「鳥獣戯画」です。これはあまり古いものではありませんが、
ハギレで入手しました。いい状態なので、裏に紬用の八掛を合わせて、
マフラーがいいかな・・と思っています。なんせ1m20cm少々しかなくて。
さて、鳥獣戯画にはいろいろな場面があります。
儀式の終わった猿が、やれやれと衣を脱いでいたり、盗人をウサギが追っかけたり
供物を一身に運んだり・・実にいきいきとして楽しい柄です。
中でもよく取り上げられるのが写真の「相撲の場面」、
何も説明しなくても見ればすぐわかるからでしょうか、よく見かけます。
実際には、ウサギと同じ大きさの蛙ってのはアマゾンあたりへ行かないと・・
いやウシガエルなんてのは、けっこう大きいでしょうかね。
カエルは苦手なもののひとつなので、実際にいてもお目にかかる機会は
ありませんようにと願います。
相撲、ホンモノの方は今日で七日目でしたか?
我が家はなぜか「プロ野球」というものを見ない家でして、
親子で見ていたのは「相撲」、私の頃は大鵬・柏戸・・の時代、
大好きで見ていたわけではないので、やがては見なくなりましたが、
結婚してからふと見たのが「千代の富士」、まだ十両でしたが、
この人ゼッタイ強くなる・・と思ってました。カンはあたったわけで・・。
その後しばらくなんとなく見ていたんですが、離れて久しい・・。
今や名前とカオが一致せず、CMに出てるからわかる・・という状態です。
今の関取衆はわからないのに、図々しく「相撲」のお話しです。
「相撲」は神話の時代から語り伝えられている「スポーツ」です。
古事記には「タケミカズチノカミ」と「タケミナカタノカミ」の国取合戦、
天覧相撲として「ノミノスクネ」「タイマノケハヤ」の闘いなどがありますし、
ノミノスクネは、その故事から相撲の神様として祭られています。
このあたりは史実というより「神話・伝説」の世界ですね。
史実としては、600年半ば頃の「百済の使者」をもてなすための、いわば
「余興」として宮廷の中に勤める者たちの相撲を見せた、という記録があります。
これがどうも、記録としての最初のようです。
「相撲」というのは、場所さえあればあとは体一つでできることですから、
もともと農民の間では「その年の作柄を占う」などの神事として
相撲は行われていました。宮中は最初「七夕」の儀式の余興として「相撲」が
行われていたものが、この神事とあいまってやがて「相撲節(すもうせち)」へと
発展していきました。平安朝の「節会相撲」になると、これはもう神事というより
カーニバル並みの大掛かりなイベントになりまして、先ずは「強い人」を
探す、差し出させる・・これで争奪戦が起きたり・・。当日は会場、というより
「式場」ですが、その式場に行列を正して入場するわけですが、
これが相撲をとるものは40人くらいですが、その前後に武士兵士がつくわ、
贅を尽くした山車が続くわ、曲芸師軽業師がつくわ、幡をひらめかせるわ
音楽つきだわ・・やっぱカーニバルです。
それから相撲が始まるわけですが、当時は土俵も行司もナシ。
ただ、介添役は左近衛・右近衛から二人ずつでて進行させました。
勝負のつけ方(決まり手)としては、今に近いようです。
相撲が宮廷で行われる以前はどちらかというと相撲というより「格闘技」の世界、
殴るけるもアリだったようですが、天覧・・ということだからでしょうか、
手やヒザをつくと負け、とか柔道のように組み伏せたり投げ倒したりで勝ち、
と決まっていたようです。これが今でも基本になっているようですし、
二手に分かれて何人もで競い合わせるというのは、今の「東西」に分かれて
勝負をする元だし、行司がいなかったので勝負の判定は介添の
「左近衛」「右近衛」の将が決定しましたが、意見が合わないと「物言い」を
付けられたのだそうです。その際の最終決定は「天皇」が行いました。
この決定は「天判」として下され、これ以後は異議申し立てはできませんでした。
とまぁ、こんな具合に相撲は「宮中の行事」として盛んに行われたわけですが、
やがて武士の台頭、打ち続く戦乱・・などで、相撲節会は廃絶されましたが、
300年以上も行われてきたことで「相撲」は洗練されてきたのでしょう。
この後相撲はどうなったか・・と書き始めると、またまた長くなます。
思いっきりはしょりますと、まず武士の時代に入ってからはその職業柄?
相撲は「心身を鍛える」ということに使われ始めました。柔道も、このあたりから
枝分かれして「柔術」として確立されていくわけです。
元々は「神事」からはじまったことが、やがては「心身鍛錬」になり、
また娯楽的要素が強くなってきます。そうこうするうち世は戦国・・。
戦乱の世の中では、相撲が強いということは出世のきっかけにもなったわけで、
故郷に錦を飾るものもいたでしょうね。
世の中が平穏になり、やがて「プロの力士」がお金をとって相撲を見せる、
という現代の形になっていったわけです。
思いっきりはしょったので、ちょっとだけ付録・・。
かつて帝の御前で相撲をとったとき、互いに上半身ははだか、下は裾を絞った
短いはかま、アタマには今で言うところの「西東」の別をつけるための花を挿し
互いに向かい合って挨拶をしてから勝負に入りました。
今、相撲で呼び出しに呼ばれ、土俵にあがった力士が、蹲踞(そんきょ・・股を
開いた状態で腰を落としてしゃがむスタイル)して、まず手を打ち、手のひらを
上に向けて開き、そのまま両腕を大きく開き真横までくると手の平を下に向けて
これをおろす・・という挨拶をします。これは、平安の天覧相撲からの名残、
「ご覧下さい、私は何も武器を持っておりません。身一つで正々堂々闘います」
という証しであり誓いです。
番付のど真ん中に「蒙御免」とあるのは、元々勧進相撲だったものが
「営利目的」の営業になってからも、開催が寺社内であったため、
「営業許可証」をもらわなければならなかったわけで、この「許可証」が
当時「高札(板に「こういう許可もらったんでやりますよと」いうお知らせ兼
許可証の提示のために墨書きした立札)」の中に書かれた「蒙御免」の文字。
それがそのまま、今でも番付に残っているわけです。
また、今の相撲協会のようなものが出来たのは、江戸時代後期です。
相撲に関しては「おまけ話」の方がおもしろいことがいろいろあるんですが、
またの機会に致しましょう。なんせホラもうすぐ12時、時間いっぱいです!
栃の海?鏡里?時代です。
名前がはっきり思い出せないのは、余りに遠い昔だからです・・・。
草稿中のつもりか途中でアップしてしまっていたようで・・。かなり書き直しましたぁ。すみません。
若乃花(初代)覚えてますよぉ。「栃・若」で栃錦若乃花、「柏・鵬」で柏戸大鵬・・このあたりですよね。あと「初代の朝潮」・・。
栃若までは記憶にあったのですが、栃錦が出てきませんでした。
どちらも好きだったので、両者が対戦する時は襖の陰から見ていた記憶が有ります。
お腹のまあるいお相撲さんはやっぱり鏡里?
巨人・大鵬・卵焼きという言葉もありましたね。
朝潮って背の高い毛深い人だったかしら?
今は外人勢が頑張っていますね。
ウサギとカエルの相撲・・・。
誰に似ているのかな?
朝潮、その通りの「濃い人」です。
私はその頃はなんかよくわからなくて「若乃花」
だったかな、千代の富士でまた見始めた頃は
「若島津」とかがよかったですね。
両親に「マス席」を取ってプレゼントしたことが
あるんですが、かえってきての感想は
「迫力あるし臨場感ってのはいいけど、
やっぱりテレビで見てるほうがよくわかる」でした。
この図柄が好きなかたがいらして、祝い事のお返しにこの図柄の盃、抹茶椀、鉢をいただきました。知り合いの焼き物のかたに特注したとか、そしてその祝い事になんと鳥獣戯画の訪問着を着られました。
焼き物は京焼き、磁器に藍で柄が染め付け
これが季節も選ばず、楽しい話題をひきだすのにぴったり、いただいたときえ~と思ったけどいいものでした。
襟元をかざる鳥獣戯画もきっとすてきでしょうね。
実にイキイキと描かれていますね。昔学校の授業で見た時は「つまんない絵」とおもったのに、今になって、なんとおもしろいものだろうと、再認識しています。ハギレは小紋なので、あっちひっくり返したりこっちひっくり返したりして「こんなことしてる!」と探して楽しんでいます。