
2年生の先生が、所用でお休みした。
2年生は、学年の二人の先生の連携がとれている。
こうしたとき、合同授業を多く組み、主任が二クラスを指導しようとしてくれる。つまり、70人を二人の教師で見るというスタンスでいてくれる。
しかし、かといって実際に一人で70人は大変なので、T2役として助勤をつけている。
1時間目の音楽の時間は、私が助勤に入った。
主任が指導と指揮を受け持ち、私は伴奏をさせていただいた。
この授業に参加しながら、いろいろと考えた。
ここまで育っている子ども達、もうきっと後戻りできないだろうなと考えたのだ。
彼等、彼女らにとって、歌うとはこうした表情で、このぐらい気持ちよい声で歌うことなのだと思う。それしか知らないのだ。
しかも、片方のクラスだけがそうなっているのではなく、両クラスの子ども達が同じ価値観を作りつつあるのだ。学年が共同することによって。
すると、たとえ進級してクラスが変わったり、担任が変わっても子ども達は、こうした歌を求めていくだろうと思う。
新採の先生が来ようが、違う学校から赴任してきた先生が担任になっても、子ども達は、このような表情で気持ちよさそうに歌うだろう。
すると、新採の先生であっても、違う学校から赴任してきたばかりの先生であっても、その要求に応えなければならなくなるだろう。
ぬるい指導、通り一遍の指揮では、子ども達が許してくれなくなるのだ。
よい声で歌う(頭声発生)には、こんな呼吸を教えてはだめだという人がいる。こんなに、声を出させることを要求してはいけないと言われる。
私たちも、良い声で歌うためには、頭声発生に持っていかなければならないと考えている。
ただし、到達目標は同じでも、その過程が違うのだと思う。
最初から頭声発生を教え、「頭の上から声を出しなさい。」と指導しても、できるようになる子は、音楽の得意な子だけだ。
先生が何を求めているのか分からないのだ。
分からないけれど
「だめ、そんなに怒鳴っては。」
「だめ、もっときれいな声で!!」
と言われ続け、彼等なりに考える。
きっと、もっと小さい声で歌うんだ。
ぼくは音痴だから歌わない方がいいんだ。
音楽なんて、早く終わらないかなあ....
だから、細かく切って、今何をしたら合格なのかを一つ一つはっきりさせてあげる。何を指示されているかはっきり分かれば、子ども達もやってみようとする。
やってみれば、何かしら得るものもある。感じるところもある。やらずにリタイヤするのとは大違いだ。
口は、こんな口なんだよ。
目は、こんな目なんだよ。
息は、こうするといっぱい吸えるよ。
歌うときは、息を吸うときに涼しく感じるところに声を出すんだよ。
手の向きをこっち向きにすると、余計な力が抜けるよ。......
口ができた。褒めてもらえた。
目ができた。褒めてもらえた。
息が吸えた。いつもより楽だった。
足で大地を掴んでみた。きっとこんな感じなんだ。
....
そうした成功体験を一つ一つ積み重ねていく。
子どもはどんどん吸収し、欲が出てくる。
「先生、ここまでできた。だけど、6年生みたいなきれいな声にはどうするとなれるの?」
と、次第に子ども達は頭声発生を求めていくようになる。
自発的に。
無理矢理教えられた頭声発生と、自発的に進化してたどり着く頭声発生。
おそらく同じ頭声発生でも、聞き比べれば違いは明らかであろう。
表情が違うし、明るさが違うし、ボリュームが違うし、なにより本気で参加している子ども達の割合が違うのである。
2年生に、こんな要求は無理だという人もいる。
指導要領ではもっと上の学年で出ているから、まだ早いという人もいる。
いや、世の中にはもっとすごい歌を歌う2年生は山のようにいる。
それを、見たり聞いたりしたことがないのだ。教師が。
指導要領は、最低限のラインである。せっかく目の前に高見を目指すためなら、多少の苦労は我慢しますと言っている子ども達がいるのである。みすみす、低いレベルに合わせることもないだろう。
追求する教師がいるところには、必ず追求する子ども達が育つ。
追求しない教師がいるところには、追求しない子が............................................
追求する教師と、追求しない教師、どちらに教わるかによって子ども達に明暗が分かれるようでは悲しいのである。
○まず、斎藤喜博著「私の授業観」のなかの学校の質の高さに関する文章を思い起こした。
学校の質の高さについて・・・「もちろん私の学校の子どもたちのなかにも、社会とか家庭とかの悪い影響を受けて、通俗的な要素を持っている子どももいる。しかし、そういう子どもの悪い面が封じられているは、封じられているどころか目をみはるような美しいものを出しているのは、学校の質の高さである。そのなかでそういう子どもたちも、質の高いものをつぎつぎと引き出されていっているからである。放っておけば通俗的で俗悪なものだけがはびこってしまう子どもが、質の高いものを引き出されることによって、通俗的なものとか俗悪なものとかを消してしまっているのである。」
以下はMrヒデ ・・・ このブログの歌う子どもたちの写真を見て、何と上品で清潔で美しい顔なのかと思う。どこの学校でも見られるような顔ではない。斎藤喜博が言われるような通俗的なものとか俗悪なものとかを消してしまっている顔である。
○「片方だけでなく両クラスの子どもたちが同じ価値観を作りつつある」
これは凄いことである。教師が開かれていないとできないこと、価値を共有していないとできないことである。
○「新採の先生であっても、違う学校から赴任してきたばかりの先生であっても、その要求に応えなければならない」
まず、その先生がこの価値を感じるかどうかがスタートである。次にそれに対して逃げるか立ち向かうか。誰からでも教えを請うか等であろう。そう考えると新採の先生の方がベテランの先生よりもいいかもしれない。
○「よい声で歌うためには、頭声発声にもっていかなければと考えている」
これはよくあることである。概念的、形式的な教師にありがちである。意外にも音楽専科の先生に多いかもしれない。
○「『だめそんなに怒鳴っては』『だめ、もっときれいな声で!』『もっと、もっと小さい声で歌うんだ。』そう言われ続け、彼らなりに考える。」「ぼくは音痴だから歌わない方がいいんだ。音楽なんて、早く終わらないかなあ・・・」
その通りですね。こんなことで子どもの何を育てようとしてるのだろうか。うまい、きれいな声でなく、人間全体の力から出る「命の吹き出るような声」これが美しいのだ。生きていることなのだと思いたい。また、これらの力は、すべての学習や生活に影響していくことなんだ。これが教育としての歌です。
○「先生、ここまでできた。だけど、6年生みたいきれいな声にはどうするとなれるの?」
学校は子どもが高学年になるに従ってよくならなければならない。そうでなければ学校としての責任ある仕事を年月をかけてしていないことになる。下級生が6年生みたいになりたい、そんな望みや憧れを持つ学校にしたいね。これとは逆に高学年になるほど悪くなる学校はたくさん多くある。
○「無理矢理教えられた頭声発声と、自発的に進化してたどり着く頭声発声。おそらく同じ頭声発声でも、聞き比べれば違いは明らかであろう」
私はいつも思う。全国合唱コンクールに出場する選ばれた子どもたちの合唱とここの学校の子どもたちの合唱は明らかに違う。好みにもよるかもしれないが、ここの学校の子どもたちの合唱のほうがずっと人間的であり、感動的であり、教養があり、人の心を動かす。
○「世の中にはもっとすごい歌を歌う2年生がいる・・・・それを見たり聞いたりしていないのだ。教師が。」
先生が勉強しないからです。しかし、目の前にすごい子どもがいても感じ取れない先生もいる。感性が貧弱というのか。そんな先生に受け持たれたら子どもたちは不幸です。先生によって、子どもたちの明暗が分かれる。そのとおりです。
○ここは、歌声で考えているが、すべての学び方や生き方に通じることです。
○教育の最終目的は教科指導等を通して、子どもたちの人間形成をすることである。
※totoroさんのブログから、私の感想を思いつくまま記してみました。どれも私の本心です。
※totoroさんのブログを多くの先生方に読んでいただきたいですよね。ぜひ、遠慮することなく広めてください。
いつも迷います。
「もっと授業を細かく切って、分析し、追求させましょう。」「歌は、まだまだ全然力を出し切ってません。もっと引き出してあげましょう。」
などと、私が言えば言うほど、今まで頑張っていた教師はさらに頑張り.............
これでは、よくないと迷うのです。
しかし、これは子ども達の姿という事実を創造し、実際に子どもにはこんな力があるということを、見せなければ変わりません。
クラスを持たない私にとって、大きな矛盾です。自分は言葉を発するのみで事実を創造できない。
だから、今回の「表現を見合う会」はなんとしてもレベルの高い発表会にしたい。それの気持ちを皆が共有できるように、前進するつもりでいます。
私の好きな「むのたけじ」という詩人の詩の中に
「人は、幾千もの矢が射かけられようとも、地に匍ってでも進まなければならないときがある。その場に立って、矢を受け止めて死ななければならないときもある。」
といったものがあります。