じじちゃんの左の腕には入れ墨が入っていた。【じじちゃん】とは私の母方の祖父で函館で船乗りをしていたらしいが、4歳くらいからの記憶では昼間っから酒を飲んでるふしだらな人だった.
【山田三治】と書き【ヤマダサンジ】と読む。麦わらの一味のサンジと名前だけ一緒だ。昔の小学校の土曜日は4時間授業で給食は出ない。お昼の家ご飯が嬉しくて急いで帰宅すると、じじちゃんが日本酒のコップを持ちニヤリとして孫の私に「お帰り」や「大きくなったな」もいわずにじーっと見てるのだ。母に「かあさん!早くメシ!」と今思えば麦わらのルフィがサンジに言うようなセリフ「おおー!うめ~!」「もっと食わせろ!」を連呼する大食漢な小学生であったので当然土曜日は空腹マックスなのだが、じじちゃんが来ている日は母がいつもの母ではないのだ。
じじちゃんの酒のつまみをせっせと作り私の昼めしは作ってないのである。クソガキな拓庵少年は「はやくしろッ!おせーよ!」とわめくのだが、じじちゃんは母に吠える私をつまみにニヤケて酒を呑んでいるのだ…下水道になる以前の函館は汲み取り式でバキュームカーを見るのは日常であった。汲み取り時代の便所はトイレとは呼称したくないような世界で、寒い冬の毛糸セーターに大便やアンモニアの臭いは強烈に服に付く。当然小便器のオシッコの臭いも残る。じじちゃんが日本酒を吞むときと父や叔父さんたちが日本酒を呑むときの便所はアンモニア臭で鼻が曲がりそうになる。だから大人になったら日本酒を呑む人間にはなりたくなかったが、大学の体育会少林寺拳法部であった私は19歳から21歳までは【剣菱(けんびし)】という日本酒を強制的に吞まされることになるのだが….
巴座本社のある高崎市和田町は古い下水道計画の名残なのか、排水勾配を計算できなかった当時の水道設備業者の知識が浅かったのかよく下水がつまるのである。私は巴座本社の下水のつまりをときたま直す。つまりウンコの山やトイレットペーパーの山のつまりを見ながら長い棒で押し出しホースやバケツで水を流し詰まりを直すのだが、お隣りさんや二軒先の排水も詰まっているので何も言わず直すことにしている。今の若い人は汲み取り便所を知らないのでおそらくウンコの山を見て気持ち悪くなるだろう….函館入船町の函館山がよく見える港近くの長屋の共同便所は外にあった。冬は凍れて(しばれて)外に出たくないのでオシッコをしたくても我慢した。次姉は二日置きに寝小便をして、姉の布団に入るとオシッコ臭かったなぁ….
母はじじちゃんにとっては初子で可愛くて仕方がないようだった。午年(うまどし)生まれでサンジだから走る三頭の馬の入れ墨を左腕に入れたそうだ。全力で走っている競馬のゴール直前のムチをいれられて飛んでいるかのような駆けている馬の絵だった。母いわく「いきがって入れたんだべさ」…..どう考えても苦しい言い訳だと保育園児の年少の頃から思っていた。私は函館の入船町のイカ釣り船の港まで徒歩30秒という貧相な長屋で育ったので毎日船乗りさんを見てきたが、入れ墨を入れていた大人はほとんどいなかった….だからじじちゃんのことは4歳ころから軽蔑していた。入れ墨のことは小学生になり銭湯に行って判明した。軽蔑の理由はその人間性にあった。そして遊んでもらったことも、お小遣いももらったことはない。
妻のばばちゃんは入船町の港の前のイカの塩辛の水産加工場で働いていた。印象といえばいつもネッチョリした目ヤニがついていて強烈なイカの塩辛臭がした。それでも「たっこちゃん。たっこちゃん(拓ちゃん 拓ちゃん)」といい始めての男の子の孫の私に幼少期から死ぬ直前までお小遣いを渡してくれた。私と妻の結婚式に函館の浜育ちのイカの臭いのばばちゃんが東京渋谷のど真ん中に降り立ち私を見て「いや~立派になったべさ」と嬉しくて泣いていた….妻のことは「ねえさん。ねえさん。たっこちゃんのことよろしぐな」と妻の手を取り拝んでいた….ばばちゃんは私にとってのタニマチなのでなんでもねだって買ってもらった。じじちゃんは銭湯で「カツゲン買って」といっても無視してひとりで先に帰るような人間だった….ちなみにカツゲンとは北海道ローカルのヤクルトの前進のような乳酸菌ドリンクである。
ヤクザな父と無教養で働き者の母の元に生まれた私の母の旧姓は山田フサ子という。そう私の母さんである。現在89歳で頭はすこぶる元気である。母には入れ墨の父のほかにアル中の弟もいた。このアルコール依存中毒症の叔父のことを【しげるおじちゃん】と呼んでいたがこの弟には母は実に厳しく接していた。私の母は人を見てつきあいを変える傾向があり、かく言う私の最愛の妻が大学3年生の時、初めて函館の地に着いた折に当時流行っていた松田聖子のアルバム【ユートピア】のジャケットの髪型(ブロンド色)で家に連れ行き紹介するとだ、なんと母はじろっと風紀委員の先生みたいな偏見に満ちた目で妻を上から下まで目で軽視のレーザービームを浴びせたのである…..よくもまあ入れ墨の父とアル中の弟とイカ臭でネッチョリ目くその母を持つ身分で人を軽視するもんだと思う。ちなみに後に母は妻の教養あふれる両親と会いコロッと態度を改め、今では「ゆうこちゃんの贈り物はセンスよくてみんなにほめられるべさ」とぬかしている。
横道をそれるが松田聖子の名盤【ユートピア】はCBSソニーのらつ腕プロデユーサーM. Wakamatsuの傑作で、アレンジは大村雅郎・細野晴臣・瀬尾一三・松任谷正隆。ギターは私の崇拝する松原正樹をメインに名曲【マイアミ午前5時】では今剛のツインギター、太いベースは美久月千晴、ドラムを島村英二など当時の音楽の志の高さが現代でも私の耳を魅了する。
ヒット曲【天国のキッス】はギターの鈴木茂の唯我独尊の奏法・細野晴臣のベーシストとしての本気・音楽家としての狂気の世界で構成されているがアイドルでもあった松田聖子の音楽が高度であるとはミュージシャンしかわからない世界であろう…【ユートピア】の人気曲は【セイシエルの夕陽】【秘密の花園】【天国のキッス】【マイアミ午前5時】だが、拓庵思考としては【赤い靴のバレリーナ】を2020年紅白歌合戦でも披露された【瑠璃色の地球】と匹敵する名曲として拓庵プレイリストの殿堂入りに認定している。この佳曲【赤い靴のバレリーナ】作詞松本隆・作曲甲斐よしひろ・編曲瀬尾一三 甲斐よしひろ自身がセルフカバーしているそうだが私は聴く予定はない。この曲はアコギの神であられる吉川忠英先生が至高の演奏。松原正樹先生のギターこれまたやばく…数年前にSONYのハイレゾ版を聴いたが弦を抑える左指と右手の妙はゾクゾクしたものだ….この【ユートピア】をレコードステレオからカセットの録音して当時の私の愛車のISUZUピアッツァに後付けしたクラリオンのカーコンポで大音量で再生しながら【はこだて午後23時】にひとりで狭い函館市内を延々とドライブしたっけな…..サンミュージックに所属していた時代の松田聖子のアルバムは初期の二枚以外はアイドルの音楽ではなく、へたなJ-POPアルバムより秀逸。サンミュージックを退社した後の、松田聖子音楽はただの松田聖子の自己満足音楽でよほどのファンでない限り【お耳汚し】とはこのことである。
妻は私が大学卒業した年に函館に来てくれた。当時妻は大学3年だった。その翌年大学4年の妻は私のお嫁さんになった。妻の父が理解の善い方というか深い愛情と考察の末、大学生だった一人っ子の妻との結婚を快諾してくれた。「結婚させてください」妻の母の顔はひきつっていた….そして妻の父は笑顔の和装姿で若造の私に折り目正しく「拓君のような素晴らしい人と結婚できて幸せだ」との言葉をくれた。私はこの時に妻を死ぬまで愛し幸せにすると自分に約束した。もちろん60歳になった今も私は妻を死ぬほど愛している。
函館の入船町の長屋育ちの拓庵少年は文教地区で公務員居住地区の駒場町に引っ越すのは入船保育園年長の時で湯の川カトリック幼稚園に編入した。『マーリア様マーリア様イエズス様のお母様~』と毎日マリア様に合掌するバラ組の園児になったのだが、家から徒歩20秒で幼稚園の門をくぐれた。
園には函館弁のシスターがうようよいた。「たぐちゃん!はんかくさいことしないの!」とよく怒られた。卒園後もシスターが窓を開けて「たぐちゃん!」と笑って「元気がい?」と声をかけてくる。【いか】【にく】を【いが】【にぐ】と濁音がつくのが函館弁で【たく】が【たぐ】になる。【たぐちゃん】となり年寄りは【たっこちゃん】と呼ぶ。
たぐちゃんの小学校1年の秋にじじちゃんが死んだ。
涙は出ない。そう一滴も出ない。悲しくもない。30代になり群馬人になり母から一本の電話がくる「たぐ。あんた。ばばちゃん死んだんだわ…葬式これるがい….」私は間髪おかず「行かない。行けないな。今度帰ったら線香あげるよ」といいすぐに電話を切った。やはり涙も出ないし悲しくもない….私がひどい孫なのか、はたまたは孫に涙をながさせないじじちゃんとばばちゃんの人徳が無いのか….
じじちゃんの家は、狭くボロイ二階のある借家はいつもスルメや海産物のすえた匂いがした。水道水も不味く行きたくなかったが行くと必ず平成天皇と美智子妃の結婚式の額に入った写真と阿倍仲麻呂の万葉集の句が焼き付けてあるガラスのコップを眺めた。じじちゃんの家の斜め前には大正湯があった。のちに映画にもなる、私にもっともそのフォルムと色を刷り込んだ大正時代の傑作建築物の公共銭湯である。
大正湯があるじじちゃんの家の西側に宮田さんという、質屋を営む蔵のある洋館があった。この家の外観と室内や家具も幼い私に強烈な影響を与えた。
建築様式はヴィクトリアン様式で蔵の漆喰は黒で相当に凝った建築であった。黒光りしている無垢の床は今思うと3センチ以上ある北海道杉かと思う。
蔵の中には昭和初期のビクター社の蓄音機もある。ステンドガラスの蛍光灯や装飾灯やシャンデリアもあった。
そこの品のよいお嫁さんは「たくちゃん」と発音して言葉も標準語だった。遊びに行くと明治製菓の発売されたばかりの新感覚キャラメルのチェルシーをくれた。当時森永のキャラメルとフルヤウインターキャラメルがはばを利かせていた中で明治製菓はイギリスの地名チェルシーのネーミングでジャケットはフラワーサイケデリックだった。考えたら明治乳業のアイスクリームもパッケージもマルチカラーのドット柄でサイケデリック・ポップだった….昔のデザイナーはかっこいい作品を世に出している。
じじちゃんが唯一買ってくれた記憶のある鉄人28号のおもちゃ。横山光輝氏の漫画の【鉄人28号】のフォントに興味をもち絵にタイトルやフォントを立体で描くことを覚えた。他に影響を受けた漫画は、手塚治虫の【鉄腕アトム】【ジャングル大帝】【スーパー・ジェッター】【ビッグX】のフォントもかっこいい。入舟町の長屋でばばちゃんが「たっこちゃん帳面買ってきたよ」と私があまりに絵を描くのでノート(当時は帳面と呼んだ)を大量に買ってくれた。
函館の建築物は私に多大なる影響を与えている。【大正湯】を筆頭に母が私の服を買いに通った十字街【丸井今井デパート】【函館公会堂】などあげたらきりがない。
初めての北海道新幹線での帰省は2020年の11月だった。高崎から大宮までグリーン車、大宮から新北斗駅までグランクラス。グランクラスは飛行機のビジネスクラスの様な座席とサービスなのだか、私はお酒を呑まないのでコーヒーを2回お願いしたが、豆も酸化してなく美味しく頂いた。
新北斗駅からはレンタカー、ホテルは新築のセルフチェックインで細心の注意の元母の見舞いに行った。【東京・埼玉・札幌の方お断り】と懐かしい喫茶ハワイの張り紙を見て『ここは田舎根性丸出しの自分の帰る場所ではない』と悟った….それでも母は喜んでいる。「ホテルに泊まるよ俺」それでも母は嬉しいのである。痛いはずの足をひきずり閉店間際の誰もいない自由市場でホッケ、ニシン、カレイ、筋子を買うのを付き合ってくれた。店には入らずせめて家でご飯を食べるためだ…「毛ガニ食うか?」と尋ねると「いや~あんた…たがくて(高くて)買えないべさ….買ってくれんの?いや~嬉しいわ」とニコニコしている。
母がホッケを焼いている間に湯の川の生協にワインを買いに行った。雪が舞い少し子供時代に返ってた感じになった。母が好きなブドウや果物も山ほど買った。「母さんたくさん買ったから喰えよ」「いや~悪いべさ…ありがとう」台所に入ると見事に老朽化した台所であった。ここで食べ盛りの私の幼稚園年長から高校3年卒業まで大食漢のわがまま息子のメシの支度を不自由な体で頑張ってくれていたのかと思うと切なくなった…。台所にはあの、ばばちゃんやじじちゃんの家の匂いがした。スルメのすえた匂いだ….「生ごみくせえな母さん」というと「なんも。ヘルパーさんが2週間に一回ゴミ捨てしてくれるべさ」と母がいう….私の住んでいたころは味噌汁やコーヒーの香りがしていたのだが….
「母さん。新幹線だと大宮から4時間かかんないからチョコチョコ来るよ。嬉しいべ。だから寂しいとか人にこぼすなよ」と言うとすっかり老いた89歳の母は静かに笑った「あんた忙しいべさ….」 それでも私は「なんも。来る。孫もつれてくる。待ってろ」と告げた。二泊して「帰るぞ。時間だ」といいレンタカーに乗り込み車を出すと湯の川カトリック幼稚園の門がある市電の道路に私が右折するまで家の前で見送っていた….今このブログ拓庵思考を描きながらその時の小さくなる母のことを思い出しウルっときたので電話をしてみた。聞けばその後、寒波で水道が壊れ修理費に40万円かかってショックだという…寒波のせいもあるが老朽化であるのは明白だ。私が近くにいるならすぐに直してあげられたし、ともえ座の家なら氷点下でも暖かいのに…と現実離れした妄想も頭をよぎった。「母さんの郵便局の番号おしえろ。少しカンパするから。落ち込むな。楽しいことだけ考えろよ」といい近くの郵便局から母に水道修理代のカンパを送金した。
私にはまだ母がいる。妻は20代で両親を亡くした。そして私も孫のじいちゃんである。私の孫たちはじいちゃんが死んだら私のように泣かないのだろうか….それもまた仕方がないかと思うし、別に気にもとめない。私は孫たちのタニマチだから…
2020年11月七五三。高崎山名神社でiPhonで撮影した孫たち。着物は娘と息子のもの。小さいアイリッシュ・セッターは息子が履いていたもの。
今、ORLEANS(オーリアンズ)【LET THERE BE MUJIC】【WAKING AND DREAMING】を聴きながら執筆しているのだが、高校の時 個人誌【蟻巣(ありす)プレス】だったか…名前が思いだせないが米田さんだったか….ラジオのDJでアメリカンロックに詳しい方に手紙を書いたら返事がきて手紙のが最後に『オーリアンズのWAKING AND DREAMINGを聴きながら』と書いていた….とても心のこもった達筆な文書だった….米田さんお元気ですか?私は今でもROCKしていますよ。
還暦になり初めて書いた拓庵思考。いつか出版したい自伝の原稿と思い書き始めたらブログらしからぬ長さになっていますが一部の方しか読まないのでこれはこれで読みものとして楽しんでいただけたら幸いです。
毎日が新発見の入船町の長屋時の幼少期。知識と趣味が違いすぎて友達付き合いがかったるかった小学生時代。映画三昧の中学時代。高校のギター少年時代…..どれも私の大切なこと思い出であり、こんにちの私を作り上げた記憶たちである…..
【じじちゃんの馬の入れ墨~港町はこだてブルース】 完
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