拓庵思考~妻との日々・映画と音楽の毎日

巴座ホーム社長の私的なつづれ織り【妻にだけ弾くギタリスト 猫6人の父になる】

あ、そうだ。カルフォルニアに行こう! PART1

2023-07-04 12:41:59 | 日記・エッセイ・コラム

2018年8月10日。その夜のビッグAには大谷翔平の姿は無かった。

リトルトーキョーの名前だけ立派な老朽化したホテルにアメリカあるあるのサスペンションがブカブカのバンで迎えに来ると思いきや...まあまあ快適なミニバンだったのでアナハイムまでのフリーウェイドライブですっかり寝落ちした。

 

「パパ着いたよ」エンゼルススタジアムは17時50分を廻っていたがLAの日没は遅い。この日も20時30分をまわっても明るかった。

アナハイムは田舎町の様相。何もない。ディズニーランドも近くにあるが、LAのダウンタウンが東京だとするとアナハイムは埼玉県の東松山から群馬県に入ってくる感じの適度なカントリーサイドである。

妻はMLB観戦が初めてで少しハイテンションでショウヘイグッズを買いまくっている。最近BS放送や有料MLB中継でよく見る入場者プレゼントのエンゼルスOBレジェンドのボブルヘッド人形もしっかり抱きしめながら内野席の上段席での観戦にあいなった。

 

観客席はまさかの最上段の最後方で席の後ろは壁しかない。古い球場はアジア人の足の長さにはつらい階段の高さで、かなりの急こう配で妻は怖がっていた。「パパ!ちょー怖い。ずっこけたら死ぬわー」と笑ったり怖がったりと忙しい。

 

 

このスタジアムで観戦しながら1998年3月のLAドジャース・スタジアムでの野茂英雄の完封試合を思いだしていた。あれは1998年のMLB開幕戦の頃か...「杉本さん今夜、野茂が投げますよ」「え!そうなの!チケット4枚ありますか?」

私は長女、次女、知人の娘さんを連れての4人旅。(長女の中学受験失敗残念旅行)三泊五日のLA旅行でユニバーサル・スタジオ。ディズニーランドやLA観光の最中だった。行く先々で「あなたはお父さんひとりで日本から来たのか!凄い!偉大だ!」と褒めてもらった。

ホテルニューオータニにお迎えのバンが来てワクワクする気持ちでドジャース・スタジアムへと向かった。ドジャース・スタジアムはエンゼルス・スタジアムとは空間や雰囲気が全然違う。当時吉野家もLAに進出していてLAの街中にはYOSHINOYAはポツポツあった。呼び名は【ヨシノヤ・ビーフボール】。タイ米(サフラン米)がいびつな形だけれども、牛肉の味。米の味もすごく美味しく感動すら覚えたものだ....

 

 

その夜のドジャース・スタジアムはとても寒くドジャースのブランケットを買い娘たち三人は、バケツのような大きいドジャース名物のコーラを飲みブルブルと震えながらニコニコ顔で、良くルールのわからないメジャー・リーグ初観戦を楽しんでいた。私はつっかぶりのス裏地がボアのスタジアムジャンパーを買い、それを着込んで娘たちの面倒をみたり、野球解説をしたりと.....とにかく私たち四人は最高に盛り上がっていた。すると後ろや前の席のアメリカ人の夫妻から「あなたは日本人か?」「そうですよ。野茂英雄と同じ日本人ですよ!」と返すと「奥さんはいないのか?」「日本でベイビーと留守番していますよ。東京の近くの群馬プリフェクチャーから来ました。アナハイムとダウンタウンくらいの距離より少し遠い感じ」というと前後席のアメリカ夫婦たちは皆「グレイト!グレイト!」「グッド・ファザーだ!」と興奮気味に語ってくれたっけな.....

その夜、野茂は完封した。もしかしたら完投だったのか....翌朝ホテルのTVでブッシュ大統領が「昨夜のヒデオは良かったね」と言っていた。ロデオドライブでのショッピングの行く先々で昨夜もらったLAドジャースの青のキャップをかぶっている長女・次女たちは「OH! OH!!HIDEO!!(ヒデオ!)」と、ハイタッチされていた。当時、前歯の無い次女はハイタッチの嵐に絶好調になり、ノリに乗っていけない長女は恥ずかしそうにとまどっていた。

野茂英雄はLAのヒーローだった。

 

私が観戦した時、野茂英雄と同じくらい感動したのは恋女房のキャッチャーでスラッガーのマイク・ピアザの特大のホームランだった。すごいスイングだった。大学時代によくNPBを観戦していたのでメジャーの迫力には驚いた。これは娘たちも25年前のことを鮮明に覚えているらしくドジャースタジアムがウェーブで二周して揺れた。WBC準々決勝戦でマイク・ピアザは監督としてイタリアチームをひきいていた。

次女に「お前さ今夜のイタリア戦の監督さ、あの夜ドジャースタジアムでホームランかっとばしたピアッツアだよ。」「え!あの二回ウェーブで立ち上がってしたときの人?」「そうだよ。私あの人のホームラン観た!って自慢しなよ」余談だがその日のLAドジャースの三塁手はウォラック。そう。2023年7月現在大谷翔平の先発時のキャッチャーのウォラック捕手のお父さんである。

 

 

「牛丼食べたよね!」「そうそう」

私たちはTOP DECKで観戦していた。ヨシノヤ・ビーフボールはFIELDエリアにある。その売店は、バックネット真裏で打席が、かなり近く、私は牛丼を食べながら野茂の打席を観ていた。野茂は全く打つ気がなくMLBナショナルリーグはDH(指名打者制)が当時はないので野茂はあの笑わない顔で、ちんたらちんたらスイングしていたのを観た私は大声で「こら~!!ノモ~!!てめー!キンタマあんだろ!しっかり打て~!!」と叫ぶと野茂選手も観客も一斉に私を見たのだ.....ヨシノヤ・ビーフボールを持ったうるさい日本人の私。

旅の恥は掻き捨てなのである.....

 

 

コロナ前の2018年のLAにYOSHINOYAはなかった。

2023WBC JAPAN代表の記録映画の中で大谷選手がホームランを二本打ったあとにベンチで「なんか...盛り上がんなくんね??」と言い山田哲人選手が「みんな引いてんだよ」と言っていたが違うと思う。

エキサイトの仕方や表現力がアメリカ慣れしている大谷選手には静かに感じるだけなのかと....アメリカの歓声は凄い。相手をたたえる単語も多い。「グレートだよ!」「エキサイティングだ!」「月まで飛んだ!」「史上最高だ!」「アメイジングだよ!」とか日常会話なのであり、日本人は近所の奥さんに「おお!なんてグレートなお庭の花だ!最高にアメイジングよ!」とは言わない....

 

私が日本人にウケていないと感じることも、このあたりに関連していると思う。図面とデザインのプレゼン以外に動画やショートムービーを制作してのプレゼン後に私がいつも感じる瞬間だ。『ああ....ウケていないのか....』と心の中でつぶやくとしきり。後日、お客様から「すごく感動しました」「感動して言葉が出ませんでした」とほぼ言われる。正直、その場で話していただいたり、反応してほしいものだが....

 

LAを題材にした住宅もかなり作った。どれも私の自慢の住宅作品だ。【サーファーの住む家】【サンタモニカ】【ヴェニス・ビーチ】【LAダイナー】【サンライズ】【BUZZライト・ガレージ】などがLAを題材したCAFEHOUSE 巴座ホームの作品群だ。興味がある方はCAFEHOUSE 巴座ホームのホームページをのぞいてみてください。野茂英雄の完封試合を観ていた当時小学校4年の次女の手造りのアメイジング!でエキサイティング!でグレート!で、スペキュタクラー!!なホームページです。(笑)

http://cafehouse‐tomoeza.com

 

「ママ。LAに行こう!

ベニスビーチのゴールドジムに行こう。

マッスルビーチでトレーニングしよう。

サンタモニカでロブスターを食べよう。

SONYピクチャーのスタジオに行こう。

ロデオドライブで買い物しよう。」

 

あ、そうだ。カルフォルニアに行こう! PART1  完

 

 

 

 


SDGs防衛隊 対 シン・ヘドラ

2023-02-03 16:08:27 | 日記・エッセイ・コラム

私は昭和の忘れ物である。

令和の世の中は私にはあっていない気がする。たしかにSNSや科学・技術の進歩は目覚ましくたいへん素晴らしい側面もある。

ハイテクノロジーで構成された高性能住宅を提供する私の会社【CAFE HOUSE 巴座ホーム】は暖かく寒い冬にはその恩恵を受ける。

そのデザインの本丸でもある巴座ホーム本館が、昭和色を濃くして生まれかわった。

私の部屋に東宝特撮怪獣映画のバイプレーヤーたちが仲良くくらしている。

 

 

【キングコングの逆襲】のメカニコングやゴロザウルス。【ゴジラ対ヘドラ】のヘドラ。【ゴジラ対メガロ】のジェット・ジャガー。【ゴジラ対ビオランテ】のビオランテ....東宝怪獣たちは脇役たちがいい。写真のフィギアは息子がプレゼントしてくれた。息子は吉本所属の芸人【頑張るかつやま】という。息子に買ってあげた怪獣フィギアたちは巴座本館の私の部屋で今でも元気に暮らしている。

 

昭和30年~40年代の函館の街並みには封切り映画の宣伝看板やポスターがあちらこちらにあった。現在の函館は封切り映画館が無いという.....

私の住む高崎市は大型商業施設内で複数の映画が毎日上映しているが、あまり足が向かない。

小学校の記憶で函館の歴史地区の十字街で観た【サンダ対ガイラ】の宣伝看板は衝撃でいまでもはっきりお覚えている。

函館の小学校の夏休みは短い。7月24日が終業式で8月19日には休み明け登校していた。

そして1971年(昭和46年)の7月24日は【ゴジラ対ヘドラ】の映画の公開日だった。

私は母にねだり東宝チャンピオンまつりのメイン作【ゴジラ対ヘドラ】を連れて行ってもらった。

本作品は円谷英二監督の没後に初めて作られたゴジラ映画であり、シリーズの新たなスタートとなった作品でもある。独特の作風によりシリーズでも最も異色の作品となっており監督は坂野義光、脚本は坂野監督と馬淵薫。当時のサイケデリックブームメントの匂いもする、いわゆるコアな作品である。

母は上映がはじまるとすぐに寝息をたてた。この辺が文化人ではない一般人で怪獣映画や子供映画は大人が真剣に創っていることを軽んじている。

公害やヘドロ問題に切り込んだ作風は失礼ながら空回りしていて、10歳の私が観ていて『痛いな....これは.....』と思ったことをはっきりと記憶している。

ゴジラが尻尾を前腹に折込み放射能光線を逆噴射して飛行する場面も『わ...あ。こんなことしなきゃいいのに...』と、憐れんで観ていた。

 

そして私は昭和の映画看板を制作したくなった。

昭和レトロな巴座ホーム本社本館は昭和の匂い漂うので前面の掲げる看板も昭和特撮怪獣看板にこだわってみた。

 

今回の看板は、構想・デザインは私が行い、入力は当時在籍していた優秀な山田翼くんが担当した。

撮影は巴座本社近く、高崎アリーナ前、観音山などで行われた。山田翼君は「みんなが見て、ちよー恥ずかしいです」、次女は「あごが痛い....」と苦しんでいた。ま、「あ!怪獣だ!」と大きな口をあけさせて何枚も写真を撮ったので当然か....

 

山田翼くんには感謝したい。二週間以上かけてフォントや構成をやりなおしたので完成作は自信作でもある。

これを『新春大ロードショー』として年賀状にもした。

スタッフには感謝感謝である。

 

私の部屋には大映怪獣の至宝【大怪獣ガメラ】。松竹映画の黒歴史の怪獣映画【宇宙怪獣ギララ】。昭和東宝怪獣映画の最高傑作【モスラ対ゴジラ】のポスターが展示してある

先日亡くなったジェフ・ベックの【ブロー・バイ・ブロー(購入当時の邦題は【ギター殺人者の凱旋】)、【BBAライブ・イン・ジャパン】、トム・ダウドのプロデュース作品の不人気作エリック・クラプトンの【安息の地を求めて】のレコードをはじめ昭和の名作レコードも展示してある。

私の部屋から信号待ちの車の運転席がみえるが、この【SDGs防衛隊 対 シン・ヘドラ】の看板を見て笑ったり、ニヤケたり、驚いたり......不思議な顔をしているのが面白い。

人生一度きり。私は笑われてなんぼ。面白い人生がいい。

63歳を目前にして私の頭の中は、ますます面白くなってきている。

私は昭和の忘れ物なのである。

           【SDGs防衛隊 対 シン・ヘドラ】  完

 

 

 

 

 

 

 

 

 


喫茶チャチャ登り

2023-02-02 15:50:18 | 日記・エッセイ・コラム

『ごめんください......』

『ごめんください......』 蚊の鳴くような声が階下から聞こえる。

『はーい』と階段の踊り場まで出て1階ホールを見るとオシャレな青年が立っていた。

 

『ここはカフェですか?』

『ああ.....』と、私は彼を見ながらほほ笑んで『ここは住宅会社なんだよ』と答えると青年は『ここで珈琲は呑めないのですか?』

と、笑顔と疑心暗鬼が混ざった複雑な表情で1階ホールのカウンターを指さしている。

 

『カフェではないけど珈琲呑む?』と私が笑って答えると彼も笑った。

黒コーデのアウトドアブランドをタイトに着込み、髪型もバンド系でかっこいい彼に『おもしろい家づくりの会社なんだよ。そのブランド名がCAFE HOUSEって言うんだ』とさらに説明してみた。

 

『カフェハウスってドアに書いていて...このカウンターで珈琲 呑めると思って..』

外を見ると彼はHONDA N-VANのカーキ色で来ている。

彼は何回も造作アートカウンターや巴座玄関ホールをワクワクした顔で眺めて納得した様子で帰っていった。

 

このブログ【拓庵思考~妻との日々・映画と音楽の日々】は2012年から書いているが、私の会社のホームページ内に移設してから書く回数が激減した。

今回も2021年9月24日以来の投稿になる。ホームページ内から気楽に書けるアプリができたgooブログに戻ってきたので、私も新鮮な気持ちで書き綴っていく所存である。

私ももうじき63歳になる。昨年は妻が心臓の病気になり巴座本館内の妻の営む研和田町教室が惜しまれながら終焉の時を迎えた。妻とふたりのための巴座本館だったので閉館も考えた。紆余曲折あり大幅なリニューアル工事を行い、昭和30年~40年代の函館色が強い建物空間になり新装開店した。

昨年、函館朝市内で十字屋珈琲の菅原氏と偶然にも出会いがあり、ともに【peeps hakodate】に紹介されたことでお話しさせてもらい、十字屋珈琲のカップも買わせていただいた。新装巴座本館内に架空の喫茶店を作った。名前は【喫茶チャチャ登り】。悪乗りして【函館十字屋珈琲】のカッティングシートのアクリル窓まで作った。

 

 

そしてpeepsのギャラリーも作った。peeps hakodateの吉田編集長にはINEで写真を送らせていただいた。

peeps hakodateは巴座館内に三か所に分けて置いてあり、さらに自宅横のショールーム兼BARにも置いてある。最新から6冊は私の仕事部屋のナイトラウンジカウンターに置いてある。

 

 

 

妻がいない巴座本館であるが私はここに通うのが楽しみになった。見どころはたくさん作ったので順次紹介していく。

住宅会社でもあるのでキッチンやお風呂、ドアや床、外壁も多数展示しているが普通じゃつまらないので面白く演出してみた。

函館色が強くレトロで、海を感じる仕掛けも施した。

私の部屋はレコードや怪獣のフィギアやギターに囲まれている。

私の部屋はお客様には普段案内はしていないのだが、ナイトラウンジと名付けられた高崎アリーナの夜のライトアップが素敵で日没が待ち遠しい。

 

ギターやレコード、CDは自宅にもたくさんある。

私は中学、高校から時間が止まっている。だから私の愛した1970年代の函館が恋しい。

次女が弊社の広報を担当していて巴座ホームのホームページを函館色が強いものに作り替えてくれた。

綴られている文章も私の思い出や普段語っていることをよく反映させてくれていてる。

これには心から感謝したい。

 

この..冬は寒い廊下を娘たちが息を吹きかけ暖かくしてくれた.....

断熱工事で暖かいのではなく、心が温かく感じるのだ....

 

再開した拓庵思考。これからもよろしくお願いいたします。

 

             【喫茶チャチャ登り】  完

 

 


かつやまとお父さん~第二章

2021-09-24 18:28:04 | 日記・エッセイ・コラム

芸人の息子と親子共演にあいなった….

高崎天使幼稚園や高崎市の学校に通っていたタレントのJOYさんの番組内でのことである。

 

『実家でTVのロケしても大丈夫かな?』 いつもながらに淡々とシンプルなLINEが私と妻に届いた。

『いいよ!』

『もちろん!なんでも映していいよ』

『ありがとう。吉本の社員さんか群馬テレビさんから連絡がいくね』

 

翌日、群馬テレビの飯沼ディレクターから電話が来て番組の詳細を丁寧に説明していただき、後日 飯沼ディレクターと森プロデューサーが企画書を持ってやってきた。

高崎観光特使ジョイさんの【JOYのASOBU-TV JOYnt! 】の番組内で息子のコンビ衝撃デリバリーのかつやまの自宅を群馬の新スポットとして紹介するという内容を説明していただいた。

今から思うと、かつやまの家がロケできるような家だとわからないで撮影前取材にきたようで、来てみたら面白かったので二週分撮ろうと発案したような…..

 

群馬テレビのお二人に私の自宅を案内すると….「この家で二本撮れますね」と話していた。

「好きに使ってください。息子のために協力します。私は当日は会社に行っています」と話すと、森PDと飯沼Dは「いやいや、お父さん出てください。」と話すのである….

 

森PDは番組内でもちょくちょく映る方で「かつやま君はこの家の説明はできないでしょ?お父さん面白いから出てください」というので「マンダロリアンのマスクを被って出てもよいですか?」と本気で聞くと「いいですよ」とニヤニヤして答えてくださった….

同席した次女も「出なよ。かつやま君より面白いんだから出たほうがいい」

飯沼Dも「お父さん面白いから是非是非」と目が真剣だったので「分かりました。妻はどうしますか?」と聞くと「出てほしいです」とのことで妻はその日の授業を中止して朝からロケ班の皆様への食事などを用意した。

 

8月6日の午後から夕方まで4時間強のロケは順調に終わり、私は衝撃デリバリーに頼まれて【衝撃デリバリーYouTubeのかつやま自宅公開】のロケも1時間おつきあいした。

 

息子かつやまが芸人になり、いつかロケに来る日を予想してTV映えするように作った自宅が芸人になり6年目にしてメディアに紹介された。

また、かつやまの高校時代のメモリー【佳津山杉本のすべらない話し】のブルーレイもオンエアされた。これは本当に嬉しかった….息子のために約ひと月仕事をほったらかして制作した映像であったので….番組終了後に録画を見直しで感動でいっぱいになった。

 

先日放送された【衝撃デリバリーかつやま実家ツアー後編】でいみじくも息子かつやまが「芸人6年目で親子共演できた」と語っていたが…..本当にありがたいことだと思っている。

 

近くのコンビニ、蕎麦屋さん、知人から「観ましたよスーパースター」「バービーさんですね」と番組の反響を感じている。

 

芸人の父と母を夫婦で楽しませてもらっている。

 

健康に長く生きて息子たちの活躍を観てみたいと思う……

 

JYOnt!や衝撃デリバリーYouTubeをご視聴していただいた皆様に心から感謝を申し上げます。

 

 

大大坊の加藤くんが「ラーメン食べますか?」とほほ笑むのだが胸いっぱいでそれどころではなかった….加藤くんありがとう。ジョイさんも飾らない方だった。感謝感謝。

 

2023年版補足追記

①衝撃デリバリーはこの翌年2022年4月で解散している。息子は2023年2月3日現在 吉本所属のピン芸人【頑張るかつやま】になり相方探しをしている。

②妻曰く天使幼稚園時代からJOYさんは可愛いく目立っていたらしい。うちの次女は天使幼稚園の後輩になる。

③番組撮影後、JOYさんにキャンピングカー内をご案内した。「いくらですか?」と聞かれ答えると「......」と沈黙をされていた。

 

かつやまとお父さん~第二章  完

 


さあ旅に出よう!

2021-08-04 18:26:48 | 日記・エッセイ・コラム

キャンピングカーを停めて運転席からそのまま後ろのリビングルームに座り海の景色を堪能した。新潟県寺泊から出雲崎にむかう夕暮れの一コマである。

 

猫たち4匹も一緒だ。アメリカンカールの女の子も我が家に来たので猫4匹と私と妻の新たな旅が始まる。

アメリカンカールの女の子をカインズ吉岡店で見て一目ぼれした。値段は我が家の最高額だがもっと高くても我が家に迎えた。名前はサクラちゃん。本名は杉本・サクラール・キャメロン。

 

アメリカンショートヘアの男の子のトラちゃんはすでに去勢手術を終えた。我が家で一番甘えん坊ある。私が居間で寝落ちすると男の子の猫ちゃんはこんな感じで甘えているらしい….

おやつタイム。四匹いるので長男から次女まで来た順に与えている。

 

我が家の新館のゲスト宿泊部屋で遊ぶ猫ちゃんたち。

 

今年の2月から7月末まででキャンピングカーが三台目になった。

2月はバンコンと呼ばれるキャラバンNV350ベース、3月末にはライトキャブコンと呼ばれるマツダボンゴトラックベースの家庭用エアコン、電子レンジ、TV付きだった。

とにかく後ろが揺れる。試乗もしないで買ったので知識不足だった。

足回り交換。シートもレカロにしたが後ろの乗り心地は改善しなかった…

キャブコン。トヨタのカムロードベースで太陽光、家庭用エアコン、電子レンジ、走行充電装置、その他大型バッテリーを購入して電気不足のストレスもない

後方ドアなのでとにかくリビングが広い。トイレルームも広々。この二点が購入の決めてになった。Wi-Fi環境も完璧でYouTube、ネットフリックスなど全て視聴可能にしている。今回はパナソニックのどこでもBIERA の19インチを購入した。アンテナは特注で良い物を付けた。

 

さすがに半年の間に三台目なので今回も購入は念入りに試乗とくに猫ちゃんたちと妻がいるキャビン部の揺れや快適性をよく考慮して購入した。これからさらにスタビライザーや専用コイルサスペンションを導入、タイヤのインチアップや運転席はレカロか国産のカムロード専用シートに交換して最高の車に仕上げ私と妻と猫ちゃんたちの走る家と旅に出ようと思う。

 

納車二日目で新潟の海を感じる旅に出た200キロの旅。途中三回の休憩をはさんだ。来週は蟹市場で有名な新潟県能生のRVパーク。福島県の裏磐梯スキー場のRVパークに出かける。コロナになってから私は映画館と旅館・ホテルには行ってない。キャンピングカー内で食事もお茶もトイレも睡眠もTVやネット鑑賞も全て賄える。なによりワクワクする。この車なら北海道や九州に行けると確信した。

 

さてワクワクすることがもう一つある。

吉本興業6年目の芸人の息子たち衝撃デリバリーがコロコロチキチキペッパーズと【ファイナルフラワー】というライブを行う。今は劇場に行かないで配信で観れる。息子には1年会っていないが、スタンドFM【かつやまがんばるラジオ】、YouTubeの【かつやまんちチャンネル】【衝撃デリバリーチャンネル】で毎日のように息子の顔や声、またライブ配信もたくさんあるので私は吉本興業が運営するFANYチケットのポイントがかなりたまったている。

 

M1ファイナリストのオズワルドの偽畠中がうちの息子。左端が本物の畠中氏、左二番目が息子のかつやま。畠中氏は函館市出身で非常に親近感がある。

 

息子が大物芸人とも共演が増えてきた。今週は私の自宅にTVのロケ班も来る。芸能人の家族になった実感がふつふつと湧いてきた。

 

キャンピングカーはワクワクする。息子の活躍もワクワクする。

さあ旅に出よう!

 

 

2023年2月版追記 現在は猫6人(猫6匹)になり、手狭になったキャンピングカーは、ほぼ買った値段で買い取られ二段ベッド付きの安全な車両に変わりました。

 

 【さあ旅に出よう!】    完

 

 

 


猫とキャンピングカー

2021-05-25 18:24:53 | 日記・エッセイ・コラム

猫と暮らす毎日は還暦を過ぎた私の新たな喜びになっている。

 

【猫の病院すとう】を設計・施工したのは3年ほど前のことだったか…..日本には猫専門病院が全くない。クライアントの須藤先生はいつもニコニコしている優しい人間で商売やお金の嗅覚は皆無であり、その純粋さが猫の親たちからは人気であると確信する。

 

手術室・レントゲン室の鉛による遮断、隔離室・入院室・ホテルに使われるステンレスのゲージやドア….これらを全て我が巴座ホームアンドピクチャー株式会社の業者の特注で竣工できた。猫の看板や猫型の照明器具や猫型の建具を手掛けていながら私はまったく猫に興味がないので普通に仕事としてこなしていた。

 

コロナになり世界街歩きができなったある日のこと、妻が猫を飼いたいと言い出したのだ….『すとう先生もついてるし猫飼っても安心だよパパ』とまったく猫に興味がない私に毎晩猫の写真を見せるのである。『見るだけ 見るだけ』と、カインズホームのペット館も何件も行った。

 

猫の値段はことのほか高額だった。私の欲しいギターよりも高いのだ….妻もあきらめモードになった昨年の8月の夕刻に近所のお世辞にも綺麗とは言えないホームセンターのペットコーナーに私と目があった可愛い子猫がいた。『この子可愛い。飼おう。よし買うよ!』というと妻は『え!』とかなり驚いたが私の性格を理解しているので、すみやかに手続きに入った。私は店の子に「猫ちゃんに必要なもの全てください」と言い、子猫と共に帰路についた。

600グラム。生後65日くらいのブリちゃん

八割れでお鼻と肉球がピンク色の珍しいブリティッシュ・ショートヘア。

 

 

子猫はブリティッシュ・ショートヘアの男の子で八割れで美しい顔で名前を杉本・ブリリアント・オスカルと名付けブリちゃんと呼んでいる。この5月に私は61歳になり、ブリちゃんは1歳になった。

 

私と妻が帰宅が遅いこともあるのでブリちゃんにお友達を与えることになり、ブリティッシュ・ショートヘアの女の子がやってきた。杉本イブリン・アントワネットという名前でイブちゃんと呼ばれているが避妊手術後に太りだし最近ではキング・コングと呼ばれている。

 

朝霞のカインズホームは清潔な店でイブちゃんを見て即決した。正統派ブリティッシュ・ショートヘアのグレーカラー。

 

 

ブリは去勢手術。イブは避妊手術。そう二匹は大人になった。

 

タマタマちゃんが在りし日のブリ。

避妊手術後のエリザベスカラーはやめて黄色の術後服がきつくてパンパンのイブ。

 

 

猫たちと旅をするためにキャンピングカーを購入した。これは妻の発案だった。

猫と泊まれる旅館やホテルは以外にも少ない。犬はドッグランもあるし、宿泊可能なホテルもたくさんある。

猫のホテルがないなら車中泊を快適にできるキャンピングカーを購入したいと思うのは愛猫家なら当然の流れだった….

 

救急車ベースの大きいキャラバンのキャンピングカー

1000キロ走りやっと車に慣れてくれたころ。

納車日。後席があまりにも揺れて1000キロで購入先のフジカーズに高値で買い取ってもらった。

 

 

2月1日に納車になったキャラバンのキャンピングカー フジカーズジャパンのFOCSは1000キロでお役御免になった。3月末には奈良のキャンパーアシストのJOCTがやってきた。

 

ボンゴトラックベースにエアロパーツがついている。アルミボディで走りも良いがショックアブソーバーは前後変更した。

運転席シートは最悪だったのでレカロに変更した。

 

 

JOCTは動く家である。家庭用エアコン、オーブンレンジ、テレビ(YouTubeやネフリが観れる)、冷凍冷蔵庫付き。シンクは片付けが面倒なので未使用にしている。キャンプ場も行っていない。パーキングエリア、RVパーク、道の駅で車中泊をして珈琲や軽食で充分に楽しんでいる。トイレも猫砂方式で水を使用しない方法だが匂いも音もなく快適である。コロナがあけたら北海道や関西、九州、四国など行ってみたい。

 

 

61歳の誕生日は妻と猫たちと祝った。テイラーのエレアコは自分へのご褒美。

ブリも1歳になった。チュールペイントで祝った。

 

 

そして我が家の猫が三匹になった。名前は杉本トラファルガー・フィンといいトラちゃんと呼んでいる。

 

 

アメリカンショートヘアの男の子で生後4か月のトラちゃん。

 

次はベージュのアメリカン・ショートヘアの女の子が欲しいかな…猫の名前はイギリス名とフランス名を混ぜているが猫の病院すとうの診察券やお薬の袋に杉本イブリン・アントワネットや杉本ブリリアント・オスカルと記入されているのは違和感があり笑ってしまう。

 

 

しかしである….猫はこんなにも可愛いものかと妻といつも話している。清潔で散歩もしなくて良い。広い自宅を開放しているので猫たちは上に下に走り回っている。寿命は13年から20年らしいが別れはつらいだろうな….

家の中のあちこちにキャットタワーやら猫ちゃんポールを建てた。

 

キャンピングカーも慣れてくれた。揺れても爆睡するようになった。

軽井沢アウトレットや群馬の森や川場の道の駅をベビーカーに載せて散歩した。実に可愛い。

3匹で狂ったようにトンネル遊びで盛り上がっている。

キャンピングカーで爆睡する猫たち

 

猫たちと北海道から九州まで旅をするつもりだ。RVパークやキャンプ場に前もって予約するつもりはない。電気は巨大なバッテリーを掲載している。次はシャワールーム付きの発電システムがさらに凄い大きいキャンピングカーを購入すべく目標が出来た。

 

夫婦と猫3匹の旅はこれからが本番だ。ワクワクするニャー….

私は猫たちを溺愛している。孫にも買わなかったキャンピングカーを猫たちには買った。

孫と猫がどちらが可愛いか?それは即答である『猫に決まっている!』

 

まさかの猫の親バカライフをエンジョイすることにする。

 

 

【猫とキャンピングカー】  完

 


衝撃デリバリーからの贈り物 マンダロリアンのマスク

2021-04-30 18:22:33 | 日記・エッセイ・コラム

『パパ!かつお君 スターウォーズの仕事が入ったんだって!』

 

かつお君とは妻がつけた息子の呼び名である。なので孫たちも『かつお!』『かつお君!』『かつお兄ちゃん』と呼んでいる。

 

息子の名前は【杉本佳津山】と書き【すぎもとかつやま】と呼ぶ。

 

吉本所属6年目の衝撃デリバリーのスーツの方である。長髪の眼鏡で眼光するどい顔の方は【和田ランダマイザ】。一般教養が普通にある文学系頭脳の面白い人間であり芸人である。推測するにかなりのロマンチストであると思われる。学校の成績は優秀だったが一般教養が皆無な息子かつやまとのやり取りを最近ネタにしているが面白い。

 

衝撃デリバリーの吉本の宣材写真。新しく仕立てたWのスーツの代金は「自分で買えます」と言ったが、その言葉が嬉しくて私がお金を出させてもらった。

 

妻いわく「スターウォーズの番組に出させていただけるみたいよ」とのことだが数日たち話しの輪郭が見えてきた。ディズニーが配信しているDisney+で5月4日 14時から配信する番組【スターウォーズの日】にコンビで出演し収録は終わっているということだった。

 

 

衝撃デリバリーは結成当時からスターウォーズのネタをやっていた。20世紀FOXの開始映像の有名なサーチライトのバッグで流れる音楽を和田が唄うネタだったり、スターウォーズ好きにしか通用しないグリーバス将軍のネタだったり最近でも衝撃デリバリーYouTubeチャンネルでもスターウォーズネタを披露していた。おそらくはどなたかの目にとまり番組出演に至ったのだろうと推察する。

 

私はDisney+は【マンダロリアン】を観るために加入しているのでこの息子が出演する配信番組は視聴できるし、ダウンロードして保存視聴もできるかもしれないので親としては嬉しい。

 

神保町よしもと漫才劇場での衝撃デリバリー初の単独ライブは雨まじりの日だったが満席になりその片隅に私と次女もいた。

 

次女がチケットを購入したので仕事を休めない妻を高崎に残して私と次女で1年ぶり以上の神保町よしもと漫才劇場に車で向かった。開演の2時間前に到着して衝撃デリバリーYouTubeチャンネルで観たときから行きたかった新潟のたれかつ丼のお店は期待を裏切らない味だった。

この後、ドトールコーヒーに息子が自信に満ちた顔で現れ『たくさん笑ってください』と言い劇場に戻った。ほんの3分だったが芸人ではなく息子だった….。

 

息子が保育園か小学1年生の頃に【スターウォーズ エピソード1 ファントム・メナス】が公開された。息子かつやまを劇場に9回連れていった。吉祥寺の東急ハンズでユアン・マクレガー扮するオビ・ワン・ケノビのジェダイ見習いのパダワン時代のなりきりセットと適役のシスのダース・モールのライト・セーバーを買い、いつも戦いごっこを再現して遊んだものだ。

息子が最も良く遊んだシーンはリーアム・ニーソン扮するクワイ・ガンジンとユアン・マクレガーのオビ・ワン・ケノビがダース・モールと戦い、さらに共和国が帝国軍にドッグファイトを仕掛ける劇中後半のハイライト場面で流れるジョン・ウィリアムス作曲のロンドンフィルハーモニー楽団の壮大なサウンドトラックBGM【運命の戦い】を衝撃デリバリーの初の単独ライブの後半の音楽に彼らはチョイスしていた。

しかもエンディングからクレジットに流れる【オージーの大楽隊-エンド・クレジット】も流れていた。これは息子が推したのか和田ランダマイザも納得したのかは定かではないが、この【エピソード1 ファントムメナス】サウンドトラック曲は息子が高校3年の時に作った【佳津山杉本のすべらない話し2部活対抗戦】で編集担当の私が要所要所に挿入した曲なので息子が意図的に採用したのかなぁ….と推測しながら私は観ていた。

 

  

 

peeps hakodate[ピープス函館]の吉田編集長にさきほど息子かつやまがDisney+のスターウォーズ配信番組に出ることと、番組に出た衝撃デリバリーの二人から贈り物がとどいたことを知らせた。

 

【マンダロリアン】を途中で観なくなった私に『シーズン2もかなり面白いですよ』と再起をうながしてくれたこともある吉田編集長とはコロナでエピソード9の反省会を出来ずにいる。函館スカラ座で映写技師もなさっていた吉田編集長は私の母校函館市立深堀中学高の先輩後輩にあたる。私の方が何年も先輩なのだが年齢を超えて連絡を取り合っている。

 

吉田編集長に衝撃デリバリーのふたりから送られてきたDisney+配信番組からもらったのか、景品なのかわかないがその品物の写真を送った。

マンダロリアンのマスクである。電池で光る仕掛けだ。入っていた箱もかっこいいので巴座ホームアンドピクチャー株式会社のプロテインBARに飾った。

スターウォーズ帝国戦艦の箱の中身はATMOPH社の壁掛け動く風景が入っていた。ナジャやデススターの周りを帝国軍のタイファイターや戦艦が飛んでくる風景をファルコン号やスペース基地や艦内から見ている風景に設定できる。

 

吉田編集長は「おお~!かっこいい!」と食いついてくれてこんな可愛い写真を送ってくれた。

マンダロリアンに登場するマンドーの相棒ベイビーヨーダのお人形。頭をなでると動くそうだ。これは私も欲しい….

 

マンダロリアン劇中のマンドーとベイビーヨーダ

フィギアが発売されたようだ。買うか買わぬか....悩む

 

吉本のFANYというサイトでオンライン配信で衝撃デリバリーの出演のステージを調べたら4月30日から5月22日までのが13個くらいあったので全て購入した。息子が小学校の時、少年サッカーのFC片岡に所属していて妻と私はほぼ毎試合観た。今もそれとかわらないようなものだ。私は孫たちの運動会やお遊戯会など全く興味がないので観に行かないが、息子のYouTubeは毎回観ている。私もただの親バカのひとりだと認識している。

ついに衝撃デリバリーは吉本興業のホームページの芸人検索に載るようになった。実に5年の歳月がかかった。

 

 

私はGW明けに61歳になる。

息子は27歳になったそうだ。

息子の活躍のおかげで充実している私と妻の人生にさらに楽しみがふえた。

衝撃デリバリーから届いた嬉しい嬉しい贈り物の【マンダロリアンのマスク】。

とても良い気持ちだ…..

 

追伸 衝撃デリバリー単独公演は素晴らしい1時間であった。息子たちコンビがこれから大いに羽ばたいている姿を確信できた夜であった。うん。とても良い気持ちだ…..

 

衝撃デリバリーからの贈り物 マンダロリアンのマスク         完

 


小倉さんとトム・ダウド

2021-03-29 18:21:16 | 日記・エッセイ・コラム

小倉さんのいない朝を迎えた。

私たち夫婦の22年間の朝のルーティーンはフジテレビ【とくダネ!】を流しながら出社の準備をすることだった。

 

小倉智昭さんは獨協大学外国語学部フランス語学科を卒業されているところが面白い。彼の言葉は軽くない。覚悟や信念をもって視聴者にメッセージを伝えていた。

いまから10年以上前になるが妻から連絡がきた。「パパ。小倉さんが【とくダネ!】でトム・ダウドの映画の話しをしてたよ!渋谷のちいさな劇場で上映してるそうだよ」

妻の口からトム・ダウドのフレーズが出た。嬉しくなった。

 

このDVDは新宿のHMVで数年前に見つけた。特別収録DVDが秀逸。

【とくダネ!】で小倉さんが紹介したこの映画をクラプトン好きの施主のO君と観に行った。

 

私の敬愛する音楽プロデューサーにしてエンジニアの故トム・ダウド。小学校から彼の手掛けた音楽を聴いて血液にして生きてきた。私のアイドルのエリック・クラプトンの多くアルバムは彼の手によって名盤の称号を得た。このブログ【拓庵思考】のGooブログ時代の2012年8月2日【トム・ダウドとマンハッタン計画】でも詳しくトム・ダウドの人物像を描いた。

 

レイラ収録時のトム・ダウド

 

映画を役者で選んだり、音楽をアーティストで選ぶのは当たり前なのだろうが私は幼いころから役者は監督や制作側のロボットで、作詞・作曲・編曲・演奏・プロデュース・ミキシングをひとりで行うアーティスト以外の音楽はレコード会社が創った作品だと思っている。だからクラプトンの名盤【カラフル・クリーム Disrael Gears】はフェリックス・パパラルディのプロデュースとして有名だがトム・ダウドが深く関わっていることは知られていない。【サンシャイン・ラブ】の有名なギターリフのバックでアフリカン・ビートで叩いているジンジャー・ベイカーのドラミングは当時このアルバムのミキシング担当のトム・ダウドが発案した。

その他クラプトンの最高傑作デレク・アンド・ドミノスの【愛しのレイラ】のピアノ演奏も彼の発想だ。小倉さんが番組で「良い映画を観ました」と熱く語り、それを妻が聞き『あ!パパが良く話すプロデューサーの名前だ!」と気付き連絡をくれたことで私はトム・ダウドの映画の存在を知るのだが….この流れ全てに感謝したい。

さらに妻の連絡を受けた私はフジテレビに電話をかけた「本日放送の【とくダネ!】内で紹介された渋谷の映画館はどこですか?」と…..フジテレビの電話交換の女性が「しばらくおまちください」と言い3分くらい待つと「【とくダネ!】の番組プロデューサーです」の声が聞こえた。要件をいうと「了解です!お待ちください!」と【トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男】の上映している渋谷の映画館を丁寧に教えてくれた。これには感動した….

「トム・ダウドが好きで、妻が見ていて連絡をくれました」と、【とくダネ!】プロデューサーに話すと「小倉さん喜びますよ!いい奥様ですね!」と電話口から元気な声が響いた….

 

一緒に渋谷に観に行ったのは、当時【ストラト・キャスター】という名前の私のデザインの家の施主のO君。彼は自前のストラトキャスターを大阪の工房で注文するくらいギターが好きで音楽にも詳しい。今まで61年ほど生きてきて私と同等に音楽の話しをできる人間にあまりお目にかかれないが、O君は違った。渋谷の映画館に行く道中に色々なギター音楽を聴いていった。O君はビリー・コブハムのCDを持ってきた記憶がある…..

 

先日FMぐんまの野口さんが巴座本館の私の仕事部屋兼アトリエに遊びに来た。野口さんはFMぐんまの創設メンバーのひとりである。

 

【高橋和美のチャンネル148ネオ】16時台のともえ座のいえのラジオCMの新収録に行った際にザ・バンドのセカンドアルバムが飾ってあったので担当の羽鳥さんに「このレコードはFMぐんまのもの?」と聞くと「いいえ野口という者の私物です」という。収録を待っている部屋にはトッド・ラングレンやミック・ジャガー、ビーチボーイズの写真パネルも多数飾ってある。私は羽鳥さんに「これを飾ったひとは誰にも理解されないで、張り合いが無いだろうから俺の部屋に遊びに来るようにつたえて」と伝言をお願いすると翌日電話が来た。

 

「FMぐんまの野口です。」私の学年ひとつ上ではあるが3か月しか年齢が違わないレコードマニアの落ち着いた紳士の野口さんは電話をくれた5日後にケーキのお土産を手に遊びに来た。それはもう楽しい時間だった。

 

野口さんはトム・ダウドの映画の存在を知らなっかったが、野口さんが「ザ・バンドの映画が来ますよ」と言うので「【ラストワルツ】ならブルーレイもっていますよ。高校時代に函館の巴座で観ました」と返すと「いやいや新作です」と【かつて僕らは兄弟だった】を紹介してくれた。【かつて僕らは兄弟だった】は、シネマテークたかさきで上映していたがコロナを懸念して私は5月発売のブルーレイ盤を予約した。

 

野口さんがFMぐんま内に飾っていたザ・バンドのセカンドアルバムのジャケットと同じ写真。カナダ人4名、アメリカ人1名の最高のバンド。

 

 

 

【ラストワルツ】【狂熱のライブ】皆、函館の巴座で観た。最近Amazonで買ったのだが実際は980円で購入できた。今このブログもトム・ダウドのプロデュースにしてリミックスの【レイラ】のアルバムを聴きながら書いているが私は1970年代前後の音楽の世界の中に住んでいる。FMぐんまの野口さんもそのようなことをお話ししていた。二人ともギターを弾くのでいつかセッションしたいと思っている。

 

小倉さんは【とくダネ!】を勇退した。私はともえ座のいえのデザイナーや代表を勇退はしない。どちらかというと過去最高に頭が調子いいので創作意欲、ギター演奏、筋トレ全て良し。

 

小倉さんを見るたび思い出したトム・ダウドだがこれからも彼の手掛けた音楽を聴き続けるつもりだ。

 

【小倉さんとトム・ダウド】 完

 


【ゴッドファーザー】を撮った街で

2021-02-26 18:19:18 | 日記・エッセイ・コラム

BIG RED (ビッグ・レッド)は田舎の町アナハイムにある。

30代にLAに行ったときはアナハイム・エンゼルスと呼んでいたが、現在はLA・エンゼルスと呼ぶ。そう。『ビッグフライ!オオタニ サーン!』が所属するチームのことだ。

HONDAの工場があるアナハイム。HONDAの新車がずらりと飾ってある。日本未発売の車も多く私は,後にこの日展示していたUSAアコードを購入した。

 

私の席は外野の最後尾。武道館のアリーナ席よりも急斜面。

 

 

何故私はアナハイムに行ったのか…..それは私も妻も大好きな映画【ゴッドファーザー】が深くかかわってくるのである….

 

 

 

私はパート2が一番のお気に入りである。

パート1は函館の映劇で観たのかな….巴座ではなかった。函館スカラ座だったかな….

 

 

2018年の8月。妻の学研和田町教室の夏期講習の予定にあわせて私も休みを取る。飛行機のチケットからホテルまで全て私が予約するので毎年1月か2月には夏の休暇日を決める。この前年はドイツ見聞旅だったし、その前の3年間はヨーロッパで【世界街歩き】の取材の見聞旅をしていたので2017年の冬休みからはアメリカ見聞の旅になった。ニューヨーク、LA、ラスベガス。すべてショービズの中心地でもある。音楽・映画・メディアは偉大なるアメリカの巨大産業であるし、私も大いに楽しませてもらっている。

 

この2018年の夏のLAの旅は映画スタジオ巡りとマッスルビーチとベニスのゴールドジムに行くことがテーマであった。アナハイムスタジオはナイターだったのでリトルトーキョーのホテルにお迎えが来たのは17時をまわっていた。でだ…私はこの少し前まで疲労してベッドで死んでいた…「パパ パパ もう起きなよ…」ベッドで目を開けると妻がすこしシラケた顔で座っていた。「あ。大谷くん観にいく時間だ。ゴメン ゴメン」と冷蔵庫に冷やしていたアメリカ製のエネジードリンクを飲みながら今日の日を振り返っていた….

 

この日は朝からパラマウントスタジオに行くので私はルンルンしていた。地図をガン見して妻にいいところを見せようとLAの電車や地下鉄や映画スタジオの地図を頭にたたきこんだ。LAに来て二日目に悟ったことはLAはタクシーがまったく拾えないということだった。前回LAに来たのは20年位前だったで様変わりしているダウンタウンの様子も新鮮だった。リトルトーキョーのアムトラックの駅からユニオン駅までは遠くない。ターミナル駅なのでアムトラック、メトロリンク、メトロレールが乗り入れている。ユニオン駅で撮影した有名な映画は【レインマン】である。

雨が降らないので券売機の周りはホームレスのオシッコの匂いがきつい。

妻は写真を撮る私の写真をたくさん撮る。ユニオン駅は高低差があり長い。

【レインマン】の撮影されたユニオン駅の場所

この日は妻は朝からお腹の調子が悪く何度もトイレに入り、この後トイレで緊急下車もした。

レインマンの有名なシーン

 

 

パラマウントスタジオの最寄りの駅で下車する前に妻が下痢らしく小さな駅で降りた。メトロは地上に上がるまで時間がかかる。妻の顔は真っ青だ。スコーンの店に入ると妻の形相を見てそれを悟った黒人の若い女性店員が「トイレ?OK!」とトイレの番号のメモをくれた。親切な人は地球上たくさんいるものだ。妻の長いトイレタイムの間、店員さんに御礼を述べアイスティーをオーダーし呑んでいると、トイレだけ借りにきた人にその店員さんは「NO!」と言い店から追い出した。トイレから出てきた妻に「大丈夫?次の駅おりたらパラマントスタジオだからね」「駅から近いの?」「うん。地図では近いみたい」。私の頭の中には昨夜たたきこんだ駅からパラマウントスタジオのイメージが何回も浮かんでいた。

 

自信満々おりたった最寄りの駅から歩いていく前に地元のお兄さんに「すみません。パラマウントはこっちの方向ですよね?」と聞くと「え?そうですが、すごく遠く歩いていくのは厳しいですよ」と心配されてしまった….結局タクシーで行くことになるのだが全くタクシーが走っていないのである。予定が狂った私は焦りとジリジリ照るLAの太陽で汗が吹き出しすぎて軽い脱水症状になっていった….この段階で個人タクシー配車サービスのUber(ウーバー)やLyft(リフト)の存在を知らなかったのだった….やっとの思いでタクシーに乗り中国系のおじさんの運転手がパラマウントスタジオもにおろしてくれるのに10分はかかった。私の脱水症状はかなり進んでいて体力も気力も無くなっていた……運転手さんが遠い場所に停めたので、またもや、たくさん歩き受付に行くと、夕方まで満員で入場できないと言われ…予約制だったこともその時知ったのだった….

パラマウントスタジオ。この奥で【ゴッドファーザー】が撮影された。

帰りのタクシーを呼ぶ間、パラマウントスタジオ近くの住宅地を取材した。

雨は降らないLAだが、この高級住宅地は瓦屋根が多い。日本でい言うところの『ヨーロッパ風建築』がほとんどだ。

 

 

夫である私の精神と脱水の疲労を察した本来リーダーシップのある妻はスタジオの管理人室に行き翻訳アプリを駆使してタクシーを手配した。この翌年の5月パリでも妻はグーグルマップを駆使して道に迷っている私にピカソ美術館を見事に案内してくれた。パリのホテルでも翻訳アプリを駆使して会話で盛り上がっていた….私はいまだにSNSをやっていない。興味もない。だから映画や音楽は詳しくてもLAのUberも知らなかった。ホテルでいつも地図をガン見して覚えるのは備えとしては善いが得策ではないと今は理解している。妻は毎月のように行く銀座や都内の道もいまだに覚えない。私はソウルやイギリスや、パリ、ニューヨークで地図を見ないで歩ける。でも妻はハイテクを駆使して結果を出す。性格が良いので私をバカにしない。そんな私と妻の珍道中見聞の旅はいつも凄く楽しいのである。

 

 

明日Amazonがこの映画を届けてくれる。タイトルは【ゴッドファーザー マイケル・コルレオーネの最期】

 

 

 

CODAとは最終章の意味である。コッポラ監督が自ら再編集して7分長くなり、オープニングも全く【ゴッドファーザー パート3】と異なるそうだ。主演のアル・パチーノ曰く『やっと バチっとはまった』だそうな。これはヤバい。失敗作と酷評されたパート3が新作として観れるのである。私はこの作品は嫌いではない。アメリカの政治と宗教界の裏が見えて面白いし、役者陣は素晴らしい。少なくとも同じコッポラ作品の【地獄の黙示録】の上映版よりは数倍評価している。

 

 

ゴッドファーザー パート3の一場面。当時のフィルムの色が良くない。

ゴッドファーザー主要メンバーとコッポラ監督の2017年の記念撮影。デニーロがただの爺さんでかっこ悪い。ダイアン・キートンはおばあちゃんでも綺麗だ。

 

 

そしてついにパラマウントスタジオの最高傑作絵巻【ゴッドファーザー】の制作裏話が映画化される。コッポラ監督役をオスカー・アイザック(駄作【スター・ウォーズ エピソード7・8・9】の主要メンバー)が演じる。監督は【レインマン】のバリー・レヴィンソン。これは期待できる。フランシスフォード・コッポラ監督が公認しているそうだ。当時不遇でヒットの無いパラマウント映画に天文学的なヒットと世界中の映画賞をもたらした【ゴッドファーザー】と【ゴッドファーザー パート2】の今では信じられない裏話が描かれるらしい。当時のパラマウントはマーロン・ブランドやアル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロの出演を反対していたらしい。しかもあの血だらけの馬の首はシーンは本物の馬だったとか…..

似てなくもないが…まいいか….オスカー・アイザックは嫌いではない。

撮影では頬っぺたにパンを入れていたブランド。のちに【スーパーマン】でカルエル役を演じて笑った。

左のジェームズ・ガーナーの長男役が最高に好き。【ゴッドファーザー】はブランドとガーナーと弁護士トム役のロバート・デュバルがとにかくイイ。

【レインマン】の私の好きなシーン。ダスティン・ホフマンは【パピヨン】のドガの役がすさまじい。

 

 

結局この2018年8月にパラマウント・スタジオには入場できなかったが二日後に車とチケットを手配してワーナー・スタジオに行った。なんと帰りのお迎えはリンカーン・コンチネンタルのロングでリムジンのようだった….クリストファー・ノーラン監督の【ダークナイト】のバッド・モービルに乗りカーチェイスのCG合成撮影もこなした。この話はまた後日書かせていただく。ビッグ・レッドでメジャーリーグを体験した妻はミーハー黒帯有段者ぶりを発揮してファンでもないのにその夜だけはエンゼルスファンで大谷ファンになっていた。次の日サンタモニカに着き買い物を始めるとエンゼルスのことはすっかり忘れ、エンゼルス・ショップでたくさん買った大谷さんグッズは全て娘にプレゼントしていた。私は記念にとってあるが….着てはいない。

   

 

 

私は娘たちとLAドジャース・スタジアムで野茂英雄の完封試合を観たことがある。今から25年くらい前の話しだ。その時、娘たちを【ダイブ】というシュワちゃん、スタローン、スプルバーグ監督の共同出費のレストランに連れて行った。行く途中タクシーの運転手さんとずっと会話して【ホテル・カリフォルニア】の前も通過してもらった。【ダイブ】は、サメの水槽があるレストランだったがとっくに閉店していた。ショービズの世界は流れが速い。コロナが明けたら行きたい場所が世界中にある。LAも時間があるなら毎年行きたいし、住んでもいい。パリもロンドンもニューヨークも住んでみたい。

 

昨夜、還暦になってから久々にベンチプレス100キロにトライした。肘を壊してからは高重量を持つのを控えていた。この2018年の8月ベニスビーチのマッスル・ビーチで頭を下げて行うベンチプレス(デクラインプレス)で100キロ持ち上げようとすると、ギャラリーがたくさん見ているので無理をして10レップ持ち上げてからずっと肘痛だったのだ。昨夜は100キロを4回挙げた。片手で持つインクライン・ダンベル・プレスも32キロを10レップ出来た。私はベンチプレス150キロを目標にしている。次にLAに行くならマッスル・ビーチで130キロ以上を持ち上げたい。もうじき61歳になる。日本の60歳代のパワーをアメリカに刻みたいものだ。

 

 

 

ボディビルの父 ジョー・ウェイダーの看板

悪趣味のお土産屋が立ち並ぶベニスのマッスルビーチ。

ミーハーな妻はここでもたくさん買った。筋トレしたことないのに。ちなみに高崎ゴールドジムのご子息は妻の学研教室の生徒さん。

レンタル自転車を20時までにサンタモニカの店に返さないといけない。ゴールドジムから全力疾走している写真。なんとかギリギリ自転車を時間前に返した。

 

 

 

明日の夜【ゴッドファーザー マイケル・コルレオーネの最期】を妻と観るのが楽しみである。明日は弊社 巴座ホームアンドピクチャー株式会社【ともえ座のいえ】のブランド【カリフォルニアリフォーム】の平屋の傑作【サンライズ】を新規のアメリカ大好きな若いお客様を連れてご案内する。完成前のハワイの平屋【Ayumi Aloha】も見学する。【サンライズ】はLAのビーチの家をイメージして設計・デザインした。ジャクソン・ブラウンの曲でイーグルスの代表曲の【テイク・イット・イージー】が似合う家だ『気楽にいこうぜ』まさにそんな家で、住んでいるAさんもとても太陽のように明るい人だ。LAは笑顔と太陽が似合うロックな町で映画の街だ。

 

私はこれからも世界を旅して、この日本にその見聞で学んだ映画のような家をたくさん作っていきたいと考えている。

皆さま どうかよろしくお願いいたします。

 

LA アイル・ビー・バック!!

 

 

【ゴッドファーザー】を撮った街で    完

 

 


かつやまとお父さん

2021-02-18 18:17:19 | 日記・エッセイ・コラム

『芸人になりたい』

その日が来たのは、息子が大学に入学して四か月が過ぎた夏の日のことだった。

息子の短い大学時代。私は東京農大の門はくぐっていない。函館に蝦夷共和国をつくろうと目論んだ榎本武揚が作った学校に進んでくれた時は少しうれしかったが….

 

 

息子の名前は【佳津山】と書き、【かつやま】と書く。

 

現在25歳で、職業は吉本興行に所属する5年目の芸人であり、いわゆる芸能人である。まだ売れてはいない。

 

我が家の長男ではあるが、歳のすごく離れた末っ子でもある。小学校時代から友達も多く、群馬県高崎市の少年サッカークラブチームFC片岡に所属していた。サッカー選手としては並みの上くらいで、格別上手い選手ではなかったが、毎週のように河川敷やたくさんのピッチに立ち、私と妻は、それはそれは,毎試合 毎試合、息子の活躍を観るのが楽しみで楽しみでワクワクさせてもらった。

紫外線に弱く、眼球や頭皮まで日焼けする不憫な息子にFC片岡の立花監督は帽子をかぶれるゴールキーパーのポジションを与えた。6年生の時である。フォワードからの抜擢であった。

 

私は息子に革製のサッカースパイクや流行りのジャージを買い与えるために稼いだ。ともえ座のいえの前身にあたる時代だったので、まだ生活は安定していなかったが、親というものは健気(けなげ)で、私も妻も息子のためになんでもしてやろうと思った。

 

息子は妻の善い処が似ていて人付き合いを大切にして、人を悪く言う人間ではない。学生時代はリーダーシップもあり、友達の親御さんからも「かっちゃんはいい子ですね」と、褒めていただいていた。勉強にも真面目に取り組み成績も良く、部活も頑張り、妻そのものというか….善い行いができる素直で明るい子供であった。家にはいつも同級生やサッカー仲間や学校の仲間たちが大挙して押し寄せていた。

 

「かつやまが吉本芸人になるために大学を辞めるんだよ」と、学生時代の親御さんたちに話すと皆さん口をそろえて「大丈夫!かっちゃんなら必ずうまくいく!」「うあわー!楽しみー!絶対に売れる!」と言うのである。誰ひとり「え?大丈夫?」とか「やめたほうがいいよ」とは言わなかった。これは息子の普段の行動がそう言わせたのだとすると息子かつやまは、たいした人間だと思う。

なんばグランド花月でダウンタウンの着ぐるみとスリーショット。この日から私は息子が芸人になると確信しており大阪での息子の様子を動画にたくさん収めている。将来【情熱大陸】に出演するときのVTRとして。

 

東京農業大学醸造学科に入学が決まった正月に私は息子を大阪の二泊三日の旅に誘った。

 

息子が吉本芸人になりたいことは私も妻も知っていた。「今度のお正月に大阪行ってさ、かつやまに吉本の本場の雰囲気を味合わせてあげたいな」との私の提案に妻も「本人が行きたいならいいけど、行くかな…」 結果「行きたい」との息子の言葉で急遽の予約でホテルを二部屋取り車で大阪に向かった。当時の車は歴代の愛車でもかなり気に入っていた真っ赤なHONDAオデッセイアブソルートの4WDで、家族では【RED~レッド】と呼んでいた。

家を出てから大阪に着くまで息子はひたすら寝ていた。この車にはナビが無くiPadのグーグルマップでなんとか大阪のアークホテルに到着した。

 

HONDAの低重心の考え方はこの三代目Odysseyでさらに加速するがセールスには結ばなかったらしい。 私は初代、三代目を乗って今も五代目を乗っているが運転が面白いのは三代目アブソルート4WD

息子は妻に体型が似た。手足が長く。洋服が似合う。息子のREDWINGのアイリッシュセッターは原宿の直営店で購入した。スニーカー好きの息子はほとんどブーツを履かない。この頃は嫌々履いていたのだろう…

 

2013年1月2日大阪。日没前に到着するや親子共々初めての大阪の街に繰り出した。吉本芸人ゆかりのお好み焼きの店に入ってみた。そこは私好みの昭和の世界だった。

 

行き当たりばったり旅の一発目の食事がファンキーなお好み焼き屋さん。芸人のサインだらけの店内。

この店は現在の巴座本社と共通する昭和を懐かしむ世界がある。

吉本芸人のサインをカメラに収める息子かつやま。芸人になる覚悟がまだできていない頃。

妻が撮った私と息子の貴重な食事の写真。会話というより私の話しを少しだるそうに聞く普通の高校生の図式。

このショットでモデルを変え何回か撮影している。暗かったので編集で明るくしたが、高校生のわりには親の言う通りのポージングをしているあたりは息子らしい。

中川れいじの漫才に出てきそうな酔っ払いのオッサンがうようよいて、煙草や缶の投げ捨てられた汚い道の大阪。

 

私は大阪に行きたかったわけではない。同じ関西なら正月は京都や神戸に行きたい趣向の人間である。要は親バカなので息子が喜ぶかと思い大阪行きを思いついたのである。高校2年生、3年生と【佳津山杉本のすべらない話し】という並みの高校生なら出来ない企画を2年続けて制作した。考えたのは息子で息子の高校の仲間や教師までが協力してくれ、農大二校や早稲田ゼミナールで撮影を行い膨大なビデオフィルムを私が編集した。この息子の本気の企画に私は喜んで協力した。この大阪旅行は【佳津山杉本のすべらない話2 部活対抗戦】の撮影が終わり編集に入る前の段階の頃だったので私は『大学は受かったが吉本に入りたいのでは….』と良く妻と話している時期だったので頼まれてもいないのに吉本の聖地に息子を誘ったのである。

 

高校3年時制作の【佳津山杉本のすべらない話 部活対抗戦】1時間20分。この写真をBlu-ray版20枚、DVD100枚のジャケットに使用した。

【佳津山杉本のすべらない話】の映像の一コマ。この日の撮影のために急遽HDビデオカメラを購入した。農大二校の学ランを織り込んで背広に見立てた。メンバー全員のネクタイは全て私の私物である。このネクタイで先日放映された【ガキ使】の初出演も果たした。

この撮影に協力してくれた学友の皆様に今でも親として心から感謝している。

息子はこの後に制作された【佳津山杉本のすべらない話話2 部活対抗戦】が気に入っててこのDVDを黒歴史のように言うが私はこの作品のほうが笑える。

農大二校の親御さんたちから「吉本に送るべき」「フジTVにおくるべき」とたくさんの反響をいただいた。この記念すべき第一作目はDVDは50枚から100枚の間コピーしたように覚えている。

 

 

息子は大学1年の前期試験の前に家に帰ってきた。その日は長女も次女もたまたま全員家にいた。少し緊張しながら「あのさ。俺。吉本のNSCに入りたいんだ。」 息子は緊張からか胃酸のような酸っぱい匂いが口から出ていた。眼球の動きも落ち着かない。その息子の決意を私はリラックスして聞いていた。格別驚きもしなかったし、やっと話す気になったんだなとだけ思った。

 

「You やっちゃいなよ」と、ジャニーズ社長にあやかって息子に言うと、妻と娘たちは微笑み、息子は驚きと緊張の混ざった顔をした。息子は反対されるとでも思っていたのだろうか…だとしたら息子は私の性格や考えを理解していなっかったという事だ。息子は小さいときから、いつも不安げな顔をして私を見ていた。彼の常識に私が当てはまらなかったのだと思う。

 

「でもさ….大学の入学金や授業料払ってもらったし…」などと吉本に入りたいと言ったその同じ口が、困った顔をしてウダウダと元気のない声で言うのである。

「気にするな。それよりそう決意したのならすぐに大学を辞めて今日から芸人として学び生きろ」と言うと「来週から試験がある」とこの期に及んでまだ御託(ごたく)を述べるの息子に妻が「時間の無駄。決まったなら前に進む。以上」と告げた。もちろん大学や農大二校にきちんと自分で将来の夢や希望や感謝を伝えてくるようにとは親として指導はした。

 

吉本興行の養成所NSCに入る入学金を自分で貯めるとかなんとか色々と真面目人間らしいことを話していたがその辺は私は覚えていない。その翌年、NSCに入った息子はその年の8月にイギリス旅行から帰国したばかりの成田空港にいる私と妻に話しがあると連絡をして来た。池袋のサンシャインで時差ボケしたままで会うと以前の燃えていた瞳の息子ではなかった。そのまま高崎に連れていき翌日に話しを聞くとだ….

息子は、当時の群馬の地元大好きなガールフレンドと夏休みを満喫してよほど楽しかったのか「NSCや芸人に合っていないかも….群馬に帰って働いて結婚したい…」やら、かんやらと私と妻にあまりにダサく減滅するような言葉を並べるのであった….昨日までの楽しいイギリスの旅がドッチラケてきたし、正直がっかりした….そして、私も妻も厳しい言葉を息子に浴びせた。

「芸人になったのはお前だが、芸人の親になるのも俺たちは腹をくくった。志半ば(こころざしなかば)であきらめるな。許さない」と言うと「そう言われると思ってた….この気持ちにケリをつけるのでいったんNSCを辞めて来年また入り直して一からやります」と目が覚めたのか、私と妻に力強く約束した。

 

その翌年NSCに再入学した息子は数回コンビを解散して現在の和田ランダマイザに出会い【衝撃デリバリー】を結成した。卒業して2年目にはよくライブや舞台を夫婦で観に行っていたのだが3年目に衝撃デリバリーは【農業住みます芸人イン仙台】の企画で1年間仙台の山奥の坪沼の神社の社務所で住み込み芸人としては遠回りの道を選んだ。

仙台に行く前は貧乏芸人のふたりは痩せていたが帰ってくるころには二人とも美味しいお米の食べ過ぎでデブになっていた。

 

この拓庵思考を書いている少し前に和田ランダマイザは日テレの番組【旅猿】にサバゲーの達人として出演して東野幸治から「衝撃さん 衝撃さん」と番組内で存在感を見せていた。そして同じ週末、日テレダウンタウンの冠番組【ガキ使】にコンビで出演した。

雲の上の人の御前試合。きっと緊張していたのだろうな….

 

 

昨年のTBS【お笑いの日】、昨年末のフジテレビ【細かすぎて伝わらないモノマネ】などダウンタウン、石橋貴明、つるべ師匠などと同じ画面に出ている息子を観て私は不思議と冷静に観ていた。もちろん凄く親としては嬉しいのだが『まだまだこんなもんじゃない』とも思うのである。高校2年の時に【佳津山杉本のすべらない話】のラフ映像を初めて観た日は興奮したし感動もした。高校時代の息子のほうが今よりも輝いて見える。まだ息子は駆け出しの新米だ。芸人5年目で有名番組に出させていただき光栄なことだが、ヒット曲の無いミュージシャンと同じでいつかは『衝撃デリバリーもかつやま知ってる』と子供やお茶の間の方々に言われたとき….私は本当に腹をくくって芸人の親になったことを喜びたいと思っている。

とんねるず貴さんは大きい人だったそうだな。群馬県の先輩芸人の好意で出演させていただいたそうだ。

ゴールデンタイムでの堂々としたネタはあっぱれあっぱれ。

つるべ師匠の温かい眼差しが親として嬉しい。

この後、相方の和田が暴走。浜ちゃんに目をつけられた….

TV観てたらいきなり息子が出て思わず動画を写した。

大先輩の前でもまったく緊張しないようで…面白いコンビで良し。

 

 

あの日、なんばグランド花月でダウンタウンの着ぐるみと並んだ息子が、憧れのダウンタウンと番組に出ている光景が本当に実現した。しかも高校2年の時から貸してある私のドリス・ヴァン・ノッテンのネクタイを締めて出ているのである。そのネクタイは私のお気に入りであった。息子の七五三の撮影に合わせて購入したものだったが、その撮影の日と小学校の入学式の日そのネクタイを私は締めることはなかった….

 

息子と私のツーショットはあまりない。私が写真を撮られるのが嫌いだからなのだが、先日ハードディスクの写真を整理したら息子の小学校の入学式の写真と卒業式の写真が出てきた。私と息子の写真のフォルダには【かつやまとお父さん】と書いてあった。

オニツカタイガーのブレザーを銀座に買いに行った。誰とも似てほしくなかったので。パンツはブーツカットにした。

20年前の私と息子。

 

さきほど嬉しいメールが届いた。『はじめての単独ライブ決まったわ! 4月13日! 配信もありにするから』とあった。

ほう…嬉しいではないか….【かつやまのお父さん】は、とても嬉しい。ワクワクしてきた….

 

 

【かつやまのお父さん】  完

 


尾札部町のサトウシゲキ君

2021-01-28 18:13:54 | 日記・エッセイ・コラム

サトウシゲキ君の家を探しに尾札部町にレンタカーを走らせた。

 

高校の同級生でギターを演奏する彼は私のギター・ヒーローであった….

 

尾札部昆布は天然もので近隣の海は養殖の昆布。海の堺は見えないが…不思議だ。

 

私の高校は函館近郊からの下宿生も多く、シゲキ君は当時の南茅部の尾札部(おさつべ)町から来ていた。彼の下宿は高校の帰り道にあり、私の家からもさほど離れていなかったので同じクラスになった高校2年の時は毎日のように行き来していた。

 

巴座本社の傍の【馳走なか川】も使用する尾札部昆布。「宮内庁と関西方面に送っている」とシゲキ君のお父さんが語っていた….

 

シゲキ君の名前は佐藤茂樹。私は「しげき」と呼び捨てしていた。彼もまた「たぐ(たく)」と呼んでいた。

 

私の母はことのほかシゲキ君を可愛がった。うちの[母あるある]の相手の家柄や親を見て態度を変えるのではなく、愛想がよく挨拶や礼儀正しい佐藤茂樹少年を心から「シゲキ君だら(シゲキ君は)いい子だべさ」と言って「晩御飯食べていぎな(いきな)さい」と張り切って手料理をふるまった。

 

「おばさんの料理だら(料理は)なまらうまくてたまげます(すごく美味しくて驚きます)」などとシゲキ君が目を輝かせて話すものだから、いよいよ母のシゲキ君に出す料理も凝りだしてきた。そんな折、シゲキ君のお父さんが私の家に訪ねてきた。

初代HONDA LIFEたしかこれかN360の4ドアに乗っていた佐藤茂樹君のお父さん。車も外見も地味な人だったがシゲキ君には高額なギターをばんばん買い与えていた。

 

「お世話になります」シゲキ君の面影がある良く日焼けしたオールバックの眼光するどい紳士が玄関に立っていた。背丈より大きめサイズのグレーのブレザーに丈が短めの紺色のズボン。南茅部の訛り(なまり)を出さないように「息子がお世話になっています。ありがとうございます。」と母に話すシゲキ君のお父さんの姿勢があまりに良いので母は明らかに緊張して「なんも。なんも。(いえいえ)」とばかり連呼している。

 

シゲキ君のお父さんが静かに「これわだし(わたし)のところの漁業組合の昆布です」とかの、尾札部昆布を母に渡した。母も私もこの昆布の価値をまだ知らない….シゲキ君のお父さんは尾札部漁業組合の助役をしていたと記憶していたが…40年以上も前のことで定かではない。尾札部昆布はプレミアムな昆布で超一流ブランドな一品である。私と妻の大好きな日本料理のお店の【馳走なか川】の店主は大阪で修行していたので当然のごとく尾札部昆布でダシをとる。シゲキ君のお父さんが「尾札部昆布は大阪にごっそりいぐんだわ(行くんだよね)」と言ってたことを【馳走なか川】に行くたび思い出す。

 

 

尾札部や南茅部を舞台にした小説を映画化したのが2004年公開の【海猫】である。

伊東美咲を採用したのは原作のイメージが近かったのか….演技はイマイチな伊東美咲だが体当たりで頑張ったのも監督の指導がよかったのかな…

本当の函館近郊の漁師は真っ黒に日焼けしてかつ細マッチョも多い。おまけにイケメンも多く佐藤浩市はぴったり。

仲村トオルは大根役者のようで、たまに凄い役者に見える。この作品は微妙に前者の方かな…

函館近郊の漁村の磯船。子供の頃、椴法華町に嫁いだ叔母の漁師家族に何回も載せてもらった。けっこうな沖で野生のイルカに船を転覆させられそうになった怖い経験もある拓庵少年。

 

原作は谷村志穂で2002年の第10回島清恋愛文学賞を受賞している、監督は、函館を愛し函館を舞台にした数々の作品を残した森田芳光。当時内容よりも伊東美咲の濃厚な濡れ場が話題になった。主題歌は函館生まれ育ちのGREYのTAKUROの書下ろし【冬のエトランジェ】をMISIAが唄った。後にGREY自身もLIVE音源で披露している。

 

森田芳光監督は函館や函館近郊を舞台に4本作品を残している。森田芳光監督の有名な作品は1983年、松田優作主演の【家族ゲーム】。テレビでも何度も放送されたシニカルでバイオレンスでかつ笑えるブラックコメディー映画である。その他のヒット作は、薬師丸ひろ子主演【メイン・テーマ】、とんねるず【そろばんずく】、渡辺淳一のベストセラー【失楽園】、中居正広【模倣犯】(サスペンスを期待した原作ファンの怒りを買った)、ヒットはしなかったが私が驚いたのは黒澤明監督の【椿三十郎】のリメイク(三船敏郎の役を織田裕二が演じた)して大コケもした。黒澤明の作品を完全リメイクするとは世の中の批判を跳ね返す自信があったのだろうか。遺作は2012年瑛太と松山ケンイチ主演【僕達急行A列車で行こう】。C型肝炎による急性肝不全で61歳で他界している。

 

【海猫】は函館弁というか南茅部あたりの津軽弁も混じる浜(はま)言葉を佐藤浩市は饒舌に演じている。仲村トオルのなまりは全くダメだが東京の人が観たら違和感はないだろう。私の当時観た印象は、蒼井優の演技が良かったこと。2019年作品 中野量太監督 中島京子原作の【長いお別れ】の蒼井優も素晴らしい演技で私は感動した。原作は読んでいないが素晴らしい演出とカメラワーク。父親役の山崎務はいつも素晴らしい演技だが、次女役の蒼井優との応酬がとにかく良い。ちなみに長女役の竹内結子の演技が山崎務と蒼井優に比べ役者としての力量不足に感じたのは私の偏見だろうか….

シドニー行きの飛行機で涙して観た【長いお別れ】。光テレビで録画出来たので大画面で妻と観ることにしよう。

 

函館のマルハニチロのニチロビルディングには【cafe&deli MARUSEN】というカフェレストランがある。その中に函館を愛し函館を舞台にした作品を残した映画監督・森田芳光のメモリアルスペースがある。2020年11月12日に母と入ってみた。貴重な森田芳光監督の資料がたくさん展示していた….私の父はマルハニチロの前身 日露漁業の船乗りだった。学の無い父は努力して機関長というポジションで長い海外での捕獲航路を選んだ。なので私は父と暮らした記憶はあまり無い。その日、ニチロビルの昔のままのトイレに入り、一階ホールのR(アール)階段を見て昔の父との忘れていた記憶が蘇った。

 

父が苦悩していた時期がある。その時期の父は酒を呑んでは泥酔したり、母や姉に暴力をふるっては母を泣かせた。この話しは、また別の機会に丁寧に書くことにする。

 

マルハニチロのニチロビルディング。昔の呼び名は日露漁業。私の父も在籍した。父はこのビルで解雇を言い渡された。

 

父は日露漁業を解雇された後、その日露の紹介で小さい船会社に入った。オーストラリアやニュージーランドに漁獲するために長く洋上にいる生活は変わらなかった。そんな父が私とシゲキ君の学園祭での体育館でのLIVEを観に来たくだりは2018年11月22日にこの拓庵思考で書いた【海峡を越えて~『peeps hakodate』と『ピグノーズ・ギター』と号泣の『ボヘミアン・ラプソディ』】編にも記述したのだが、その学園祭にえらく感動した父はバンドメンバーを家に呼び自ら蟹を茹でて、食べやすいように振る舞ってくれたりお寿司をたくさん出前してくれたり、それはもうご機嫌だった。エレキギターを買うのに反対し、津軽三味線や演歌しか聴かない父の心を動かすほど、シゲキ君のギターソロや歌声や息子である私のスライドギターが良かったのか….そりゃそうだ。私も神保町花月や無限大ホールの息子のLIVEを見た帰りに、息子たちに会うと「飯食えな」と言って数万円渡すことがある。何故なら嬉しいからだ。父も今の私と同じ気持ちだったのだろう。

 

母の話しでは数年前に、シゲキ君が福祉の仕事で体の不自由な人たちを引率して温泉に来ているときに会ったそうだ。高校を卒業してからシゲキ君は浪人した。その後の彼の足取りはわからない。実家の住所も知らない。すっかり疎遠になり40年になるのだ。

 

「しげき君。元気がい(元気かい)」「あれ。おばさん」…と、軽く挨拶を交わしたらしいが….2019年に妻と帰省時に必ずレンタカーを借りるのだがその時はアイサイト3.5を掲載しているスバルのレヴォーグだったので遠乗りをしたくなった。「椴法華のミチコのどこ(ところ)でも、いげば(行けば)いいべさ」と母。ミチコは母の一番下の妹で函館時代は今の自由市場の北入り口の近くのお菓子屋さんで働いていた記憶がある。お世辞にも器量は良くないし、頭も悪い。北海道の南の田舎の中の田舎 椴法華と書きトドホッケと読む村(現在は函館市椴法華町)にお見合いで嫁いだ。見合い相手は高倉健の体型と髪型。顔は東映スター並みで『こんなハンサムな人がミチコおばちゃんの旦那さんになるの??』と子供ながらに驚いてぶっ飛んだ記憶がある。

 

ミチコおばちゃんの旦那様は萩野忠と書きハギノタダシと呼んだ。通称【タダシおじちゃん】である。タダシおじちゃんとシゲキ君のお父さん。シゲキ君もだが、あと南茅部近郊の木直(きなおし)町から下宿していた高校の同級生の芝井くんと小川くんも東映映画スターの風貌のイケメンというか当時の言葉で【ハンサム】だった。私は男子高だったのだが、姉の同級生のやはり函館近郊の漁村からの下宿生の女子も皆、絶世の美人だった。ハンサムなタダシおじちゃんとブサイクなミチコおばちゃんの子供は三人ともミチコおばちゃんに似てお世辞にも可愛いとは言えない容姿だった…

 

シゲキ君には妹がいて、シゲキ君と同じで歌声が素晴らしく鍵盤楽器も演奏できて音楽センスは抜群であった。シゲキ君とは顔が似ていない。どちらかというとシゲキ君が濃いめのアイヌ人のようなマスクで、そのせいか妹はサザエさんのわかめちゃん的な感じでまったく兄妹には見えなかった。これは私の姉たちにも言えることで私と全く似ていない。

レンタカーのレヴォーグで私と妻は母を乗せ「母さん川汲(かっくみ)廻って近い道できたらしいけど尾札部にシゲキ君の家探しに行こうぜ」と40年ぶりに尾札部町に向かった。レヴォーグは固い足回りだが快適ですぐに尾札部に着いたのだが、肝心のシゲキ君の家がさっぱりわからないのだ….

尾札部のバス停から少し歩き…こんな感じだったのだが….さっぱりわからず….

高校生の時は尾札部のシゲキ君の家に、このバスに乗ってギターケースを抱えて遊びに行った。

 

結局、シゲキ君の家が見つからずあきらめて長万部で毛ガニを食べようとレヴォーグを走らせた。車の中で南茅部の海や家々を見ながら母と昔話しに花が咲いた。もう一人の同級生の森町の白石田君の話の話しも出た。彼も元気かな….学習塾をやっていた時に一度訪ねたきりだ….

次姉と拓庵。入船町の長屋の前で。鎧張りの木造二階屋。二階は陽当たりが良く。次姉のしょうべん布団がいつも干してあり、ほのかにオシッコの匂いがしていた記憶がある。

 

顔が似てる似てないの話しだが…亡くなった父方の口の悪い叔父(通称ヨシおじちゃん)は「拓。お前。誰の子だ。フサちゃん浮気でもしたんじゃないか」と母に屈辱的な発言をした。私の大学1年の頃の話しだ。その叔父も私の尊敬の対象の人間ではなかった。5年ほど前に母から「ヨシおじちゃん死んだんだわ…あんた来てくれないがい」。ヨシおじちゃんは東京の竹ノ塚に住んでいたのですぐに行けるのだが、私は母に「まったく行く気はない。何故ならあんな人間に香典をあげ、合掌する気がないからだ」と言い、さらに「ヨシおじちゃは甥っ子に葬式に来てもらえないのは自業自得だ。俺の結婚式も近くにいて来れるのに来なかった。母さんのこともなめてるよ。俺は絶対行かない」と本当に葬式は欠席して、いまだに線香もあげていない。おそらく生涯ヨシおじちゃんの霊前に行くことはない。ヨシおじちゃんは父の仕送りで拓殖大学に進学した。その仕送りのせいで母はお金が無くて大変だったが、夫の弟なので仕方なく仕送りしていたある日、ヨシおじちゃんの東京の下宿先から「家賃を払ってください」と母に手紙が来たそうだ。

 

電話がない時代は手紙や電報で事実を知ることが多かった。驚いた父と母は東京のヨシおじちゃんの下宿に行くと、麻雀で負けて、こたつ布団に下着だけでくるまっているみじめな弟の姿があったそうだ….私の生まれる以前の話しらしい。父は随分とがっかりしたらしいが、なけなしのお金で下宿代を清算して服も買い与えたそうだが、お金がなくなり、ご飯を食べれず幼い姉たちはワンワン泣いて母は心底この父の弟を恨んだそうだ。だったらこの弟は兄の嫁のことを「浮気したんじゃねえか」などと言ってはならない。結果、最期は口がきけなくなる病で亡くなったそうだ….因果な話しだ….

 

ヨシおじちゃんが私の高校の時に、イトーヨーカ堂の警備本部で少し偉くなっていたようで函館郊外の新店舗出店で来ていたときにギターケースを抱えていた私とシゲキ君を軽蔑したまなざしで見ながら「そんなものやって….」と小声でつぶやいた言葉を私は聴き逃さなかった。シゲキ君は性格が善いので気にしていなかった様子だった。「拓。お前。ちゃんと勉強してんのか!しっかり勉強して、いい大学は入れ!」と言い5千円か1万円を出し「俺は兄さんに世話になったからな。お前に返す」と本当に苦労させた母の前で偉そうに私にもったいぶってお金をくれたのだった。

 

2020年11月12日このニチロビルディングのカフェレストラン【MARUSEN】の森田芳光メモリアルスペースに一番近い席で期待したほど美味しくはない珈琲を飲みながら母に「ヨシおじちゃんの葬式に行かなかったのはさ….」と、大学時代毎回会うたびに言われた「拓。お前は誰の子だ」の話しを初めて話した。母はさほど嫌な顔もせず聞き流していた。「あんたは昔っから お父さんにもあだし(わたし)にも似でないっていわれでだ(言われてた)から…..」と普通に話す母。「母さん。この日露のビルに父さん呼ばれてさ、クビになったでしょ?俺そんとき(その時)いたんだよ」と話したときのほうが驚いていた。「日露のビルから出てさ。怖い顔して真っ直ぐ市役所の方に向かって歩きだしたんだ….」と話すと母は「うそ…なんであんたがいたの?さ….」

 

正直、私も還暦になり記憶が曖昧になっているが、そんな大変な日に松風町で父からレコードを買ってもらった。何を買ったかはもう覚えていない。映画のサウンドトラックか、映画主題曲集だったか….父が日露から呼び出され電話の受け答えの顔を見て嫌な予感がしたので、父が心配になり勝手に父に「俺も一緒に行く」と言うと父は「おお。」と一緒に出掛けた。駒場車庫前の電停から市電に乗りどこで降りたかは覚えていない。とにかく私は日露ビルの一階で父を待っていた。

函館の現在の松風町。シゲキ君とこの前の森文化堂で良く立ち読みをした。赤帽の路地を入るとレコード屋さんがあったような記憶がある。そこで父にレコードを買ってもらった。

松風町電停の並びには東映があり【仁義なき戦い】を観た。シゲキ君とギターケースを抱えYAMAHAのスタジオへ練習にいった。

 

シゲキ君はギターの神のようにギターの達人であった。

 

当時のギターの神はエリック・クラプトンではない。早弾きができなければならない。クラプトンはそんなに早く弾かない。ギター少年がコピーすることをあきらめるほど絶望的なテクニックのギタリストが真の神なのである。で、神は誰か。それはラリー・カールトン(クルセイダーズ脱退後) ジェフ・ベック(BBA時代 ベック・ボガード・アピス) チャー(デビュー当時)の三人である。

ギターの殿堂入り曲の【Room335】を高校生のシゲキ君は余裕で弾けた。私はいまだに全部は弾けない。

【スモーキー】はシゲキ君の得意曲。男子校の卒業生を送る会でこの曲をシゲキ君が弾くと不良の先輩たちも黙って聴いた。私もそのバンドのメンバーだったがリズムを取るのがやっとだった…

チャーもコピーしていまだに弾いている【ジェフズ・ブギ】は難曲中の難曲。シゲキ君はいとも簡単にコピーした。私は目の前でシゲキ君の指使いを凝視するしかなかった….

 

松風町や大門広小路には当時YAMAHAのスタジオがあり、楽器もたくさん販売していた。私のフェルナンデスのハーフトーン5スイッチのオールドモデルのストラトキャスターもここで買った。シゲキ君もヤマハの最新型のギターを買った。シゲキ君はさらにラリー・カールトンやリー・リトナーや大村憲司などが使うGibson(ギブソン)社ES-335をお父さんから買ってもらった….グレコやYAMAHAのコピーではない本物だった。安くても30万円は、くだらない当時のES-335を高校生のシゲキ君は買ってもらったというより、弾けるテクニックを持っていた。

 

尾札部の漁業組合はお給料が高いのかなあ….と高校生の私はいつも考えていた。シゲキ君のお父さんは小さい車でいつも同じ格好をしているがドカーんと買う。かっこいい。さらにFender(フェンダー)社のテレキャスターもシゲキ君に買い与えたのだ….私は父に反対され雪の中、郵便配達をしてお年玉も加えてやっとの思いで7万円を貯めてのフェルナンデス社のコピーのストラトを買ったのだった…..私のストラトはアメリカ製のブースターを輸入して、函館の田家町にあった【ホワイトルーム】スタジオで付けてもらったがその後壊れて何十年もの間、車庫で弾かずに放置されていた。

2019年。館林のギター工房で私のストラトは40年の時空を超えリペアで蘇った。しかもエリック・クラプトンの【レイラ】のブラウニー仕様にダメージ塗装も施した。リペア代は買った当時の金額を超えた。 最高に満足で、今は弾かずに巴座プロテインBARに飾ってあるが誰も興味が無いのか、何も言わない。

 

当時の面影が全く無いまるきん。

あまり値上げしていない努力は素晴らしい。高校時代の値段に比べてだが…

 

まるきんの焼きそばの肉大をYAMAHAのスタジオの練習のときによく食べた。8年前に訪ねて食べたがまったく感動はしなかったが青春の思い出でである。今回の帰省で訪れてみたが定休日であった。シゲキ君とは喫茶店でスパゲティナポリタンやカレーライス、和光デパートやサイカデパートの地下でラーメンも良く食べた。函館市民体育館の当時あった五島軒のAランチやBランチも好きだったな….

ストリップ劇場のフランス座のあった場所

このあたりにYAMAHAのスタジオがあったのだが….

 

フランス座というストリップ劇場が、日活ロマンポルノの劇場の同じ通りにあり、焼きそばまるきんは日活の裏手にあった。フランス座の前を東に向かい左に曲がるとYAMAHAのスタジオがあった。スタジオは歩道に面していて。私の長姉も良く歩道から私とシゲキ君のバンドの練習を見に来た。たまに女子高生も見にきていたがシゲキ君のファンがほとんどだった。私はシゲキ君と一緒に演奏できることが何より幸せだった。なにせギターの神が目の前で弾いているのだから….

 

昔の函館の同級生に連絡をとるすべが無いのは、私が故郷の友人を大切に思っていなかったからだと思う。還暦になり、人生に余裕が出て、かつ歳を取り昔が懐かしくなったのだと恥ずかしながら認める…

 

だからシゲキ君に、このブログを通して手紙を書いてみることにする。では以下に続く。

 

 

『  佐藤茂樹君お元気ですか?

おじさんとおばさんはご健在ですか?

私は群馬県の高崎市で一緒にマーティン・スコセッシ監督のザ・バンドの【ラスト・ワルツ】を観た巴座の冠を頂いた名前の会社を経営しています。

妻はとても優しい女性で私にとっては世界一の美しい人です。一般的には普通の顔ですが妻はスタイルがクラプトンの【E・C Was Here】のジャケットのくびれたボディのモデルの女性と同じスタイルの日本人ばなれした体系で、とてもオシャレでパリの街やニューヨークの摩天楼でも絵になる自慢の妻です。

子供は三人授かりました。末っ子長男の息子は5年目の吉本芸人で【衝撃デリバリー】の杉本佳津山(すぎもと かつやま)と言います。最近テレビにちょこちょこ出ていますよ。次女は私の面白い性格や感性が似ていて二児の母で、私の会社で広報を担当しています。長女は真面目ですが二児でバツイチです。

ブリティッシュ・ショートヘアの雄と雌の猫ちゃんが二匹いて、もう めんこくてめんこくて猫ちゃんたちのためにキャンピングカーを買いました。そのうち函館に猫たちとキャンピングカーで遊びにいきます。

私は相変わらずROCKを聴いています。私の会社巴座では音楽堂という部屋があり朝から夜までJAZZやフュージョン音楽が流れています。高校生の時、買えなかったギターも腹いっぱい買いました。実はこの3年で12本も買いました。

弾かないで飾ってうっとりしながら見つめています。ショーケースに入っていたギターが自分のものになりました。幸せです。茂樹はギターまだ弾いてるの?

俺さ、昔よりうまくなったわワ。レイラも335もリフが弾けるようになったよ。スライドは下手になったな….デレク・トラックス観に行ったよ凄かったわ….感動してGibsonの本物のSG買ったんだよ。ミーハーだよな。

セミアコはGibsonでは無くアイバニーズ買ったよ。ジョージ・ベンソンもアイバニーズだし、昔はイバニーズって呼んだよね。セミアコは難しいけどいい音するワ。セミアコの練習でアコギ買ったらハマってしまってマーチンよりいい音する九州の久留米のアストリアス・ギターの大戦前モデル買ったらそればっかり弾いてるよ。妻が毎晩聴いてくれるんだ

『パパ上手ねー』って褒めてくれるからさ、嬉しくて張り切って弾いているよ。母さんは、嫌な顔して俺のギター弾くの見てたよなあ…

茂樹。俺、本当に高校のときよりうまくなったよ。また会って演奏しよう。耳も衰えていないよ。いつでもなんでも即興で弾けるよ。昔の俺たちの様にね….

自慢したいから俺のギターの写真見てね。本物のアメリカフェンダーのストラトも買ったんだよ。ストラトだけで3本買ったよ。アホだろ?

ジミー・ペイジのドラゴンペイントのテレキャスターも狙ってるんだ。弾かないで飾るんだ。

後、俺は60歳台のボディビル系の大会も出たいと思い、自宅にゴールドジムばりの設備入れたよ。俺さ、大学で少林寺拳法一筋でギターを捨てたんだ。でも少林寺はかなり極めてたよ。知らなかったろ?LAのゴールドジムも行き、マッスルビーチでトレーニングもしてきたんだ。結構マジなんだ。

今はお酒は飲まず、タバコも吸わず、ギャンブルもせず、ゴルフもせず、妻と一緒の会社で朝から晩まで一緒にいて、帰宅してからもずっと一緒にいます。俺的には、とても幸せな毎日です。

この40年間でうまくいかないときもたくさんありましたよ。でも妻がいるから一緒に頑張ってこられました。これからの人生は、いろいろな恩返しをしていきたいと思っています。

茂樹。元気ですか。

茂樹。いつか会おう。今どこにいるかもわからないけど。また会おう。

俺の自慢の妻と会ってほしいからさ。

うちの母さんまだまだ元気で、しっかりとボケないで生きてるよ。今年90歳になる。遅ればせながら親孝行でちょこちょこ帰ることにしたからさ、もし会えたらさ、ギター弾こうぜ。サウンド・パパでスタジオ借りてさドラムやベースも誰か入れてセッションしたいよね。延々とブルースを30分くらいジャムってさあ。クラプトンとオールマン・ブラザース・バンドの未発表テイク集みたいにさ。聴いたことあるか?すごいよ。カール・レイドルのベース盤も聴いたよ。最高だった。

懐かしいから、まるきん焼きそばも行こうか。3年前にコイケカレー食ったよ。昔と同じだった。美味かった。しばらく口の中にカレーの味が残ってた。今、コイケの息子のニセコイケカレーもあるんだね。騙されそうになったワ….

高校のときさぁ、カリフォルニア・ベイビーで俺がタバコ吸ってさ、シスコライス食べてる途中で追い出されたな…あれは、俺が悪かった。ごめんな。カリベビで結局、シスコライス食っていないけど今度こそ食べよう。楽しみだな…..

茂樹。必ず会おう。

せば。せばな。この言葉40年ぶりに使ったよ。函館人の言葉だよな。

いつか必ず会えることを祈って。

拓       合掌    』

 

 

 

 

YAMAHAの小さいモデル。

エピフォンのレス・ポールと中国生産のフェンダー・スクワイヤのテレキャスター

アイバニーズのセミアコ。フェンダーUSAの最新のストラト。メキシコフェンダーのパワーキャスター。

アストリアスのDプレ・ウォー。マーチンD45の第二次大戦前モデル。最高の音色にしびれる。現行のマーチンよりはるかにイイ。

エフェクターも随分買ったがまったく使わない。ブルースにはいらないよね….

 

【尾札部町のサトウシゲキ君】  完


じじちゃんの馬の入れ墨~港町はこだてブルース

2021-01-21 18:10:23 | 日記・エッセイ・コラム

じじちゃんの左の腕には入れ墨が入っていた。【じじちゃん】とは私の母方の祖父で函館で船乗りをしていたらしいが、4歳くらいからの記憶では昼間っから酒を飲んでるふしだらな人だった.

函館ドッグの港から父の船出を泣きながらみつめる拓庵少年(3歳)とじじちゃん。ケンカをしたのかいつも眼帯をして酒臭い人だった….

 

【山田三治】と書き【ヤマダサンジ】と読む。麦わらの一味のサンジと名前だけ一緒だ。昔の小学校の土曜日は4時間授業で給食は出ない。お昼の家ご飯が嬉しくて急いで帰宅すると、じじちゃんが日本酒のコップを持ちニヤリとして孫の私に「お帰り」や「大きくなったな」もいわずにじーっと見てるのだ。母に「かあさん!早くメシ!」と今思えば麦わらのルフィがサンジに言うようなセリフ「おおー!うめ~!」「もっと食わせろ!」を連呼する大食漢な小学生であったので当然土曜日は空腹マックスなのだが、じじちゃんが来ている日は母がいつもの母ではないのだ。

 

じじちゃんの酒のつまみをせっせと作り私の昼めしは作ってないのである。クソガキな拓庵少年は「はやくしろッ!おせーよ!」とわめくのだが、じじちゃんは母に吠える私をつまみにニヤケて酒を呑んでいるのだ…下水道になる以前の函館は汲み取り式でバキュームカーを見るのは日常であった。汲み取り時代の便所はトイレとは呼称したくないような世界で、寒い冬の毛糸セーターに大便やアンモニアの臭いは強烈に服に付く。当然小便器のオシッコの臭いも残る。じじちゃんが日本酒を吞むときと父や叔父さんたちが日本酒を呑むときの便所はアンモニア臭で鼻が曲がりそうになる。だから大人になったら日本酒を呑む人間にはなりたくなかったが、大学の体育会少林寺拳法部であった私は19歳から21歳までは【剣菱(けんびし)】という日本酒を強制的に吞まされることになるのだが….

 

巴座本社のある高崎市和田町は古い下水道計画の名残なのか、排水勾配を計算できなかった当時の水道設備業者の知識が浅かったのかよく下水がつまるのである。私は巴座本社の下水のつまりをときたま直す。つまりウンコの山やトイレットペーパーの山のつまりを見ながら長い棒で押し出しホースやバケツで水を流し詰まりを直すのだが、お隣りさんや二軒先の排水も詰まっているので何も言わず直すことにしている。今の若い人は汲み取り便所を知らないのでおそらくウンコの山を見て気持ち悪くなるだろう….函館入船町の函館山がよく見える港近くの長屋の共同便所は外にあった。冬は凍れて(しばれて)外に出たくないのでオシッコをしたくても我慢した。次姉は二日置きに寝小便をして、姉の布団に入るとオシッコ臭かったなぁ….

長屋の共同外便所 拓庵4歳(かな)便器の穴の下に大便や血・茶色のちり紙の山だったな….

1964年頃の正月。父の足元は雪用の下駄。姉も私もタイツの下にももひきをはいている。母は私にだけ丸井今井デパートの服を着せて、姉たちの服は編み機で編んだもの。母は私を格別にひいきして育てた。

2020年11月12日に函館に帰省した際に入船町長屋に行ってみた。長屋は解体されていたが私が毎日座ったこの船を縛るボラード(係柱~けいちゅう)は健在だった。

 

母はじじちゃんにとっては初子で可愛くて仕方がないようだった。午年(うまどし)生まれでサンジだから走る三頭の馬の入れ墨を左腕に入れたそうだ。全力で走っている競馬のゴール直前のムチをいれられて飛んでいるかのような駆けている馬の絵だった。母いわく「いきがって入れたんだべさ」…..どう考えても苦しい言い訳だと保育園児の年少の頃から思っていた。私は函館の入船町のイカ釣り船の港まで徒歩30秒という貧相な長屋で育ったので毎日船乗りさんを見てきたが、入れ墨を入れていた大人はほとんどいなかった….だからじじちゃんのことは4歳ころから軽蔑していた。入れ墨のことは小学生になり銭湯に行って判明した。軽蔑の理由はその人間性にあった。そして遊んでもらったことも、お小遣いももらったことはない。

 

妻のばばちゃんは入船町の港の前のイカの塩辛の水産加工場で働いていた。印象といえばいつもネッチョリした目ヤニがついていて強烈なイカの塩辛臭がした。それでも「たっこちゃん。たっこちゃん(拓ちゃん 拓ちゃん)」といい始めての男の子の孫の私に幼少期から死ぬ直前までお小遣いを渡してくれた。私と妻の結婚式に函館の浜育ちのイカの臭いのばばちゃんが東京渋谷のど真ん中に降り立ち私を見て「いや~立派になったべさ」と嬉しくて泣いていた….妻のことは「ねえさん。ねえさん。たっこちゃんのことよろしぐな」と妻の手を取り拝んでいた….ばばちゃんは私にとってのタニマチなのでなんでもねだって買ってもらった。じじちゃんは銭湯で「カツゲン買って」といっても無視してひとりで先に帰るような人間だった….ちなみにカツゲンとは北海道ローカルのヤクルトの前進のような乳酸菌ドリンクである。

松田聖子音楽の最高傑作【ユートピア】1983年6月1日発売。発売日に函館玉光堂でLPレコードを購入したな…

ヤクザな父と無教養で働き者の母の元に生まれた私の母の旧姓は山田フサ子という。そう私の母さんである。現在89歳で頭はすこぶる元気である。母には入れ墨の父のほかにアル中の弟もいた。このアルコール依存中毒症の叔父のことを【しげるおじちゃん】と呼んでいたがこの弟には母は実に厳しく接していた。私の母は人を見てつきあいを変える傾向があり、かく言う私の最愛の妻が大学3年生の時、初めて函館の地に着いた折に当時流行っていた松田聖子のアルバム【ユートピア】のジャケットの髪型(ブロンド色)で家に連れ行き紹介するとだ、なんと母はじろっと風紀委員の先生みたいな偏見に満ちた目で妻を上から下まで目で軽視のレーザービームを浴びせたのである…..よくもまあ入れ墨の父とアル中の弟とイカ臭でネッチョリ目くその母を持つ身分で人を軽視するもんだと思う。ちなみに後に母は妻の教養あふれる両親と会いコロッと態度を改め、今では「ゆうこちゃんの贈り物はセンスよくてみんなにほめられるべさ」とぬかしている。

 

横道をそれるが松田聖子の名盤【ユートピア】はCBSソニーのらつ腕プロデユーサーM. Wakamatsuの傑作で、アレンジは大村雅郎・細野晴臣・瀬尾一三・松任谷正隆。ギターは私の崇拝する松原正樹をメインに名曲【マイアミ午前5時】では今剛のツインギター、太いベースは美久月千晴、ドラムを島村英二など当時の音楽の志の高さが現代でも私の耳を魅了する。

 

ヒット曲【天国のキッス】はギターの鈴木茂の唯我独尊の奏法・細野晴臣のベーシストとしての本気・音楽家としての狂気の世界で構成されているがアイドルでもあった松田聖子の音楽が高度であるとはミュージシャンしかわからない世界であろう…【ユートピア】の人気曲は【セイシエルの夕陽】【秘密の花園】【天国のキッス】【マイアミ午前5時】だが、拓庵思考としては【赤い靴のバレリーナ】を2020年紅白歌合戦でも披露された【瑠璃色の地球】と匹敵する名曲として拓庵プレイリストの殿堂入りに認定している。この佳曲【赤い靴のバレリーナ】作詞松本隆・作曲甲斐よしひろ・編曲瀬尾一三 甲斐よしひろ自身がセルフカバーしているそうだが私は聴く予定はない。この曲はアコギの神であられる吉川忠英先生が至高の演奏。松原正樹先生のギターこれまたやばく…数年前にSONYのハイレゾ版を聴いたが弦を抑える左指と右手の妙はゾクゾクしたものだ….この【ユートピア】をレコードステレオからカセットの録音して当時の私の愛車のISUZUピアッツァに後付けしたクラリオンのカーコンポで大音量で再生しながら【はこだて午後23時】にひとりで狭い函館市内を延々とドライブしたっけな…..サンミュージックに所属していた時代の松田聖子のアルバムは初期の二枚以外はアイドルの音楽ではなく、へたなJ-POPアルバムより秀逸。サンミュージックを退社した後の、松田聖子音楽はただの松田聖子の自己満足音楽でよほどのファンでない限り【お耳汚し】とはこのことである。

 

妻は私が大学卒業した年に函館に来てくれた。当時妻は大学3年だった。その翌年大学4年の妻は私のお嫁さんになった。妻の父が理解の善い方というか深い愛情と考察の末、大学生だった一人っ子の妻との結婚を快諾してくれた。「結婚させてください」妻の母の顔はひきつっていた….そして妻の父は笑顔の和装姿で若造の私に折り目正しく「拓君のような素晴らしい人と結婚できて幸せだ」との言葉をくれた。私はこの時に妻を死ぬまで愛し幸せにすると自分に約束した。もちろん60歳になった今も私は妻を死ぬほど愛している。

 

妻の高崎市立佐野小学校低学年と思われる写真。妻の父は顔良し・頭超良し・性格これまた良し。かつ紳士で私は義父の喪主を務めた。26歳の暴れん坊の婿を自社の社長に任命した勝負師の義父。会社を興す前は沖電気の設計士だった。私が設計ができる建築家になったことを知ったら喜んでくれるだろう….

1966年の大沼公園で母と。湯の川カトリック幼稚園は駒場町の私の家の目の前にあった。母は背伸びして私をこのカトリック幼稚園に入船保育園から編入させた。私はいつもブレザーを着てスリッポンをはいている。母の私への深い愛情を感じる。決して裕福な家庭ではなかったので…

 

函館の入船町の長屋育ちの拓庵少年は文教地区で公務員居住地区の駒場町に引っ越すのは入船保育園年長の時で湯の川カトリック幼稚園に編入した。『マーリア様マーリア様イエズス様のお母様~』と毎日マリア様に合掌するバラ組の園児になったのだが、家から徒歩20秒で幼稚園の門をくぐれた。

園には函館弁のシスターがうようよいた。「たぐちゃん!はんかくさいことしないの!」とよく怒られた。卒園後もシスターが窓を開けて「たぐちゃん!」と笑って「元気がい?」と声をかけてくる。【いか】【にく】を【いが】【にぐ】と濁音がつくのが函館弁で【たく】が【たぐ】になる。【たぐちゃん】となり年寄りは【たっこちゃん】と呼ぶ。

 

たぐちゃんの小学校1年の秋にじじちゃんが死んだ。

 

涙は出ない。そう一滴も出ない。悲しくもない。30代になり群馬人になり母から一本の電話がくる「たぐ。あんた。ばばちゃん死んだんだわ…葬式これるがい….」私は間髪おかず「行かない。行けないな。今度帰ったら線香あげるよ」といいすぐに電話を切った。やはり涙も出ないし悲しくもない….私がひどい孫なのか、はたまたは孫に涙をながさせないじじちゃんとばばちゃんの人徳が無いのか….

 

じじちゃんの家は、狭くボロイ二階のある借家はいつもスルメや海産物のすえた匂いがした。水道水も不味く行きたくなかったが行くと必ず平成天皇と美智子妃の結婚式の額に入った写真と阿倍仲麻呂の万葉集の句が焼き付けてあるガラスのコップを眺めた。じじちゃんの家の斜め前には大正湯があった。のちに映画にもなる、私にもっともそのフォルムと色を刷り込んだ大正時代の傑作建築物の公共銭湯である。

函館大正湯。2020年11月12日撮影。この前でよく遊んだ。銭湯にも何度か入った記憶があるが熱い湯だったな….

 

大正湯があるじじちゃんの家の西側に宮田さんという、質屋を営む蔵のある洋館があった。この家の外観と室内や家具も幼い私に強烈な影響を与えた。

建築様式はヴィクトリアン様式で蔵の漆喰は黒で相当に凝った建築であった。黒光りしている無垢の床は今思うと3センチ以上ある北海道杉かと思う。

蔵の中には昭和初期のビクター社の蓄音機もある。ステンドガラスの蛍光灯や装飾灯やシャンデリアもあった。

そこの品のよいお嫁さんは「たくちゃん」と発音して言葉も標準語だった。遊びに行くと明治製菓の発売されたばかりの新感覚キャラメルのチェルシーをくれた。当時森永のキャラメルとフルヤウインターキャラメルがはばを利かせていた中で明治製菓はイギリスの地名チェルシーのネーミングでジャケットはフラワーサイケデリックだった。考えたら明治乳業のアイスクリームもパッケージもマルチカラーのドット柄でサイケデリック・ポップだった….昔のデザイナーはかっこいい作品を世に出している。

 

 

 

じじちゃんが唯一買ってくれた記憶のある鉄人28号のおもちゃ。横山光輝氏の漫画の【鉄人28号】のフォントに興味をもち絵にタイトルやフォントを立体で描くことを覚えた。他に影響を受けた漫画は、手塚治虫の【鉄腕アトム】【ジャングル大帝】【スーパー・ジェッター】【ビッグX】のフォントもかっこいい。入舟町の長屋でばばちゃんが「たっこちゃん帳面買ってきたよ」と私があまりに絵を描くのでノート(当時は帳面と呼んだ)を大量に買ってくれた。

ウルトラマンとゴジラに夢中になる前の私のヒーロー鉄人28号。このブリキのおもちゃでいつも遊んだ

鉄腕アトムも大好きだった。4歳くらいの函館公園のお花見でアトムのお面を買ってもらった。

昭和30年代後半にしてこのフォント(字体)かっこいい!

今思うとスターウォーズのルークのランドスピーダーにそっくりだ。手塚治虫は凄いな…

ナチス兵のモチーフか…これもスターウォーズの帝国軍の服やベイダーを連想する。ルーカスは黒沢明が好きなので手塚治虫にも影響うけたかも….考えすぎかな…

2020年11月11日 函館の至宝’ラッキーピエロの目と鼻の先にコメダ珈琲登場。嬉しいけどコメダ珈琲の安っぽいレンガ張りが陳腐で函館のレンガ倉庫街の中でみじめに見えた。peepsはこだての吉田編集長は卵サンドトーストを良く食するらしい。私は小倉トーストが好きだ。

 

 

函館の建築物は私に多大なる影響を与えている。【大正湯】を筆頭に母が私の服を買いに通った十字街【丸井今井デパート】【函館公会堂】などあげたらきりがない。

函館 旧丸井今井デパート 函館は大正時代に関根要太郎が傑作を函館と川越にたくさんの偉大な建物を建築している。この丸井今井は関根風であり、私も大好きな建築物である。

大正湯。映画【ハコダテ人】監督前田哲 出演宮崎あおい 大泉洋の舞台にもなる。 映画の内容はノーコメントかな…..

函館公会堂(旧箱館奉行所)駒場小学校6年生の拓庵少年写生大会でピンク色時代の公会堂を人生で初めて真面目に描き何年も校長室に飾られたらしい。飾っていないなら返却して欲しいかな….

 

初めての北海道新幹線での帰省は2020年の11月だった。高崎から大宮までグリーン車、大宮から新北斗駅までグランクラス。グランクラスは飛行機のビジネスクラスの様な座席とサービスなのだか、私はお酒を呑まないのでコーヒーを2回お願いしたが、豆も酸化してなく美味しく頂いた。

 

新北斗駅からはレンタカー、ホテルは新築のセルフチェックインで細心の注意の元母の見舞いに行った。【東京・埼玉・札幌の方お断り】と懐かしい喫茶ハワイの張り紙を見て『ここは田舎根性丸出しの自分の帰る場所ではない』と悟った….それでも母は喜んでいる。「ホテルに泊まるよ俺」それでも母は嬉しいのである。痛いはずの足をひきずり閉店間際の誰もいない自由市場でホッケ、ニシン、カレイ、筋子を買うのを付き合ってくれた。店には入らずせめて家でご飯を食べるためだ…「毛ガニ食うか?」と尋ねると「いや~あんた…たがくて(高くて)買えないべさ….買ってくれんの?いや~嬉しいわ」とニコニコしている。

 

母がホッケを焼いている間に湯の川の生協にワインを買いに行った。雪が舞い少し子供時代に返ってた感じになった。母が好きなブドウや果物も山ほど買った。「母さんたくさん買ったから喰えよ」「いや~悪いべさ…ありがとう」台所に入ると見事に老朽化した台所であった。ここで食べ盛りの私の幼稚園年長から高校3年卒業まで大食漢のわがまま息子のメシの支度を不自由な体で頑張ってくれていたのかと思うと切なくなった…。台所にはあの、ばばちゃんやじじちゃんの家の匂いがした。スルメのすえた匂いだ….「生ごみくせえな母さん」というと「なんも。ヘルパーさんが2週間に一回ゴミ捨てしてくれるべさ」と母がいう….私の住んでいたころは味噌汁やコーヒーの香りがしていたのだが….

 

「母さん。新幹線だと大宮から4時間かかんないからチョコチョコ来るよ。嬉しいべ。だから寂しいとか人にこぼすなよ」と言うとすっかり老いた89歳の母は静かに笑った「あんた忙しいべさ….」 それでも私は「なんも。来る。孫もつれてくる。待ってろ」と告げた。二泊して「帰るぞ。時間だ」といいレンタカーに乗り込み車を出すと湯の川カトリック幼稚園の門がある市電の道路に私が右折するまで家の前で見送っていた….今このブログ拓庵思考を描きながらその時の小さくなる母のことを思い出しウルっときたので電話をしてみた。聞けばその後、寒波で水道が壊れ修理費に40万円かかってショックだという…寒波のせいもあるが老朽化であるのは明白だ。私が近くにいるならすぐに直してあげられたし、ともえ座の家なら氷点下でも暖かいのに…と現実離れした妄想も頭をよぎった。「母さんの郵便局の番号おしえろ。少しカンパするから。落ち込むな。楽しいことだけ考えろよ」といい近くの郵便局から母に水道修理代のカンパを送金した。

おそらく湯の川カトリック幼稚園の卒園式。拓庵少年と母。背広は親戚の洋裁の出来るおばさんに仕立ててもらった。

大学2年の冬休み帰省時。拓庵20歳と母。駒場町の実家で。この感じだと私の友達が来て写真を撮ったと思う。母とはこんなにくっついた記憶がないので…

 

私にはまだ母がいる。妻は20代で両親を亡くした。そして私も孫のじいちゃんである。私の孫たちはじいちゃんが死んだら私のように泣かないのだろうか….それもまた仕方がないかと思うし、別に気にもとめない。私は孫たちのタニマチだから…

2020年11月七五三。高崎山名神社でiPhonで撮影した孫たち。着物は娘と息子のもの。小さいアイリッシュ・セッターは息子が履いていたもの。

2020年11月12日函館見晴公園(香雪園)母と紅葉を観る。母の後頭部を見て『老い』を痛感した。

この公園は夏は蝉取り。冬はソリ遊びをした。駒場町の家から自転車や歩きで行った。元気だったんだな…すごく遠いから….

 

今、ORLEANS(オーリアンズ)【LET THERE BE MUJIC】【WAKING AND DREAMING】を聴きながら執筆しているのだが、高校の時 個人誌【蟻巣(ありす)プレス】だったか…名前が思いだせないが米田さんだったか….ラジオのDJでアメリカンロックに詳しい方に手紙を書いたら返事がきて手紙のが最後に『オーリアンズのWAKING AND DREAMINGを聴きながら』と書いていた….とても心のこもった達筆な文書だった….米田さんお元気ですか?私は今でもROCKしていますよ。

 

 

名曲になった『ダンス・ウィズ・ミー』が収録されている。『時がすぎていく』が当時好きで何度も聴いた。ツインのストラトキャスターがたまらん。ジョン・ホール派とラリー・ホッペン派に分かれるが、私はギターテクはジョン・ホール。歌声はラリー・ホッペンが好き。

とにかく前作より重厚になったサウンド。ツインドラムになりアサイラム・レーベルはこの時期に傑作を多く輩出している。私は前作が好きだ。でも….全員汗くさそうだな….

 

 

還暦になり初めて書いた拓庵思考。いつか出版したい自伝の原稿と思い書き始めたらブログらしからぬ長さになっていますが一部の方しか読まないのでこれはこれで読みものとして楽しんでいただけたら幸いです。

 

毎日が新発見の入船町の長屋時の幼少期。知識と趣味が違いすぎて友達付き合いがかったるかった小学生時代。映画三昧の中学時代。高校のギター少年時代…..どれも私の大切なこと思い出であり、こんにちの私を作り上げた記憶たちである…..

 

じじちゃんの馬の入れ墨~港町はこだてブルース】  完

 

 

 

 

 

 

 

 

 


60歳

2020-05-07 18:09:01 | 日記・エッセイ・コラム

深夜12時の時計を見て「パパ 60歳 おめでとう! すっごく若いよ!」と笑う妻とは36年の間暮らしてきた。

子供の頃は誕生日が楽しみだった。函館の駒場小学校の何年生だったかは覚えていないが誕生日の日にちのことで友達数人に嘘をついたことがある….「オレの誕生日は5月5日のこどもの日だぞ」と…..

国鉄団地や自衛隊官舎ばかりの駒場小学校で誕生会に友達を呼ぶことが流行りだしていた….私のほかに一軒家に住む友達は数人いたが、同級生は皆、団地や官舎なので彼らの誕生日に行った記憶はないが、今から思うと呼ばれていなかったかもしれない。

函館に今でもある丸井今井デパートの経営者の孫だとなんとなく聞いていた今井君の誕生日は素敵だった….まずお母さんが美しい人で女優さんかと思った。ポッキーもお土産で一人ひと箱もらい、『今井君の家に生まれたかった….』と心から思った。

「ただいま。母さん オレも誕生会やりたい」とウキウキして帰宅すると母は機嫌が良く「いいよ」と答えた。で、誕生日詐称事件が起こるのだが….

そして嘘の誕生日の5月5日の朝になった….友達5人くらいに「来いよ」と声をかけていた。当時はゴールデンウィークなど無く、5月3日は祝日で、5月4日は学校だった。「何時に行けばいい?」といわれ….「3時頃….」と答えたが母には話せずにいた….当日のお昼前、台所に洗濯機があり、機嫌悪そうに洗濯をしている母におそるおそる「母さん今日、オレの誕生会やるので友達呼んだ」と話すと、ものすごく嫌な顔をされたし、たしか相当な文句も言われたように思う….

庭の見える茶の間と仏壇のある和室の続き間にテーブルをふたつ並べて友達を待つ拓庵少年….何にも楽しくもない憂鬱な午後….母は不機嫌な顔を隠しもせずに台所でチラシ寿司を黙々とつくっている。何回も台所の母を見るが顔はピクリとも笑わない….困った…..「杉本くーん」「拓~!来たよ~!」と楽しいことに飢えているうるさい小学生たちがやってきた。「おう…あがれ…」

普段元気で威張っている拓庵少年は憂鬱な瞳で友達を迎えたにちがいない….ちらし寿司には私の大好きな錦糸卵がたくさんのっていたが、私が普段「こんなのいれんなよ!くそババぁ!」と怒りまくる しいたけがしっかり入っていた。そして母は当時珍しいサイダーも出してくれたが、機嫌は最後まで悪く….小学生なので誰も気が付かなかったとは思うが….私はその日以来 誕生日に友達を呼ばなくなった。

サイダーはガラスの瓶に入っていて家の近くの国鉄官舎購買に買いに行った。木の重い箱に入ったサイダーを足が悪く身体障害者の母に持たせたことは無い。母が買い物に行くときは拓庵少年は必ず母の荷物を全部持った….男は重いものを持つ。これは私が小学生の頃から信念にしていることのひとつである。

月日は経ち、子供たちが小さいころは私も誕生日を楽しんでいた。正直最近はまったく誕生日は自分が盛り上がらないのだが、ゴールデンウイークの旅行を全てキャンセルして家にいたので、普段より凝っている妻の作る食事を毎日いただき幸せだった。私の家にはトレーニングしたりギターを弾くスタジオと呼ぶ部屋があり、2014年の韓国ドラマの『未生~ミセン』を観ながらエアロバイクを相当漕いだ。

 

フジテレビは『HOPE』というタイトルでリメイク版を放送していたが天と地の差で全く別物と思うくらい『未生』は傑作だった。骨太な内容で、サラリーマンの頑張りと屈折や希望を描いた素晴らしい作品で60歳になる数日前に全て観終わったが、この作品は私への最高のプレゼントになった。毎日見えないプレッシャーと戦って休まることのない自分をこのドラマに出てくる人たちにだぶらせたのか何度も泣いた。囲碁の手にたとえた人生の意味や屈折しても立ち上がっていく主人公の心の中の声にも感動して涙が毎回あふれ出た…..このドラマはスタジオでひとりで観た。本当は妻ともう一回最初から観直したいと思っている。

今晩も妻とふたりでささやかな誕生会がある。優しい妻のことなので色々考えていることだろう。

あまり楽しくはなかったここ数年の誕生日….今夜はすごく楽しみな自分がいる。

 


60歳を前に映画とドラマのお話しを少し

2020-04-28 18:06:48 | 日記・エッセイ・コラム

妻と二人暮らしになった。

二世帯同居していた長女と孫たちが同じ町内に引っ越したからだ。

60歳を迎える私と今夏58歳になる妻。私たちには広すぎる屋敷だが、私と妻の好みを反映した家なので私たちは満足している。

娘と孫の声や気配がしない生活はしばらくぶりで、それはそれで新婚気分で非常に楽しい毎日な私なのである。

ということで私と妻とハムスター二匹の生活がはじまった……

 

例年ならGWと夏、年末は海外にいくところだが今年は早々にキャンセルしたし、夫婦共通の趣味の温泉旅行も取りやめにした。

朝起きてスタバのドライブスルーに日課で行く。会社でメールを開き、図面を書いたり、パースを制作したり、サイトのニュースなど閲覧しているとすぐに夕方になり….帰りもスタバのドライブスルーに寄る。私はノンカフェインのホットかホットのソイラテ、もしくはカフェアメリカーナのホットとシュガードーナツを頼む。スタバのホットは暴力的に熱いので会社の自室や家でいただく….

 

妻が夕食の用意をしている傍らで買ってきたスタバを飲みながらオンライン番組のチェックをする。光TV Netflix U-NEXT Hulu DisneyDX….観たい番組だらけで私は民放は報道番組のみリアルタイムに観るが、あとは録画をして暇なときに観る。実に便利な時代になった。

親なので息子のYouTubeも必ず観る。『衝撃デリバリーチャンネル』と全然視聴者がいない番組だが、ついすべて観てしまう。正直そんなには面白くない。でも楽しみにしている自分がいる。孫たちの運動会やお遊戯会のビデオはさらっと一回流す程度しか観ないのだが息子の出演している数少ない番組は何回も観る。私も普通の親なんだと今書いていて自覚している次第だ….そんな普通の親で60歳を前にした私がこの1年強に観た数ある映画やドラマの中から少しピックアップしてみるとしよう….

そもそもNetflixは、函館のタウン誌のPEEPSの吉田編集長と函館の炉端焼き屋さんで食事したときに「スコセッシの新作『アイリッシュマン』が観たいのでNetflixに入りますよ」と言われ私もすぐに加入した。その際に「エピソード9の反省会も観終わったらやりましょう」と約束した。その時はJ・J・エイブラムス監督にほのかな期待をしていたのだが…..

 

結果…エピソード9は語る価値も無いほど失望した。先日も光TVオンデマンドで観たが全くもって楽しくなかった….反省会どころではない….『アイリッシュマン』も、スコセッシ監督の映画にしては、拍手する気にはなれなかった….オスカー作品賞や監督候補に挙がったのは異論は無い。ジョー・ペシとアル・パチーノも良かった….冷静に点数をつけると私の感想は『エピソード9』おまけで55点。『アイリッシュ・マン』まさかの79点。『ジョーカー』デ・ニーロの場面がマイナスで75点。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』79点といったところか….

補足で期待した『イエスタデイ』67点、『アベンジャーズエンドゲーム』65点、ちなみに昨年のオスカー作品『グリーンブック』は82点。なかなか90点を超える映画は無い….邦画の『マスカレードホテル』は、おまけで20点で、宣伝に踊らされて妻と日比谷東宝のボックス席を予約して大金をかけて観たので…あまりのチープなセットと脚本に「金返せ」と言いくなった。では話題の『マンダロリアン』は?というと、もちろんスターウォーズ・ファンなのでDisneyDXに加入して観たが4話の時点で腹いっぱいになり今は観ていない…点数は69点。最初だけときめいたが…エピソード9やエピソード8同様に感情移入出来ないのだ….旧スターウォーズ・ファンは無垢なので簡単には認めない気質がある。ディズニーは凄いことをしているのはわかるが全く評価しない。なんだかんだルーカス時代のスターウォーズ・サーガがやはり好きなのだ….

     

 

Netflixには名作映画やドラマがうようよある。作品の名前を挙げたらきりがないほどだ….現在大人気の『梨泰院クラス』は私は妻と2回観た。25回以上訪れた大好きな街ソウル梨泰院が舞台で実に面白い。韓国映画・ドラマも傑作が多い。ドラマは日本のドラマより脚本・撮影・演出・音楽どれも良い。今年度のオスカーを受賞したポン・ジュノ監督の『パラサイト』はコロナで映画館に行けないので今一番観たい作品だ。ポン・ジュノ監督の映画もほとんど観ているが全て好きなわけではない。

 

 

実は私の中のお気に入りがあり….私が普段あまり観ないジャンルで、まさかのラブコメディーの2019年Netflix作品『椿の花咲く頃』全20話である。『24』を初めて観たとき寝不足になって一気に観たいと思ったが….今回の私の感覚はワクワクするとかドキドキする感覚ではなくとにかく理由なく好きになってしまったのだ….とても心が温かくなる作品で、私は何回泣かされたろう…..まずは脚本が素晴らしい、編集も秀逸。役者たちももちろん良い。第一話から最終話までが全て繋がっている見事なシナリオ。実はサスペンスの要因も入っているのだが最後までラブコメディのスキンを身にまとい完全なまでに素晴らしい最終話へと導いていく。

ソウルから4時間以上はなれているこのロケ地の田舎感がまた良い。私のふるさとの函館の海辺や浜の景色、坂が多い高台から望む眼下の田舎の待ち並み、このロケ地は元々日本人の漁師が住んでいた街で日本人屋敷もいまだにあるという…..私が小学生になる前に住んでいた昔の函館の入船町や船見町のようだ….

  

 

私と妻は梨泰院の街も何回も行ったが『梨泰院クラス』と『椿の花咲く頃』にすっかり影響されてコロナが明けたら、真っ先にソウル行きの飛行機に飛び乗りソウルの食堂や居酒屋巡りをしたい….実は昨年末も妻とソウルに出向いた。下の写真はその際の東大門や広蔵市場での食べ歩きの一部だ。残念ながら雨続きであまり歩いてソウル散策ができなかった….コロナで上海、チェコ、オーストリアなどの旅をキャンセルしたが、妻も私も今一番旅したいが韓国である。今度行ったら地方の街や海辺の街も探訪する計画だ….

   

さて点数だが….高得点を付けた。『梨泰院クラス』全16話は83点から90点。エピソードにより点の低い回もあった。 全20話の『椿の花咲く頃』全話93点で最終話は98点をつけたい……これは、あくまで私の感想であり、いつも一緒に観ている妻はすでにベスト・オブ・2020は『梨泰院クラス』だと語っている。(妻は後日、『椿の花咲く頃』の最終話を観て「やっぱり『椿の花咲く頃』に替える」と語っていた)

私は胸に手を当てて思ったのだが….ここ50年以上も多くの映画やドラマを観たが『椿の花咲く頃』は優秀脚本賞を挙げたい10本のひとつに加えたい1本である。しかもかなり上位に位置する。60歳を前にして子供も育ち、可愛い孫たちも4人に恵まれ私の中で審査基準があきらかに変わっているのだろう…..とんがった作品ばかり好んだ若いころの自分ではなくなっている…..心優しい妻と生きてきたので私はた多少の影響を受けた。

気性の激しい親の気持ち、純朴な息子の気持ち、孫を持つ祖父の気持ち、純粋に妻を愛する自分自身の気持ちで毎回観ていたので『椿の花咲く頃』を観ていて何回目頭が熱くなったであろう….観ている間何回か隣でいっしょに観ている妻の温かい手を握った….

 

小学校入学と、ともに孫たちが近所に引っ越したことで私は妻は二人っきりになり、その生活を満喫している。

また今夜も妻とふたりっきりの部屋で映画や名作ドラマを観ることにしよう…..

 

 


冬のシドニーとLED ZEPPELINのレアな写真集

2019-12-27 18:04:22 | 日記・エッセイ・コラム

8月の暑い日本では、ともえ座のいえの新作群が粛々と建築されていた  。

そんな中スタッフが優秀なので、現場は皆にまかせて私は妻とシドニーへの7日間の旅に出た。

   

写真のSTRAND ARCADEは宿泊したシャングリラ・シドニーから徒歩10分で到着した。イギリスそのものの色が私をハイな世界にいざなう……クイーン・ヴィクトリア・ビルもしかりだがイギリス建築やイギリス空間の色は私の好みしのものだ….パリやフランスの街並み、イタリアの街並みとは一線を画す世界に『来てよかった….』と自分の脳が喜んでいる。

 

ROCKS地区の丘の上にそびえ建つ理想郷?の意を冠にいただくシャングリラ・ホテルのオペラ座やROCKS地区、ダウンタウンが一望できるコーナー部屋をリザーブしたのは正解だった。

私は個人旅行は航空チケットは各航空会社のサイトから直接予約する。席も事前に選べて楽だ。ホテルは賛否あるがBooking.comで部屋をよく見て、地理やアクセスもよく吟味して予約している。が…今回のシャングリラが眼下のROCKS地区と高低差があるとは知らなかった….少林寺拳法時代の軸足の左ひざが痛く、おそらく愛用のHOKAのスニーカーでなければきつい旅だったと思う….旅の靴は大事だ。

 

平均2万歩は歩くので疲れない靴はマストだ。最近は妻も購入した….これは事件だ…なにせスニーカーやぺったんこな靴は履かないので….

  

シドンーではポップ・オン・ポップというバスのお得なチケットを買いシドニーの隅々を廻った。

船にもたくさん乗った。タクシーは空港の往復と郊外のアウトレットに行きにつかったが、帰りは船に乗って帰ってきた。船旅は最高だったが….船員さんは妻に『彼は寒くないのか?』と甲板にいる私を心配していたそうだ。

 

サーフィンのメッカ ボンダイビーチもバスで行った。 

収穫はレッド・ツエッペリンの写真集だった….ベイサイドの近代的な本屋さんで1972年のツエッペリンのシドニー公演のLIVE写真が展示してあり、しばし見つめているとアーティスト系の店員さんが『ねえ!こっちおいで!凄いのあるぜ!』と私の腕をガッしとつかみ『腕 太くてかたいね~!』と笑いながら百科事典より分厚い写真集をカウンターの奥から出してくれた。

パラパラめくると『すごいだろ!』と笑って自信満々の笑みで私を見ている….『パパ買いなよ!』と妻も云う….これが重いのだ….『トゥー ヘビー』と私が云うと『お前の腕 太いから大丈夫』みたいに訛りのあるシドニー英語で話しながら『OK!これもあげるよ!』とレアなツエッペリンのポスターをもらった….高低差のあるシドニー….ピクサーアニメの傑作ファインディング・ニモの観た景色を私と妻も見ている…..この写真集が重すぎてついに私はこの本を入れるリュックサックを購入した….

 

今度は夏に来たいシドニー….かくして私たちはOUT BACK(辺境地)ではないダウンタウンと海辺のシドニーを満喫したのであった…..

来年は世界街歩きを『たく子の部屋』で動画コンテンツでお届け予定です。

 

ではまた来年!!