うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

憑かれてみよ

2006年10月02日 | ことばを巡る色色
心の中に幾つか「壷」があり、私は毎日それをいっぱいにすることに腐心している。私は今注いでいる壷にしか目がいかない。その壷の底がどこにあるのか、注いでいる私自身にもわからない。いっぱいになったときに、「ああ、これで得心した」と思うだけなのだ。これはきっと、幼い頃からの私の性分である。次の壷にどんなラベルが付いているのか、私は知らない。いつの頃からか、その名前にぼんやりと明かりが灯り、私はただただ注ぎ続ける。たぷたぷとそれが面を揺らし、とくとくと溢れ出てしまうまで。いっぱいになってしまった壷は、「OK」と書いた封がされ、時に忘れ去られたり、時に思い出されたりしながら心の中でゆっくりと発酵するのだ。きっと空腹なのだろう、私は。おなか一杯になるまで調べつくし、知り尽くし、自分のものとしなければ我慢がならないのだ。
そんなこんなで、熱中したものが幾つかある。作家であれば全ての著作を読み、経歴を知り、好みのものを自分も手にしてみなければ気がすまなかった。物であるのなら、入手方法を調べつくし、もっとも格安で良質のものを手に入れることが、「勝ち」であると思えてしまう。
「憑き物」という言葉があるが、それに近いのかもしれない。そうして憑かれているとき、私は幸福だ。寝食を忘れわが身を捧げつくす。「かりうど」なのだ。獲物を追い詰め追い詰めぐうの音も出ないほどに仕留めてしまわなければイヤなのだ。「こども」なのであろう。仏教者に「餓鬼」と呼ばれるものかもしれない。それへの飢餓、飢えて、喰らい尽くそうとしているのだ。他には何も見えなくなってしまう。そうして、身がそれで埋め尽くされると、そうだ、「憑き物」が落ちたように、何の執着も無くなり、その壷は冷暗所に移動され、わたしは次の壷へと取り掛かるのだ。その熱中ゆえに私は幾つかのいささかのオーソリティでもあるのだが、実は、「オールドノリタケ」はただいま冷暗所にて、緩く発酵中である。
そうして今はといえば、「オークションで入場券を落札して美術館に行くぞ!」にaddict。見たいものは、広く時代を経た庭と建物。美術館はこの条件を満たしているところが多い。新進建築家の建物もおもしろいのだけれど、昔のお大尽が膨大なエネルギーを費やして集めたコレクションと邸宅と庭は、魅惑的だ。高い天井からつるされた巨大な鉄の電燈。西洋建築を模しているのにはめ込まれた欄間。大理石と格子戸と漆喰。混沌とした和洋の奇妙な調和。そうだ、みんな美術館に行こうぜ、古き建物を見に行こうぞ。
さて、この休日の美術館めぐりは、尾張徳川家の「徳川美術館」。殿様の邸宅に「源氏物語絵巻」「初音の調度」を持ち、「徳川園」という庭園を有する名古屋屈指の美術館です。記憶ではここを訪れるのはこれで3度目。4度目だったかもしれない。昔ここを訪れたときは、市民公園のように近所のおばさんやらおじいさんやら子どもやら外交場所だったのだけれど、随分整備されて威風堂々となっていた(私はあの頃の雑然とした感じも好きだったけどね)。館内も私の記憶とは異なっていた。もっと薄暗く、埃っぽかったような気がするのだけれど、真っ白に整えられていた。どうも、「愛・地球博」を期に改修されたようなんだ。刀、調度、茶道具、能衣装、その上、御伽草子に殿様の写した明治の写真。たっぷりの展示品でございました。やはり今回も、往時そのままに残されているという邸宅の玄関に心ひかれた。大理石に象嵌された、西洋建築とも和風ともいえぬ不思議な佇まい。御見それいたしました。
ぼんやりと重い雨が降っていて美術館巡り日和ではあったのだけれど、池や滝を持つ庭園「徳川園」は後ろ髪を引かれつつあきらめ、その入り口にある、昭和の迎賓館を移築したという「蘇山荘」でお茶をいただく。お庭には雨が降り続き、私は昭和初期の紳士淑女の集ったおうちの深いソファで珈琲を飲む。
だからもう一度言おう。みんな美術館に行こうぜ、古き建物を見に行こうぞ。



コメント (10)
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