8月2日に、授業研究の会の夏期研修に参加した。
私は、3年グループに参加し、モチモチの木の解釈に入れてもらった。
ラッキーなことに、三重の中井さんと同じグループだった。
中井さんから、ものすごくたくさんのことを学んだ。
今の自分の実践の上っ滑りしていることを感じた。
また、浜松の会の内容も、もっと原点に返って、調べて、調べて、調べ通すものにしないと行けないと感じた。
ただの、実践発表だけでは、いつまでたっても、力はつかない。
中井さんみたいな教師になるにはどうしたらいいのか。
その中井さんの頭の中を、ちょっとだけ垣間見ることができた。
一の場面 「おくびょう豆太」
二の場面 やい、木い
三の段落 霜月二十日のばん
この3つの段落を通して読むと次のようなことが分かる。
じさまは、豆太をなるべく早く、じさまやおとうのような、きもすけにしなければならないと思っている。
焦りさえ感じている。
だから、霜月二十日のばんに、モチモチの木に灯がともるのを一人で見てみろと、初めて豆太に、成長するように少し要求してみる。
しかし、じさまの予想通り、豆太は受け入れない。
ここまでで、いくつか大きな問題点が出てくる。
・なぜじさまは焦っているのはなぜか。
・じさまが、豆太を教育する使命を感じている反面、とても優しい。これは何か負い目というか理由があるのではないか?
・勇気を出させたい理由は何か?
・ハードルを上げると、豆太がよけい勇気を出せないのに、あえてモチモチの木を持ち出したのはどうしてか?
じさまの行為は「結果」なのだから、その「原因」があるはずなのだが、探しても見つからない。
じさまは、かなり危険な猟をして生計を立てていていつ死んでもおかしくない。また、齢64才なので、いつまでも今の青じし猟を続けられる訳ではない。早く豆太を一人前にしたいのだと考えられる。お父さんもお母さんも、兄弟も親戚もいないのだから。
その根拠がみつからない。
四の場面 豆太は見た
外はすごい星だった。
月も出ていた。
満月だと、すごい星にはならない。
旧暦なので、月の満ち欠けが分かる。
旧暦23日が下弦の月の半月なので、半月より少し膨らんだ形で、9時~9時半ぐらいに昇ってくる。
満月ほど明るくはないけれど、夜道が見える程度には明るい。
豆太がモチモチの木に灯がともるのを見たのは、小屋へ入るとき。
モチモチの木は、小屋の前にあるから、豆太がモチモチの木を見ることができたのは、表へとびだしたときと、小屋へ入るときしかない。
「モチモチの木に灯がともる=神様の祭り」を医者様は知らない。
そのとき、豆太はどう思ったのだろう?
「モチモチの木に灯がともるのを見る」に執着心はあったのか?
・普通なら、医者様の言葉を否定したり、もう一度見て、確かめるはずだ。
・だって、「見てみろ」とじさまに命令をされている。
・いそがしかったからとあるから、「忙しい」、と「見てみろ」では、忙しい方が大事だった。
・モチモチの木に執着したのは、きっとじさまだ。
五場面 弱虫でも、やさしけりゃ
豆太は、以前と何も変わらない。
それでも、
じさまが元気になった晩から、しょんべんにじさまを起こしている。
臆病豆太のままだ。
勇気のある子に変わったわけではない。
じさまの言葉の中に、大切なことが書かれている。
・おまえは、山の神様の祭りを見たんだ。
確かに、モチモチの木に灯がついたのを見ている。
・お前は、一人で、夜道を医者様よびに行けるほど、勇気のある子どもだったんだから。
ここがおかしな論理になっている。
モチモチの木は、「一人のこどもしか見えない。」はずだ。
医者様の背中で見たのは、「一人の子ども」と言ってもいいのだろうか?
本来なら、モチモチの木は、表戸をふっとばしたときに見るものだと思う。
しかし、そのときの豆太は
ふもとへの道を見ることで精一杯でモチモチの木は見ていない。
痛くて、寒くて、怖いのとでモチモチの木は見ていない
医者様におぶわれ安心して、ねんねこにくるまれ温かくなって
初めてモチモチの木を見る余裕ができた。
勇気を出したときに見たのではなく、その後に見たのだ。
ということは、じさまが、自分で自分を納得されているのではないだろうか。
・自分で自分を弱虫なんて思うな。
豆太は、自分のことを弱虫とは一度も言っていない。
どうして、急にそんなことを言うのか?
・人間、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは....
ここもじさまの言動がおかしい。
臆病ではだめ、勇気がなければだめと考えていたのに
やさしささえあればと言っている。
「優しさ=勇気」だと、じさまの考えが変わっている。
前の文の「勇気」を「やさしさ」に変えてみる。
お前は、一人で、夜道を医者様よびに行けるほど、やさしい心のある子どもだったんだから、山の神様の祭りをみたのだ。
と言い換えることができる。
じさまの価値観が、豆太の行動で変わったのだ。
だから、豆太が臆病なことに寛容になれるようになって、は、は、はと笑っていられるように変わったのだ。
ここまで読んでくると、このお話はこうなる。
豆太が臆病で勇気がないので、早く鍛えて一人前にしなければならないとじさまは焦っていた。しかし、豆太の行為を通して、臆病でもやさしさがあれば、やらなくてはならないことは、きっとできるから、今のままの豆太でよいのだと心変わりをした。
主題は、優しさがあれば、人間はときに勇気も出せるし、やるべきことも乗り越えることができる、といった所か?
私は中心人物は豆太だと思っていた。じさまを中心人物として学び初めても、半信半疑だった。ここまできて、目から鱗の感がある。
また、おかしな想像だが、「モチモチの木に灯がともる」は、じさまの自作自演かも知れないなどとうがった見方もできそうな気がしてきた。
モチモチの木に灯がともる晩に、豆太にその話をする。
腹が痛いのは演技。
だとすると、急にその日に「モチモチの木の話をしたこと」の説明がつく。
しかし、勇気を出させるための演出が
豆太の行為によって
逆に、じさまの価値観を変えてしまった。
どうだろう?
45回 | 9月6日 | 土 | 9:00 | 12:00 | 天竜壬生ホール | 第2会議室 |
46回 | 10月18日 | 土 | 9:00 | 12:00 | 天竜壬生ホール | 第2会議室 |
「ちいちゃんのかげおくり」の教材解釈を学年でやっているようですが、みんな教材が同じであるので一緒に勉強できますよね。
この際、う~んと学年主任の立場を利用して、「授業研究の会」の国語の授業づくりを教えてあげてください。
こういうことがないと私たちの目指す授業のよさが広がっていきませんからね。御活躍を!