『芸人になりたい』
その日が来たのは、息子が大学に入学して四か月が過ぎた夏の日のことだった。
息子の名前は【佳津山】と書き、【かつやま】と書く。
現在25歳で、職業は吉本興行に所属する5年目の芸人であり、いわゆる芸能人である。まだ売れてはいない。
我が家の長男ではあるが、歳のすごく離れた末っ子でもある。小学校時代から友達も多く、群馬県高崎市の少年サッカークラブチームFC片岡に所属していた。サッカー選手としては並みの上くらいで、格別上手い選手ではなかったが、毎週のように河川敷やたくさんのピッチに立ち、私と妻は、それはそれは,毎試合 毎試合、息子の活躍を観るのが楽しみで楽しみでワクワクさせてもらった。
私は息子に革製のサッカースパイクや流行りのジャージを買い与えるために稼いだ。ともえ座のいえの前身にあたる時代だったので、まだ生活は安定していなかったが、親というものは健気(けなげ)で、私も妻も息子のためになんでもしてやろうと思った。
息子は妻の善い処が似ていて人付き合いを大切にして、人を悪く言う人間ではない。学生時代はリーダーシップもあり、友達の親御さんからも「かっちゃんはいい子ですね」と、褒めていただいていた。勉強にも真面目に取り組み成績も良く、部活も頑張り、妻そのものというか….善い行いができる素直で明るい子供であった。家にはいつも同級生やサッカー仲間や学校の仲間たちが大挙して押し寄せていた。
「かつやまが吉本芸人になるために大学を辞めるんだよ」と、学生時代の親御さんたちに話すと皆さん口をそろえて「大丈夫!かっちゃんなら必ずうまくいく!」「うあわー!楽しみー!絶対に売れる!」と言うのである。誰ひとり「え?大丈夫?」とか「やめたほうがいいよ」とは言わなかった。これは息子の普段の行動がそう言わせたのだとすると息子かつやまは、たいした人間だと思う。
東京農業大学醸造学科に入学が決まった正月に私は息子を大阪の二泊三日の旅に誘った。
息子が吉本芸人になりたいことは私も妻も知っていた。「今度のお正月に大阪行ってさ、かつやまに吉本の本場の雰囲気を味合わせてあげたいな」との私の提案に妻も「本人が行きたいならいいけど、行くかな…」 結果「行きたい」との息子の言葉で急遽の予約でホテルを二部屋取り車で大阪に向かった。当時の車は歴代の愛車でもかなり気に入っていた真っ赤なHONDAオデッセイアブソルートの4WDで、家族では【RED~レッド】と呼んでいた。
家を出てから大阪に着くまで息子はひたすら寝ていた。この車にはナビが無くiPadのグーグルマップでなんとか大阪のアークホテルに到着した。
2013年1月2日大阪。日没前に到着するや親子共々初めての大阪の街に繰り出した。吉本芸人ゆかりのお好み焼きの店に入ってみた。そこは私好みの昭和の世界だった。
私は大阪に行きたかったわけではない。同じ関西なら正月は京都や神戸に行きたい趣向の人間である。要は親バカなので息子が喜ぶかと思い大阪行きを思いついたのである。高校2年生、3年生と【佳津山杉本のすべらない話し】という並みの高校生なら出来ない企画を2年続けて制作した。考えたのは息子で息子の高校の仲間や教師までが協力してくれ、農大二校や早稲田ゼミナールで撮影を行い膨大なビデオフィルムを私が編集した。この息子の本気の企画に私は喜んで協力した。この大阪旅行は【佳津山杉本のすべらない話2 部活対抗戦】の撮影が終わり編集に入る前の段階の頃だったので私は『大学は受かったが吉本に入りたいのでは….』と良く妻と話している時期だったので頼まれてもいないのに吉本の聖地に息子を誘ったのである。
息子は大学1年の前期試験の前に家に帰ってきた。その日は長女も次女もたまたま全員家にいた。少し緊張しながら「あのさ。俺。吉本のNSCに入りたいんだ。」 息子は緊張からか胃酸のような酸っぱい匂いが口から出ていた。眼球の動きも落ち着かない。その息子の決意を私はリラックスして聞いていた。格別驚きもしなかったし、やっと話す気になったんだなとだけ思った。
「You やっちゃいなよ」と、ジャニーズ社長にあやかって息子に言うと、妻と娘たちは微笑み、息子は驚きと緊張の混ざった顔をした。息子は反対されるとでも思っていたのだろうか…だとしたら息子は私の性格や考えを理解していなっかったという事だ。息子は小さいときから、いつも不安げな顔をして私を見ていた。彼の常識に私が当てはまらなかったのだと思う。
「でもさ….大学の入学金や授業料払ってもらったし…」などと吉本に入りたいと言ったその同じ口が、困った顔をしてウダウダと元気のない声で言うのである。
「気にするな。それよりそう決意したのならすぐに大学を辞めて今日から芸人として学び生きろ」と言うと「来週から試験がある」とこの期に及んでまだ御託(ごたく)を述べるの息子に妻が「時間の無駄。決まったなら前に進む。以上」と告げた。もちろん大学や農大二校にきちんと自分で将来の夢や希望や感謝を伝えてくるようにとは親として指導はした。
吉本興行の養成所NSCに入る入学金を自分で貯めるとかなんとか色々と真面目人間らしいことを話していたがその辺は私は覚えていない。その翌年、NSCに入った息子はその年の8月にイギリス旅行から帰国したばかりの成田空港にいる私と妻に話しがあると連絡をして来た。池袋のサンシャインで時差ボケしたままで会うと以前の燃えていた瞳の息子ではなかった。そのまま高崎に連れていき翌日に話しを聞くとだ….
息子は、当時の群馬の地元大好きなガールフレンドと夏休みを満喫してよほど楽しかったのか「NSCや芸人に合っていないかも….群馬に帰って働いて結婚したい…」やら、かんやらと私と妻にあまりにダサく減滅するような言葉を並べるのであった….昨日までの楽しいイギリスの旅がドッチラケてきたし、正直がっかりした….そして、私も妻も厳しい言葉を息子に浴びせた。
「芸人になったのはお前だが、芸人の親になるのも俺たちは腹をくくった。志半ば(こころざしなかば)であきらめるな。許さない」と言うと「そう言われると思ってた….この気持ちにケリをつけるのでいったんNSCを辞めて来年また入り直して一からやります」と目が覚めたのか、私と妻に力強く約束した。
その翌年NSCに再入学した息子は数回コンビを解散して現在の和田ランダマイザに出会い【衝撃デリバリー】を結成した。卒業して2年目にはよくライブや舞台を夫婦で観に行っていたのだが3年目に衝撃デリバリーは【農業住みます芸人イン仙台】の企画で1年間仙台の山奥の坪沼の神社の社務所で住み込み芸人としては遠回りの道を選んだ。
この拓庵思考を書いている少し前に和田ランダマイザは日テレの番組【旅猿】にサバゲーの達人として出演して東野幸治から「衝撃さん 衝撃さん」と番組内で存在感を見せていた。そして同じ週末、日テレダウンタウンの冠番組【ガキ使】にコンビで出演した。
昨年のTBS【お笑いの日】、昨年末のフジテレビ【細かすぎて伝わらないモノマネ】などダウンタウン、石橋貴明、つるべ師匠などと同じ画面に出ている息子を観て私は不思議と冷静に観ていた。もちろん凄く親としては嬉しいのだが『まだまだこんなもんじゃない』とも思うのである。高校2年の時に【佳津山杉本のすべらない話】のラフ映像を初めて観た日は興奮したし感動もした。高校時代の息子のほうが今よりも輝いて見える。まだ息子は駆け出しの新米だ。芸人5年目で有名番組に出させていただき光栄なことだが、ヒット曲の無いミュージシャンと同じでいつかは『衝撃デリバリーもかつやま知ってる』と子供やお茶の間の方々に言われたとき….私は本当に腹をくくって芸人の親になったことを喜びたいと思っている。
あの日、なんばグランド花月でダウンタウンの着ぐるみと並んだ息子が、憧れのダウンタウンと番組に出ている光景が本当に実現した。しかも高校2年の時から貸してある私のドリス・ヴァン・ノッテンのネクタイを締めて出ているのである。そのネクタイは私のお気に入りであった。息子の七五三の撮影に合わせて購入したものだったが、その撮影の日と小学校の入学式の日そのネクタイを私は締めることはなかった….
息子と私のツーショットはあまりない。私が写真を撮られるのが嫌いだからなのだが、先日ハードディスクの写真を整理したら息子の小学校の入学式の写真と卒業式の写真が出てきた。私と息子の写真のフォルダには【かつやまとお父さん】と書いてあった。
さきほど嬉しいメールが届いた。『はじめての単独ライブ決まったわ! 4月13日! 配信もありにするから』とあった。
ほう…嬉しいではないか….【かつやまのお父さん】は、とても嬉しい。ワクワクしてきた….
【かつやまのお父さん】 完
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます