ガワ萌ヱ日報

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海外メディアの資料で見る福島第一の事故経過

2011年04月24日 19時35分38秒 | 未分類
某所でニューヨークタイムスが作成した放射能レヴェルの経過変化資料を拾ったので、
自分なりにフクシマを振り返ってみることにした。

以下の図表は極秘資料でもなんでもなく、
公表された数値を時系列で整理しただけのもの。
つまり、当初は一般人に知られてもかまわないとされていたが、
その後、国内のマスコミがこの手のものを作成、検証、報道した記憶がない。




横軸は3月11日からの時間経過。
縦軸は放射線量。単位はミリシーベルト/1時間。
1シーベルト=1000ミリシーベルト。
1ミリシーベルト=1000マイクロシーベルト。

黒い実線=発電所ゲート付近の値
赤い太線=原子炉建屋付近の値
赤い細線=事務棟の値


①3月12日午後、1号機原子炉建屋で水素爆発。

建屋の天井裏に溜まった水素が爆発して、建屋上部を破損。
周辺の放射線量が僅かに上昇。
炉心ではウラン235の崩壊熱による温度上昇で、
燃料被覆管のジルカロイ合金の溶融が進んで水素が発生した。、
同時に、被覆管内にに中に封じ込められていた放射能が外に漏れ出し始める。

翌13日には、ドライベント(炉心内圧を下げるための圧力弁開放)による、
放射能の増加が見られる。


②3月14日昼ごろ、3号機原子炉建屋で素爆発。

辛うじて格納容器と使用済み燃料プールは残ったと思われるが、
建屋の破損状況は悲惨を極める。
この頃から、原子炉圧力容器内への海水とホウ酸の注入が始まり、
一旦は放射能レベルが低下する。

しかし数時間後の14日夜、4号機で原子炉建屋で燃料貯蔵プール由来の水素爆発。
4号機は点検中で稼動していなかったが、
使用中のまだ充分に活動的な燃料を一時的にプールに貯蔵していたため、
一気に水温が上昇→沸騰→蒸発→露出→溶融→爆発の過程が進んだと思われる。
以降、原子炉建屋付近の固定計測機器(モニタリングポスト)の放射線データは公表されていない。


③3月15日、2号機の格納容器に付属する圧力調整室が爆発。

一気に大量の放射能が放出しているのは、この時までに燃料棒の破損が進み、 
結果的に、圧力容器の密閉性が大きく損なわれたことによる。
こまたの頃から、高濃度汚染水の漏洩が始まっていたと考えられる。


④続いて4号機原子炉建屋で火災発生。

この後数時間のうちに大きなピークが3つ続いているが、
火災によっても爆発に匹敵する放射能が放出されていることに注目したい。
重要なのは、何が燃えたかではなく、
何が発火につながる高温の熱源になったかということ。
そこにバッテリー類があれば火元となった可能性が高いが、
個人的には、プールの底に溜まった核燃料ペレットが、
一時的に再臨界した可能性を否定しきれない。


この頃、ワタシは真剣に国家崩壊の危機を感じていた。
15~16日にかけての放射線量の乱高下は、
圧力容器の底に溶け出した燃料ペレットが溜まる→
局所的な再臨界を繰り返す→
底が抜けて制御棒が脱落する→フルメルトダウン→水蒸気爆発
という最悪のシナリオを考えさせるに充分だった。


⑤3月17日、自衛隊のペリコプターによる3号機プールへの海水投下。

これ以降、放射線が減少傾向となり、事態悪化に一定の歯止めがかかる。


⑥3月18日、午後~早朝にかけて、東京消防庁ハイパーレスキューによる長時間放水が行われる。

水蒸気による一時的な放射能の飛散増加はあるが、
この日から電源復旧にむけた作業が開始される。



グラフの右側は一般的な被曝量との比較。
1時間当たりではなく、1回あたりの放射線被曝量。

1.全身のCTスキャン 10ミリシーベルト前後

2.米国における年間総被曝量 6ミリシーベルト

3.米国における自然界からの年間被曝量 3ミリシーベルト

4.胸部レントゲン1回あたりの被曝線量 1ミリシーベルト 



福島県では、1時間あたり3.8マイクロシーベルト以下であれば、
児童の野外活動を制限しないという。
仮に1日平均3時間程度外で過ごすとして、約12マイクロシーベルト、
遠足等を含めると、1年で約4ミリシーベルト。
小学校に6年通うと20ミリシーベルトを超える。
一方、幼児の放射線に対する感受性は成人の5倍程度といわれている。

この判断が妥当か否か、結果がわかるのは今から5~10年後になる。




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