盛岡の北約100キロ。二戸市に入ると、その中心地に九戸城はあります。
↑案内板です。道が狭いので見落としてしまいそうです。
どうにも…規模が大きいお城のように見受けられます。
パンフもらいました。けっこう、文字が読めるとは思いますが…、どうでしょう?
いろいろ詳しく書いてあります。いいパンフです。
このパンフから分かるのは戦国時代末期(というか秀吉の時代)南部家の跡目争いで
南部信直と争った九戸政実の根拠地がここであるということ。
当時の南部氏の根拠地は八戸の西方。三戸あたりであったということ。
それから南部氏が盛岡に移るまで、この九戸城を本拠地にしていたということ。
その跡目争いは「奥州再仕置」と呼ばれ、秀吉の助力を取り付けた信直が優勢に働き、
結果的には六万対五千の一方的な戦いになったということ。
結局、住民や将兵の命を顧みた九戸政実が相手の申し出た降伏勧告に応じたが、
結果騙され、皆殺しの憂き目にあったということなどが記されています。
詳しくはWikiで→九戸政実
あと、画像も見てください→「戦国ダンシ 九戸政実」
ちなみに漫画→ 「マンガで読む 九戸政実物語」
さて、肝心のお城のほうなのですが、先ほどの看板を曲がると、狭い道を抜けて、「壁」が見えてきます。
ここから、当時の城壁の始まりのようです。
↑そこにあった説明書き。
さらに進むと、正門(大手門)あとです。
住宅が目の前です。
ここが九戸城跡。
広大な敷地です。写真中央上部の東屋付近に丁寧な模型(ページタイトルにあった写真の)と解説があります。
ちなみに入り口から入って右手に進みます。方角でいえば西に進むわけです。(正門はもちろん南向き)
歴史マニアなら、初心者にも分かりやすい解説。
↑丁寧な、いい解説です。
解説右手の二の丸跡。実に広いです。当時の築城規模がうかがえますね。
これは奥から見た方の二の丸跡です。
二の丸の北にある空堀です。
先ほどの二の丸跡東の道に戻ります。
北面すると、次は本丸に行くので、その前に虎口(こぐち)にでます。
虎口は敵の迎撃用にクランク状(かぎ状)になった通路です。侵入側は複数方向から攻撃を受ける作りになっています。
その様子がわかりますでしょうか。
石垣です。
さすがに、盛岡城跡のようにきれいに残ってはいません。
実に歴史を感じさせます。
こういうの私、好きです。
二の丸跡と本丸跡の間の空堀です。
こちら本丸跡です。
大変に広く、この後、南部氏の居城となった盛岡城(当時は「不来方城」)より広い感じがします。
おそらく井戸の跡。
本丸跡の説明。
この築城規模から考えるに、九戸城の方が、南部氏の居城としては規模が大きく、手放すのは惜しかったでしょうね。
本丸の右手、東側が追手門(裏門)になります。
東側の空堀です。
城の規模としてはかなり大きなものです。6万の大軍相手に持ちこたえたのも分かりますね。
そして搦手(「からめて」本当の裏門)跡です。
狭いですね。
搦め手を降りて北側の眺めです。東側には「舘」という城の外郭があります。
今はもうただの野っ原ですが…。おそらくはここにも砦があり、本丸と呼応しながら敵の侵入を防いだことでしょう。
多分、礎石の一部。
この城の周辺です。今でも低湿地であり、農業にも住宅にも転用されていません。
当時は水を引き入れて水堀にしていたのかもしれないです。
本丸の南東側にあるもう一つの舘、若狭舘です。
もちろん、今ではただの野原です。
でも、相当な広さです。
山がちな二戸でここまでの城の規模を取れるのは相当なものです。
南部氏が九戸氏を滅ぼした後、ここを居城にしたのも頷けます。
盛岡城の築城を待って、南部氏はここを離れます。確かに盛岡の地の方が平野が広いのでその後の経済的な発展は見込めたわけですが、城としての規模は失ったわけです。結果的に太平の世は来たわけですし、その決定は「当たり」だったわけですが。
城の南西側、「呑香稲荷」(「とんこういなり」)を訪れます。
鳥居をくぐって、石段を登る前に、古い建物があります。
説明板を読みましたが、よくわかりません。幕末期のもののようです。
九戸氏とはあまり関係がないようです。
石段の上からの眺めです。
「呑香」にはアイヌ語で「輝ける丘」の意味があるそうです。 →根拠のページ
東北はもともとアイヌ語由来の地名が多いですけど、神社にアイヌ語の地名が付くのは実に変な感じです。
おそらくは、北海道のアイヌとは別系統。もしくは和人が地名の音のみ借りたのでしょうね。
社殿です。
社殿から右手に行きますと、
広場に出ます。
ここがもう一つの舘、松ノ丸舘跡です。
これで、九戸城の旧跡はすべてです。
ちなみに、これが呑香神社境内にある、九戸政実を祀った神社です。
他にもいろいろな建物があります。
この神社がそれだけこの地で重要な役割を果たしているのでしょう。
神輿のある保管庫のようです。
「文庫」(昔の図書館)もあります。
文庫の存在は歴史的に大変貴重です。
さて、今度は九戸氏のもともとの根拠地である九戸村に足をのばしてみます。
この今では野山がもともとの九戸氏の居館だったようです。あまりに森なので、立ち入りませんでした…。
九戸神社です。
この杉木立からいって、相当に歴史のある神社です。
当然ですね。どう少なく見積もっても戦国時代からはある神社なんですから。
社殿は新しくとも。
社殿の右手には
九戸神社。
九戸政実はどんだけの人気者なんでしょう。
終焉の地、実質的なお墓である「首塚」を捜してみます。
「平和の像」なるものまでありました。
↓その説明板です。
ありました。首塚です。
近づいて、手を合わせます。
英傑と呼ばれた人物に。
ここまで時を越えて敬愛される人物に。
そういえば、さっき、変わった木が…。
なるほど、「同床異夢」ならぬ「異夢同根」の木というわけですか…。
ここまで因縁深い自然の一致が、人の世と無関係なはずの木々にあるなんて、本当に世の中って不思議ですね。
【撮影日:2015/6/7】
ちなみに、九戸城はこの辺。
九戸政実、ゲームではあんまり評価は高くないんだけどなあ…。
でも、すごい人だったんだなあ…。
→本「天を衝く」
↑案内板です。道が狭いので見落としてしまいそうです。
どうにも…規模が大きいお城のように見受けられます。
パンフもらいました。けっこう、文字が読めるとは思いますが…、どうでしょう?
いろいろ詳しく書いてあります。いいパンフです。
このパンフから分かるのは戦国時代末期(というか秀吉の時代)南部家の跡目争いで
南部信直と争った九戸政実の根拠地がここであるということ。
当時の南部氏の根拠地は八戸の西方。三戸あたりであったということ。
それから南部氏が盛岡に移るまで、この九戸城を本拠地にしていたということ。
その跡目争いは「奥州再仕置」と呼ばれ、秀吉の助力を取り付けた信直が優勢に働き、
結果的には六万対五千の一方的な戦いになったということ。
結局、住民や将兵の命を顧みた九戸政実が相手の申し出た降伏勧告に応じたが、
結果騙され、皆殺しの憂き目にあったということなどが記されています。
詳しくはWikiで→九戸政実
あと、画像も見てください→「戦国ダンシ 九戸政実」
ちなみに漫画→ 「マンガで読む 九戸政実物語」
さて、肝心のお城のほうなのですが、先ほどの看板を曲がると、狭い道を抜けて、「壁」が見えてきます。
ここから、当時の城壁の始まりのようです。
↑そこにあった説明書き。
さらに進むと、正門(大手門)あとです。
住宅が目の前です。
ここが九戸城跡。
広大な敷地です。写真中央上部の東屋付近に丁寧な模型(ページタイトルにあった写真の)と解説があります。
ちなみに入り口から入って右手に進みます。方角でいえば西に進むわけです。(正門はもちろん南向き)
歴史マニアなら、初心者にも分かりやすい解説。
↑丁寧な、いい解説です。
解説右手の二の丸跡。実に広いです。当時の築城規模がうかがえますね。
これは奥から見た方の二の丸跡です。
二の丸の北にある空堀です。
先ほどの二の丸跡東の道に戻ります。
北面すると、次は本丸に行くので、その前に虎口(こぐち)にでます。
虎口は敵の迎撃用にクランク状(かぎ状)になった通路です。侵入側は複数方向から攻撃を受ける作りになっています。
その様子がわかりますでしょうか。
石垣です。
さすがに、盛岡城跡のようにきれいに残ってはいません。
実に歴史を感じさせます。
こういうの私、好きです。
二の丸跡と本丸跡の間の空堀です。
こちら本丸跡です。
大変に広く、この後、南部氏の居城となった盛岡城(当時は「不来方城」)より広い感じがします。
おそらく井戸の跡。
本丸跡の説明。
この築城規模から考えるに、九戸城の方が、南部氏の居城としては規模が大きく、手放すのは惜しかったでしょうね。
本丸の右手、東側が追手門(裏門)になります。
東側の空堀です。
城の規模としてはかなり大きなものです。6万の大軍相手に持ちこたえたのも分かりますね。
そして搦手(「からめて」本当の裏門)跡です。
狭いですね。
搦め手を降りて北側の眺めです。東側には「舘」という城の外郭があります。
今はもうただの野っ原ですが…。おそらくはここにも砦があり、本丸と呼応しながら敵の侵入を防いだことでしょう。
多分、礎石の一部。
この城の周辺です。今でも低湿地であり、農業にも住宅にも転用されていません。
当時は水を引き入れて水堀にしていたのかもしれないです。
本丸の南東側にあるもう一つの舘、若狭舘です。
もちろん、今ではただの野原です。
でも、相当な広さです。
山がちな二戸でここまでの城の規模を取れるのは相当なものです。
南部氏が九戸氏を滅ぼした後、ここを居城にしたのも頷けます。
盛岡城の築城を待って、南部氏はここを離れます。確かに盛岡の地の方が平野が広いのでその後の経済的な発展は見込めたわけですが、城としての規模は失ったわけです。結果的に太平の世は来たわけですし、その決定は「当たり」だったわけですが。
城の南西側、「呑香稲荷」(「とんこういなり」)を訪れます。
鳥居をくぐって、石段を登る前に、古い建物があります。
説明板を読みましたが、よくわかりません。幕末期のもののようです。
九戸氏とはあまり関係がないようです。
石段の上からの眺めです。
「呑香」にはアイヌ語で「輝ける丘」の意味があるそうです。 →根拠のページ
東北はもともとアイヌ語由来の地名が多いですけど、神社にアイヌ語の地名が付くのは実に変な感じです。
おそらくは、北海道のアイヌとは別系統。もしくは和人が地名の音のみ借りたのでしょうね。
社殿です。
社殿から右手に行きますと、
広場に出ます。
ここがもう一つの舘、松ノ丸舘跡です。
これで、九戸城の旧跡はすべてです。
ちなみに、これが呑香神社境内にある、九戸政実を祀った神社です。
他にもいろいろな建物があります。
この神社がそれだけこの地で重要な役割を果たしているのでしょう。
神輿のある保管庫のようです。
「文庫」(昔の図書館)もあります。
文庫の存在は歴史的に大変貴重です。
さて、今度は九戸氏のもともとの根拠地である九戸村に足をのばしてみます。
この今では野山がもともとの九戸氏の居館だったようです。あまりに森なので、立ち入りませんでした…。
九戸神社です。
この杉木立からいって、相当に歴史のある神社です。
当然ですね。どう少なく見積もっても戦国時代からはある神社なんですから。
社殿は新しくとも。
社殿の右手には
九戸神社。
九戸政実はどんだけの人気者なんでしょう。
終焉の地、実質的なお墓である「首塚」を捜してみます。
「平和の像」なるものまでありました。
↓その説明板です。
ありました。首塚です。
近づいて、手を合わせます。
英傑と呼ばれた人物に。
ここまで時を越えて敬愛される人物に。
そういえば、さっき、変わった木が…。
なるほど、「同床異夢」ならぬ「異夢同根」の木というわけですか…。
ここまで因縁深い自然の一致が、人の世と無関係なはずの木々にあるなんて、本当に世の中って不思議ですね。
【撮影日:2015/6/7】
ちなみに、九戸城はこの辺。
九戸政実、ゲームではあんまり評価は高くないんだけどなあ…。
でも、すごい人だったんだなあ…。
→本「天を衝く」
この度九戸城の戦いについての記事を書かせていただいたのですが、その際に岩手吟遊詩人さんのこちらの記事を参考にさせていただきました。
九戸城で大量の人骨が発見されたのは衝撃ですね。この手の虐殺の話は誇張されていることが多い印象ですが、実証の補強材料になったということですね。
いつか訪れてみたい城です❗
それと、誠に勝手自ブログにて岩手吟遊詩人さんのこちらの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください❗
http://washiya.sapolog.com/e489455.html