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渋沢栄一の佐久における軌跡

2021年02月14日 | ぶらり旅

2021/2/14(日)から始まる、NHK大河ドラマ「青天を衝け」に因み、多くの人が様々な文章を書いたり、写真などのイメージを投稿している方が多いことでしょう。その中の一人として、まとめながら自分の仕事に役立つことが見つかり少し遊んでみました。



佐久市内山には、「澁澤青淵先生内山峡之詩」の歌碑
があります。

どんなところにあるのか、行ってみましょう!

自分なりに、訳してみましょう。

百聞は一見に如かず
百見は一験に如かず



これは、
渋沢栄一が19歳の時に従兄の尾高淳忠と信州に藍の商いに来た際に、内山峡の美しさに感動したこと、一転して、世間の人びとの様子を論語で説かれた道徳にあてて詠んだものです。歌碑の最後には、「昭和十五年十一月廿四日建之 後學 木内敬篤 謹書」と彫られています。
なお、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」は、この漢詩から典拠されたものです。

読み下しは⇒こちらから
<要約>
 私は信州に商いの旅に向かった。上州の山々につながり神秘的な内山峡に入った。折しも紅葉の時期で緑に赤の錦がすばらしい。そして、険しく厳しい山道を、青天を衝く勢いで、よじ登り切り、頂上からの眺めは広がりと軽妙な変化があり味わいのあるものであった。
 その時、閃ひらめくものがあった。一心に精進して神仙の世界を求める者、反対に個人的な利益や名声のためだけにせかせかとする者、この両者、どちらに偏っても良くない。人間としての生き方はその中間にある。それは、智、情、意に通じるものである。

渋沢栄一という人物どんな人なの?
渋沢栄一は、江戸時代末期の天保11年(1840年)に武蔵国(埼玉県)深谷の豪農の家に生まれました。

子供の時から、年長の従兄、尾高惇忠に漢文を習い、親や祖父とともに商いに出かけていたことで商才を磨いていました。
青年期は尊王攘夷の志士として、従兄弟らと高崎城を乗っ取り、横浜焼討ちし幕府を倒そうと企んだり過激な活動をしていました。この計画は従弟の尾高長一郎の猛反対を受け入れ仕方なく中止しました。
しかし、この挫折が栄一にとっての正反対の道に進む大転機だったのです。丁度その時期に、一橋慶喜に使えることになり、江戸幕府15代将軍となった慶喜のもと重臣として登用され活躍しました。
そして、幕府の代表としてパリ万博に使節団として派遣され、続いてパリ滞在時に外国奉行支配調役となりヨーロッパ諸国を訪問し、産業や国家制度を学び、体験することで衝撃的な影響を受けました。
大政奉還により、明治政府からの命令により帰国後、大蔵省租税正に任命され、新貨幣・郵便・戸籍法・国立銀行条例・租税法改正など諸制度の制定や改革、鉄道開業、日本初の株式会社を設立しました。33歳で大蔵省を退官、ここからキッパリと政治からは一切退き76歳まで、実業界で企業約500 社、大学など教育施設、更に日本赤十字などの医療機関や現東京商工会議所などの設立と多数の後進の育成にも注力しました。

<新壱万円札のこぼれ話>

2024年からの新壱万円札のモデルは、渋沢栄一になるのはご周知のとおりです。
実は、過去にもお札のモデル候補になっているんだそうです。ところが、にせ札造りを防ぐための精巧な印刷技術がありませんでした。
そのため、髭やしわがあるなど複雑で偽造しにくい顔の人物が選ばれていました。

現在は、福沢諭吉や樋口一葉がモデルになっているように、偽造防止技術が進化したこともあり、渋沢栄一のお札が実現したのでしたことは、これが一因かも?

※ 2021/2/13(土)~2/23(日)まで、佐久市中込会館で紹介展示しています。



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