toshinSHINANO's blog

ようこそtoshinSHINANOへ
https://toshin-shinano.com/

五郎兵衛用水を歩く会から

2019年09月06日 | 歴史の道/中山道

7/28(日)晴れ
<コース>
午前:浅科小学校→長念寺→築堰→上原地区→上原大盤台→墓所→五郎兵衛記念館=(バス利用)=大池→矢島地区(穴尻)→大土手→宝泉寺→八島城跡→布施川掛樋→片倉堀貫→鹿曲川取水口→五郎兵衛記念館
午後:五郎兵衛記念館→大河原峠→蓼科山用水源泉・五斗水→浅科小学校

矢嶋原と呼ばれる一部を除き、水の便が良くない原野を水田にするために山奥の源水から、トンネル(堀貫)、掛樋、築堰やサイホンなどあらゆる技術を用い水を引いた。江戸初期の開削時は全長約20kmの用水であった。
昨年(2018年)には、世界灌漑遺産として登録された。その要件は①100年以上の歴史があること。②新技術が用いられていること。③地域に後援していること。・・・であるという。

浅科小学校を出発し、長念寺脇の築堰へ。フェンスの先の高い部分が築堰です。

筆塚:筆などの書道道具が刻まれているのは珍しいのではないでしょうか。
長念寺の学問所塾生によるもの。
「文政12龍集巳丒(丑か?)年12月吉日」つまり、1829年12月と刻まれている。


築堰を歩く。
水路は勾配1/1500という緩やかなもので、約450haの水田全体にわたり水が行き渡るように設計されている。

山ノ神。
諏訪信仰、御射山神事の社とされる。

上原・この道は、名主栁澤家に因み栁澤小路と呼ばれてます。
戦国時代には、村上氏→武田氏→織田氏→徳川氏→北条氏と目まぐるしく支配者が変遷してきました。
武田氏は佐久において、諸城を落とし残虐な行為が伝わり、評判は良いとはいえない。
しかし、この地では年貢が安かったことで、親しみさえ感じている農民が多かったと伝わります。

上原大盤台。
現在は、生活道路の下に、暗渠となってその役目を果たしている。
水量は、0.6t/秒。

五郎兵衛用水の案内マップ。五郎兵衛が、小諸藩主から最初に与えられた住居の南側に建つ。
かつては、別々の管理系統であった大池と五郎兵衛用水は、現在、大池も五郎兵衛用水の土地改良区として一緒に管理されている。
耕作地は、大池は100ha、五郎兵衛用水が400haといわれている。

墓所では、新田開発に使用した道具類、測量器具類などを供養した「道具塚」や最初の「真親神社」の石社などもあります。
ここは、五郎兵衛記念館への道で、眺められる五郎兵衛新田や上原集落の様子です。
下方には、清さんの菩提寺である天台宗「厳鉄山妙香院」も見える場所です。

大池から、300mほど南に入った場所にある通称「穴尻」と呼ばれる場所です。
用水路には多量の水が流れていました。

矢島にある全体マップ。
矢島とは、矢のようにとがった地形のことを指すそうです。
図にある「制札場」は、用水の監視、整備を見守るために指定した場所。
特に、用水の途中で掘削し、水を自分の耕作地に引いてしまう”水泥棒”を見張る水番の役目を当番で行った。


矢島の用水堰址(大土手)。
土手が崩れ、下部に水が溢れたこともあったとのことです。
周辺からの苦情もあったため、土手の管理には大変気を使っていました。

宝泉寺の売れ側にある用水の堀貫の入り口。
ここは、山に向かって川が流れているためか、上に向かって水が流れているような不思議な錯覚に陥ります。
布施の掛樋(現在はサイホン)~片倉堀貫
片倉隧道は昭和12年11月27日、現地調査のため隧道に入った農業大学校の学生8名が、なくなった場所近くの峠には慰霊碑が建つ。

かつての用水堰址。鹿曲川からの用水取り入れ口の横にある。
現在は、使っていない。写真では大きな石が落ちていいるが、この場所は蓼科の火山灰でおからがき(角礫凝灰岩・カクレキギョウカイガン)と呼ばれる岩盤の弱い地質であり、落盤が繰り返されていた。

おからがき堀貫。
用水取り口ちかくにある。

源泉。
衛生上の都合で蓋がされている。
水量は、300㎥(300t)/日とのことである。半分は水道水として利用されている。(水道局職員談)

源泉。
蓋を開けていただきました。

源泉に建てられた荻原井泉水の句碑「水は行くべき処へ行く」と刻まれている。
読めますか?

こちらは、おまけ編です。
五郎兵衛用水の源泉のやや下にある美笹地区にある「宇宙探査用地上局アンテナ」です。
道路から、見ることができますよ。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。