ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

パブリカ

2010-11-04 02:09:34 | つれづれ
トヨタが作った最初のファミリーカー…と言われています。
我が家の最初の「マイ・カー」でもありました。
700ccで、今に至るもトヨタでは二度と作られなかった「空冷エンジン」でした。
これはその「パブリカ」のマーク入り灰皿。ヤ○オクでみつけました。

我が家は、私が3~4 才のころ、エンジニアだった父が特許をとって、
自宅で品物を製作し、代理店に収める…という自営を始めていました。
部品の製作や組み立てなどを外部に委託したりで、母が外回りの仕事を一手に引き受けましたので、
週に何回も外出することになり、車があったほうが…ということで買ったわけです。
母はそのため、36歳で教習所に通い、免許を取得しました。
まだ女性ドライバーは、指差されて珍しがられた時代です。

パブリカという車は、最初は人気がなかったのだそうです。
「パブリカ」の名前は、大衆車の発展という意図からの「パブリック・カー」が元。
でも、当時「パブリカってイタリア語で《公衆トイレ》のことなんだって」なんて笑ったものです。
ウソかほんとか知りませんが…まぁあまりにもシンプルすぎてサイドミラーもなかったとか。
少し改善されてのころに買いましたから、当時のトヨタとしては、なんとか売り上げを伸ばしたい…
だったのでしょうね、そこで「パブリカ横浜会」というものを立ち上げたわけです。
つまりパブリカのオーナー会ですね。月に一度くらい集まって会食し、
年に何回かは、パブリカ連ねて旅行しよう…なんて「会」です。
母は当時は珍しい女性ドライバーでしたから、役員になってくれといわれました。
本人は「それどころやあらへん、こんのクッソ忙しいのに!」だったのですが、
「お受けしなさい」と勧めたのは父だったそうです。
「君は世間が狭い。仕事ばかりに明け暮れて、外に出てもそればかりだ。
そういう会に入って、仕事以外のそういうお付き合いをすることは、君にとってプラスになる」と…。
そこで、あまり仕事のないお飾り程度にしてくれと、確か書記だったかなんだったかを受けました。
何ヶ月もかけて準備され、その会の発足式が行われたのは「江ノ島」の料理旅館の大広間。
ひな壇で神妙なカオして並んでいる母の写真が残っています。

この会のおかげで私も母とのドライブ旅行ができたわけです。
下の写真は、車の助手席から写したもの。福島に行く途中です。たぶん日光近く。
当時は高速道路なんてやたらありませんし、幹線道路といえども、山の中は未舗装でした。


     


合間に走っているバイクの人は、トヨタの社員、何かあったときのためにバイクで伴走です。
この写真では分かりませんが、どの車もボンネット右側のアンテナに「会の三角旗」をつけています。
サイドミラーを視ると「後続車」が写っています。たしかこのときも10数台でのエントリーだったと思います。

前の車を見ると、ナンバープレートも古いです。漢字は「神」、これは「神奈川」という意味ですね。
後年、母とこれで京都に行ったとき、停車中に通りがかった中学生が
「この車、神戸からや」といったのを聞いて、母が「ちょい待ちっ神奈川やで!」と…オトナゲないったら。
前車のリアウィンドの左下に張ってある白い四角いもの、これが「会」の会員シールでした。

思えば、この会の発足にかかわり、活動が定期的になる間に、父が亡くなったのです。
子供のころは、ただの楽しい旅行でしたが、当時の母にとっては、
父が「外でのお付き合いをしなさい」といってくれた言葉で、会の方たちと知り合い、
こうした旅や会の活動で、気分転換もできたのだと思います。
この会のメンバーの何人かとは、車が変わってからも、長くお付き合いが続きました。
そんなこともあって、母にとっても私にとっても「パブリカ」という車は、
ただ最初に買ったマイカー、というだけでなく、いろんな意味で懐かしく、思い出深い車です。

さて、多分に個人的な話になってしまいましたが、この灰皿、未使用できれいなこと。1000円でした。
今月は母の誕生日なので、これをもっていってあげようと思っています。
あのころのことは、まだまだ覚えていますから。

一緒に「おまけ」としていれてくださったもの、なんと「スカG」と「コスモスポーツ」のカプセルトミカ。
大きさ比較にライターをおきましたが、ほんっとミニですわ。
灰皿とミニカーを眺めながら、しばし古い古い旅の一コマを思い出していました。五色沼…きれいでしたぁ。


     


コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この着物の行く末 | トップ | ペンテックスの帯 »
最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (陽花)
2010-11-04 19:04:48
まだ車のある家は極わずかな時代に
女性が車の免許を取るなんて本当に
お母様は時代の先駆けですね。

パブリカは聞いた事あります。
この形の車だったんですね。
きっとお母様懐かしく思い出され
喜ばれますよ。
返信する
懐かしい (otyukun)
2010-11-05 06:47:56
空冷二気筒ですからばたばたという排気音が懐かしいですね。
トヨタも市民権を得るのに必死だったのは面白いですね。
母上は多少封建的で頑固な性格に見えるのに時代の最先端を行くモダンガールだったのですね。
新たな一面を見せてもらいました。

昨日の着物は梱包の時に使う段ボールの細工用カッターナイフが着物にまで入ってしまったのだと思います。
似た様な経験があります。
確かに昔はこんな裂け目を元通りにする名人が居ました。
恐ろしく価格は高かったのですが。
もう、ご存命ではないと思います。
返信する
Unknown (とんぼ)
2010-11-05 11:38:51
陽花様

実父が虚弱?でしたので、外でのことは
みんな母がやっていました。
この車を買うとき、父がセールスマンに
「教習所のように、助手席にブレーキペダルは
つけられないか」といったそうです。
こわかったんでしょうねぇ…大笑いです。
返信する
Unknown (とんぼ)
2010-11-05 11:42:22
otyukun様

当時の車はけっこうオーバーヒートなんか
していましたから、途中で煙はいてる大きい車を
横目に視て、箱根をスイスイ登りましたよ。
母は、こののち「会主催」のラリーなんかもでています。
そのくせ私には「お前はゼッタイ免許はとるな」と
取らせてくれませんでした。
おかげて私は40過ぎ…。
まだやっと20年なんですよー。

カッターナイフ…なるほど、それはナットクですね。
職人さんがいない…あぁたとえお金があったとしても
再生はムリってことですよね。
寂しい現実です。
返信する
Unknown (さえ)
2010-11-05 22:45:39
五色沼、地元の県です。
ほんとに五色なんですよね。
あれは不思議、、、
とんぼさんのお母様との思い出の地になっていて、なんだか嬉しいです。
トミカは多分隣の男の子が持ってたかなあ。
一緒に遊んだっけ。
もう少し重量感が有った気がしたんですが、、、
100円ライターも姿を消すらしいですね。
返信する
Unknown (とんぼ)
2010-11-06 17:11:10
さえ様

そうでしたか。
五色沼のきれいさは、今でも覚えています。
猪苗代湖とかもいきましたが、
五色沼が一番きれいでしたねぇ。

これは「カプセルトミカ」となってますから、
あのお金入れてカプセルを出す、
アレだと思います。よく出来てますね。
返信する

コメントを投稿

つれづれ」カテゴリの最新記事