◆トレーニングツアー 2018.8.23(土)10:00~13:30 晴れ。
<コース>八幡神社・高良社⇒常泉寺⇒常泉寺参道~正門⇒東桝形⇒八幡神社前⇒本陣/脇本陣⇒富岡街道分岐⇒(盗人道)⇒本町公会場(学習会・昼食)
◆宿場ガイドツアー 2018.9.15(土)10:00~12:30 雨。
朝からの強い雨にも関わらず、多数のお客様に参加していただきました。
雨のため短縮コースとし、神社を中心に見学し、屋内での学習会を主軸にする。
<コース>八幡神社・高良社(見学)⇒街並み見学⇒本町公会場(宿場学習会)
八幡宿は、江戸板橋宿から24番目の宿場で、周辺の八幡、蓬田、桑山の三村の住民が移住してつくられた特殊な宿場である。江戸側隣の塩名田宿までが27町(約3㎞)、京側隣の望月宿まで32町(約3.7km)と宿場館間の距離が短いのは、千曲川の川止めの時の係留地としての役目や土地が強粘土質であり、悪天候時は人馬の通行の難所であったためといわれている。
また、周辺の土地はこの強粘土質の水田でつくられるブランド米「五郎兵衛米」の産地でもある。本陣問屋1軒、脇本陣問屋1軒(臨時も含め5軒の時もあった。)、旅館5軒または3軒であった。
1861年(文久元年)皇女和宮が宿泊した宿場である。
八幡宿Map
八幡神社レイアウトイメージ
祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、息長帯姫命(おきながたらひめのみこと=神功皇后)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)とされる。
859(貞観元)年、滋野貞秀公の創建と伝えられる。
随神門前にて
随神門の額「止戈為武」(右から読む。)が門の上部に掲げられています。1899(明治32)年に氏子依田氏一族により奉納されたもの。
「武とは戈(鉾)を止める為り」の意味である。
門の建立は、1843(天保14)年、牧野遠江守源康哉公が大願主となり、欅材は村内には少なく、春日村、同新町、岩下村などから切り出して運搬されたという記録が残されている。
和算額は長野県最古のものである。社務所前にレプリカが掲げられている。
武徳殿には、このほかに「本庄流鐡砲術」「荒木流捕手小具足」「相撲中」「永代奉額句合」「将棋相撲力記念」「戦勝祈願奉額剣道大会」などの額が収められている。
瑞垣門前。1708(宝永5)年、牧野周防守康重公が願主となり建立されました。
本柱2本のみで、重い屋根を支える構造になっています。現在のものは、1898(明治31)年に袖垣をつけ補強されている。
本殿は牧野遠江守源廉満公が大願主となり、寺尾山、諏訪山の材木が寄贈されたほか、塚原の池田源助、氏子の依田七兵衛から金百両が寄付、氏子三か村をはじめ、諏訪、上小、南北佐久にわたり浄財が集められた。安政10年から3か年を経て、1783(天明3)年に造築された。
拝殿は、1783~1784(天明3~4)に造築されたが、飢饉の影響を受けた為か、奥行き2間と狭いものである。
本殿の彫刻は、幕府御用の彫刻師高松亦八郎(またはちろう)による作品である。また、拝殿は全く趣きが異なり、諏訪の彫刻師立川和四郎の門人と伝えられ鋭い彫りが伺える。
<高良社>
八幡神社の北隅に位置する。この地は、官牧「望月の牧」の南斜面のあたり、御牧の守護神として祀られた。また、御牧を営む技能を有した高麗からの渡来人の社ともされる。名前は高麗社からの由来だとする説もある。
かつての八幡神社旧本殿が1708(宝永5)年に移設されたものである。このことは、後の改修の際に、柱の位置を記す符号から判明した。
<本陣問屋>
皇女和宮が宿泊した本陣小松五右衛門家は、中山道で残る本陣門では最も古いとされるものが残っている。和宮から下賜された折り紙などの品が保存されている。
<脇本陣>
脇本陣問屋の桑山村・鷹野半三郎(本陣西)、脇本陣の蓬田村・依田弥三郎(本陣前)、同じく八幡村・松澤太郎兵衛(本陣左前)、同蓬田村・小松勘左衛門(小山クリニック隣)、臨時同依田氏とされる。
<八幡山常泉寺>
曹洞宗玄江院の末寺。1493(明応2)年創建で、その時は臨済宗であったが、1616(元和2)年に玄江院2代目古山林鶴和尚が転住して、曹洞宗に改宗したようである。
寺の名前の由来は、境内の湧水があり常泉寺とした。湧水は、江戸沢鉱泉といわれ、人々の憩いの場であったようである。
<盗人道>
盗人道とは、日常生活で行き来していた裏道。大名行列など高貴の人が通行する際には必要な生活道路のことである。八幡宿では、租税を抑えるために間口を狭くし、奥行きを長くした建物が多い。