着る・・くらいだったと
思います。一方、黒留を着るような身分の人は(武家、裕福な商人、
地方の豪農など、いろいろいますね)たとえば子供がうまれた、お宮参り、
初節句、元服、見合い、婚姻、長寿の祝い、等々全てを自宅でやっていました。
そういう「身内での祝い事のときに着た」のが留袖ではないかと思うのです。
だから今でも、発表会などで着る・・。つまり、自分たちが何かの主催者側で、
お迎えするお客様への礼儀として留袖をきたのではないかと。
だんだん世の中がかわり、結婚式は社寺か式場、披露宴は式場やホテル、
お宮参りだの初節句だのは、せいぜい当家の家族だけで祝う・・とかわってきた、
一方では庶民も留袖を買ったり借りたりできるようになった。
でも、そういう流れになっていったため、いつしか「留袖は身内の結婚式だけ」
になってしまった、ということではないのかなぁと・・。
つまり「留袖は身内の結婚式にしか着られない」のではなく、
「着る機会が結婚式しかなくなってしまった着物」ではないかとそう思うのです。
どうでしょうか。
今、どの和装本を見ても「女性の第一正装は留袖・訪問着」とあるだけで、
なんでそうなったか・・なんてことの説明はありません。
昔は封建的ですし、着物のしきたりはこう、と親に言われれば「そうなんだ」と
それですんでしまっていた・・それが、途中着物離れが進んで、
よけいに「ルールとしての説明」だけが残り、
今、着物を着たいと思い始めた若い人が「なんで?」と思っても
「それが着物の決まり」で進めてしまう。ルールはまちがってはいないけれど、
これではかわっていきようがない・・と思います。
もともと着物に限らず、文化というものはかわっていくものです。
たとえば「お通夜には喪服は着ない」というのが常識だったのに、
最近はお通夜から「まっくろけ集団」は当たり前になりました。
地味な江戸小紋に黒い帯で行ったら、逆にとがめられそうです。
これは、喪服のかわりにブラックフォーマルという洋服が主流になったため、
かなりのスピードで変化・浸透したのではないかと思います。
留袖は、かわりに黒い服にコサージュでは貧弱であり、やはり身内のため、
着物で参列、という気持ちで今に至る・・そんなところではないでしょうか。
文化を変えていくのは、いつの時代も「その時代に生きる人たち」です。
そして、ある日突然かわるわけではなく、誰かが始め、賛否があり、
やがて認められたものが広まり、それが主流にかわっていく・・ということです。
「髪」で考えて見ましょう。江戸時代「髪」はたいへん重要なもので、
たとえば男は「まげ」を切られることは、死ぬほどの恥でしたし、
女性は未亡人になったとき、髪を結えない長さまで切れば
「出家」したことになりました。「有髪の尼」といいますが、
丸坊主にしなくても、髪を結えないなら髪がないのと同じ・・です。
ところが、明治維新後、お上は「武士」をなくすため、
男子に「ちょんまげ」を切ることを命じました。女は何も言われませんでしたが、
かわりに「洋髪」の魅力に引かれ、自分たちから髪型をかえ、短くし始めました。
そういうことは、ある日突然全員が「せーの」でそうしたわけではありません。
年月をかけ、少しずつ広がっていったわけです。男の中には「マゲを落とすなど
末代までの恥辱」と悔しがった人もいたでしょうし「こりゃラクでいいや」と
喜んだ人もいたでしょう。女も「あらこの髪型ステキ」と、
積極的に取り入れるものもいれば「女子が命ともいうべき髪を切るなんて」と
嘆いた人もいたでしょう。それが、だんだん容認派の数が増え、
いつしか「短髪・パーマ」当たり前・・になったわけです。
文化がかわることなんて、たいがいそんなもんでしょう。
それを踏まえて・・留袖も、いつかは「別にそれでなくとも・・」に
なっていくのかもしれません。ただ、着物については、一度あまりにも急激に
「着物離れ」した時期があったため、変化のしようがなく過ぎてきました。
着物が忘れられた時期は、変化もフリーズ状態だったと思います。
それでもたとえば留袖は、以前は二枚襲で着ていたものが
「比翼」仕立てが当たり前になったり紬の訪問着がでてきたり、
少しずつ変化も現れてきています。今の時代はすごいスピードで、
暮らし方や社会情勢、価値観などが大きくかわっています。
今、決まり事として言われていることの数々について、
現状に合わない部分をひとつひとつを「なんで?」というところから
考えなければならないのだと思います。
これからのモンダイは、何を残し、何をかえていくか、でしょう。
着物の長い歴史のなかで、形や着方はずいぶんかわったけれど、
美しさを追求する思いは変わらず、さまざまな模様が考え出され、
染め方織り方が工夫され、それは現在も美しいもの、すばらしい技術として
伝わってきています。また、たとえば振袖には、ゲタつっかけて・・とやったら
着物もゲタもかわいそうでしょう。チマ・チョゴリの下がミニスカートには
ならないだろうし、タータンチェックが水玉プリントにはならないでしょう。
そういう意味で「残すもの伝えるもの」を見極め、あとは時代や状況に合わせて
かえていく・・というのが、これからも続けていくことだと思いたいのです。
留袖のお話だけで、今日は終わりにしておきます。
このテーマは明日また続けて書きますので・・。
明日は、私たちから今すぐにでもかえていかれそうなこと・・の予定です。
話が少しずれてしまって申し訳ないのですが、先日のコメントにもありましたように、いくら決まり事だからといって、この地球温暖化が進んだ現代において『5月まで袷』はないだろう!!、と、私は5月になると、待ってましたとばかりに単衣を着てしまいます。
街を歩いている人が半袖を着ているのに、しきたりだからと言って汗をかきかき冬物を着るのは正直ツライです。
着物は『着る物』ですから、ワードロープのひとつですよね。
でもさずがに、いくら暑くても10月になると袷にしてしまいます。
まだ暑い日は、ウソツキを着たりして調節しています。
そのへんは洋服と変わらず、秋物の先取りオシャレ、って感じですかね?(←ナマイキ ^^;)
それでいいと思いますよ。かえていいことはいくらもあります。明日も書きますからね!
その他のところも、おっしゃる通りで面白く読まさせて頂きましたが「変化もフリーズ状態」のくだりは、HPお勉強の成果ね?と笑えました。
明日も楽しみだな~!
留袖、色留は、レセプションに着ると便利。 特に、主催者側の場合、留袖は、大活躍。 招待された場合は、色留が活躍。
また、色留袖は、宮中晩餐会とか、叙勲の際に。 園遊会などでは、紋付の訪問着でもよいが、既婚ならば、色留でも。 宮中では、女性は、黒の着物は着ないそうなので、留袖は、遠慮するとのこと。
ただ、明治の初期は、過渡期だったらしく、京都御所から東京へ移られる天皇陛下をお見送りする際、羽二重の留袖を二枚襲で着て、何とか門から何とか大路まで並んだとかの話を母方の曾祖母から、聞いたそうです。
上記のような機会は、縁がありませんが、まあ、ご参考まで。。。
(2度ほど、海外のそれなりのパーティーで、色留を着た事があります。 着物だと、ジュエリーを付けなくてもよいのが便利でした。)
先日師匠の御宅でご不幸があり、お通夜に参りましたが、さすがに皆様色喪かごく濃い色の江戸小紋・紫の色無地などでした。私も色喪でしたが、もしからすだったら…と内心心配でした。通夜のように急ぐ折に、知人達に確認せねばならないのはなかなか大変なことなのです。
どなたでしたか、かなり有名な方であったと思いますが、外国の賓客もおみえであったパーティで黒留袖をお召しになっておられて、ちょっと希望をもったのですが、残念ながら近々変えられることではないのでしょう。黒留袖は次世代に渡すことにして、娘をもたねばなりませぬね(今から~?)。
妹弟の結婚式、初めての出産帰り、子供も親も目一杯の式、三度の仲人、うち一回は見合いまでセットしたところから始まり、結納にも着ましたし、もちろん結婚式にも、あと二回は式だけの仲人、子供が小さい時に、お寺の大法事の稚児行列に参列、二人の子供でしたので都合二回、近所の神社で神馬を設置、そのときの馬の除幕式に息子が選ばれ、介添えとして私も留袖を、主人の姉の娘二人の結婚式、ほか親戚の結婚式に なにより娘の結納、結婚式に~
結構着てますね。
といっても、黒留、色留をあわせてです。
しかも、若いときの留袖太って見幅がアウト、全然別に作ったんです。
今後一番着たいのは、息子の結婚式。息子よどうにかしてくれ~
祝い事、結構昔ばっかり、最近はあんまりない、というより相手もあることなのですが、こっちは着ましょう、簡単なんてまっぴら御免と思っているのに、簡単に~などといわれ悲しくなってしまう。相手にあわせていた日にゃ、着物の出番がなくなってしまいます。
我が家流で押し通すことにしました。
父が生前黄綬褒章をいただき、宮中に、ドレスコードを書いた注意書がきました。母は色留袖でした。父はモーニング
その披露のパーテー、母は色留袖、五つ紋、娘、嫁は一つ紋をつけた訪問着、どさくさにまぎれてえらいめでたい柄の訪問着作ったのですが、その後着ることがない、孫たる我が娘、振袖、あんな華やかなことはなかなかない、滅多に着れないものだから、余計目出度さが引き立つのかもしれないと思います。
私、黒の訪問着を持っております。留袖でほど華やかな柄行ではありませんが、五つ紋でないだけで、けっこう出番はあるものです。着る機会のない留袖は紋を消して比翼もとって、袖に柄を足して・・とするわけにはいかないもんでしょうかねぇ。人が「あら留袖なんか着て・・いや違うか、えっ?えっ?」という顔が見られる??
蜆子様
蜆子様のところは、お家柄もよろしいのですね。わが実家なんぞ、どこまでさかのぼっても「授章」などとはとんと縁がありません。最近は結婚式でも、留袖を着るひとが減っているそうです。ゴンドラに乗ってだの、ビデオで生い立ち紹介だのなどと、こっちが恥ずかしくなるようなお式よりは、シンプルでいいのかもしれません。留袖そのものが、すたれていくものの一番なのかもしれません。
おほめいただいて、うれしいです!HPのお勉強は、艱難辛苦、難行苦行、四苦八苦に五里霧中・・。がんばっとりますっ。
ぶりねぇ様
あと二人、結婚してくれないと留袖着られない・・。とめそでちょん切ってスカートにしちゃうぞ!なぁんて言ってみても「別にしたくないわけじゃないんだけどぉ」なんぞといいおる。選り好みしてんじゃないっ、鏡みなさいっ!?
うん 本当にためになるわ。