ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

一休みに羽裏を…

2009-12-26 17:18:50 | 着物・古布
年末カウントダウン…なんてつもりはないのですが、
なんだかお尻をたたかれている気分ですね。
皆様もワサワサ・ゴソゴソと動いておられましたか?

さて、こんの暮の忙しいのに…ネットショップのチェックだけは忘れなーい。
で、見つけましたので即ポチッとな…、これまたなんでこんなに安いんだか。
そこのショップなんですが、毎日のように新しいものをアップします。
ちょっと遅れると、いいものはあっというまににSOLD OUTなってしまうんです。
そこで「朝一勝負?!」、時には夜中も、まさに「夜討ち朝駆け」…、
いえ別にそんなにすさまじいもんじゃないんですが…。

というわけで入手したんですが、古着ってオークションだと、
目的別に求めますから「羽裏がよくても状態が悪くて着られない」のはダメ、
という人もいれば「表地はいらない」という人もいれば…なんですね。
それで「見つけた人が」競るわけですが、ショップの場合は、
やはり「古着としての状態」が最優先、また「売れるか売れないか」
ということが評価されるわけです。
この羽織は状態はいいのですが「黒紋付」なんです。
いまどきねぇ…ダレも着ないわけですわ。
それで羽裏の柄がよくても、価格が安いのだと思うのですが…ありがたいっ!

もし、和裁というものがもっと続けられていたら、
いいとこ取りで…と、いろいろ考えると思うのですけれどねぇ。
いえ、縫えるかどうかではなく「着物というものは作り変えて最後まで
使うものだ」ということが、理解できていたら…ということです。
先日の「ゴムが伸びても入れ替えできない割烹着」もそうですが、
どこか一部がダメになったものは、全部がダメの評価になる…、
和裁はそれをしてこなかった文化です。
ダメになったところを除いて「これで何ができるか」、です。

黒紋付は用がなくても、黒い絹の布…と考えれば使い道はいろいろあります。
すべりがいいですから裏地に使うのもいいですし、帯裏にもつかえるし。
全部真っ黒はちょっと抵抗がありますから、何か布を足せば、
いろいろ小物なども使えますよね。

さて、やっと説明ですが…これは「説明」もいらないですね、
見たまんまの「討ち入り風景」です。
ちょっと部分アップです。
「絶対に首を取らねば!」という強い思いをたぎらせての突撃風景です。


   


全体の絵を見ると…お屋敷の門が開いています。
映画などでは、この門の脇にはしごをかけ、何人かが中に入って、
内側から門をあける…なんて場面がありますね。
今まさに、討ち入ったところ。後ろの方で大石さんが「陣太鼓」をたたいていますが、
実際には太鼓も持っていなかった、というのが正解のようです。
実は先日「私にとってのトリビア」がありまして、
へぇへぇへぇぇぇぇぇと、五つくらいついたのですが…。
この討ち入りの上着のあの「山型もよう」、
先日の記事で、色が違えば新撰組とおんなじですねぇ…と書きました。
新撰組の衣装は、実際にあのようにデザインされたものですが、
討ち入り装束の方は、とにかく夜目に目立たぬ黒いもの、というだけで、
おそろいの衣装ではなかった…ワケです。
で、この半纏のような上着は、後年の芝居によるもの…と書きました。
お芝居や映画では半纏の衿に一人ずつ名前が書いてあります。
あれは、お芝居での演出なわけですが…。

先日時節柄「泉岳寺」の探訪番組がありまして、そこの近くの売店のおじさま、
たいへんな「赤穂浪士ツウ」でいらっしゃる。
その方のお話しによれば、赤穂浪士は揃いのユニフォームではなかったけれど、
袖口に白い布をつけることが決められていたのだそうです。
おそらくは暗い中で戦うのに、敵味方をわかりやすくするため、
ということであったかと思います。もうひとつは袖口をまとめるため。
いくらたすきをかけていても、切れたり解けたりもありますから。
私はおそらく筒袖か船底型の袖のものを着用したのだろうと思っていましたが、
少しでも腕の動きをよくするために、普通の着物の袖を縫いつけて着たかもしれません。
いずれにしても、その「赤穂浪士博士」のおじさまのお話によれば、
それが男の針仕事であったために、白い布をきちんとまっすぐ縫い付けることは難しく、
あちこちでこぼこになったのだと…。
その「まっすぐでない白い布」が、あの山型の元だというのです。
なるほどねぇ…です。昔の東映時代劇、オールスターキャスト、なんていう
「忠臣蔵」では、みごとに黒地に白の山型もようでしたが、
最近のものは、この羽裏のように、袖口に白い幅布をつけただけ、
というものが多いです。よりリアルに…ということなのでしょうね。

絵の周りには「カルタ」のようなものが描かれています。


         

   
これは、当日彼らが名札のように木札に「いろは」の文字を書いて、
身につけたと言われているもの、なのですが、さてほんとだったのかどうか…。
あまりにもお芝居などで脚色されましたからねぇ。
いずれにしても、こういうものは「絵」になるわけで…。

さて、今日は12月26日、300年余の昔の今日、
赤穂浪士はすでに4つの大名家に分かれてお預けとなり、
それぞれのお屋敷で「お上よりの沙汰を待つ」身でした。
切腹の命がはっきりと伝えられたのは、翌年の2月のことですから、
ずいぶん長いこと、宙ぶらりんのまま置かれたわけですね。
それでも彼らは、助かるとはおもっていなかったことでしょう。
確実に最後となる大晦日と元日を、どんな思いですごしたのでしょうね。
赤穂浪士最年少の大石主税良金は享年16歳、当時数えですから
実際には15歳、中学三年生ですよね。それで討ち入りに参加し、
最後は父親とは別の松平家にお預けとなり、みなと同じように切腹したわけです。
辞世は

「あう時はかたりつくすと思えども 別れとなれば残る言の葉」

なんだか切なくなりますね。

赤穂浪士の遺族もすべて罰せられましたが、
先日の「丸橋忠弥」のところで、江戸時代初期は武力による締め付けばかりだったが、
「文治政治」といわれる、法律の見直しのようなことが行われるようになった…
と書きました。これはそうなってから起きた事件です。
そのため、少し前なら遺族も並べて処刑…になるところでしたが、
この時代は「遺児」の中の男子にのみ、罰が与えられました。
それも命をとるようなことはなく遠島などの処分、しかも小さい子供の場合は
15歳になるまでは待つ…という状況。また僧籍に入ったものは免除。
まぁゆるゆるであったわけです。
ただ、男子を取られてしまうわけですから、その家は家名をつなぐことができません。
家というものが一番大事であった時代、夫や長男をなくすわけですし、
身分制度のはっきりしていた時代、残された家族はやはり大変だったと思います。
これは裏話のようにして語り伝えられていることではありますが、
浪士として討ち入りに参加したものよりも、しなかったものへの風当たりが強かったとか…。
300年も語り伝えられるお話しではありますが、
実際のドラマは、ずっと続いたのでしょうね。
あっ大石さんちは、次男は出家、三男が養子に出され、しかも「恩赦」があって
遠島の罪も免除で、りっぱに大石家を再興して継いだそうです。
主税は年の離れたお兄さんでしたし、まだ小さかった彼には
兄の思いはわからなかったかもしれませんが、
主税が話したかったのは、母親と兄弟たちだったのでしょうね。

さぁ、しばし見とれて、また一休みが長くなっちゃいましたが、
またゴソゴソと動くことにします。
みなさーん、がんばってくださいね~あと5日ですよぉ~。









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4 コメント

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討ち入り柄 (かたばみ)
2009-12-26 17:46:35
いいなぁ、この羽裏・・・
私はあまり羽裏に強い思い入れがあるタイプではありませんが、これなら欲しい。
返信する
Unknown (陽花)
2009-12-26 21:21:45
いい柄が手に入ってよかったですね。
昔の15~16歳って今よりず~っと
大人だと思いますね。

今日は窓ガラス拭き、暖簾やマットの洗濯
電気の傘も拭いたりしていました。
さすがに疲れて腰がだるいですわ。
返信する
Unknown (とんぼ)
2009-12-27 17:26:29
かたばみ様
おや、お気に召しましたか。
最近の羽裏は、ありきたりが多いですね。
まぁ「無難路線」ということなのでしょうが、
もっと凝ったものが出てこないかと…。
男性は着るヒトが少ないから、
しかたないんでしょうかねぇ。
これは、申し訳ありませんが、私物になりますー。
返信する
Unknown (とんぼ)
2009-12-27 17:36:28
陽花様
長男ともなれば、よけいしっかりしていたでしょうね。
命のやりとりなんて、怖かったと思います。
今の時代は平和でいいですねぇ。
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