うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

苛められる私 苛める私

2006年11月07日 | ことばを巡る色色
たとえば私が、「あんたなんか、チビでデブでオバハンで育ちが悪くて偉ソブッテテ薄情で」って言われたら、私はきっととてもとても腹を立てるだろう。「ふざけんじゃねえ」と2.3発殴ってしまうかもしれない(現実はほとんど、こうやって言われたことはない。『何なら殴ったろか』光線がいつも私の周りにはゆらゆらしているからであろうか)
これらのことを言われて、何ゆえ腹を立てるか。「本当のこと」だからである。かつ「気にしている」からである。かつ「変えられない」からである。「本当のこと/気にしている/変えられない」この3要素が全て揃うと、致命傷になる。人によっては2つ揃っただけで、心の弦をでたらめに掻き鳴らされている気になって相手の胸倉をつかんだりする。こういう人は「奴は怒りっぽいぜ、触らぬ神にたたりナシだぜ」となる。また、地獄に繋がれたような気分になる人がいる。こういう人は「腫れ物に触るよう」と表現されたり、バカな奴に「言うと気にしておもしれーぜ」なんていじめられたりする。
「変えられない」 その理由はそれぞれであろう。たとえば、チビなんて、努力をしたって変えられるわけがない。育ちにしろ、生まれにしろ、当人の責任ではない。
また、人になんと言われようと変えられないこと、もある。忘れたい記憶を忘れられないのは、それがよかれ悪しかれ自分を育てたものであるからだろう。それがなくなってしまえば、自分は自分でなくなってしまう。それを乗り越えようとしたり、振り回されたりしながらも生きてきたのが、自分であるからだからである。「ウザイから違う性格になれ」と言われたって、そうは行かない。悪しき物であろうと、自分の過去を自分は抱えて生きているのだ。悪しき過去でも、自分にとっては自分の過去であり、性分は自分の性分だからである。それを愛するのは権利であり、尊厳である。他者にどうこう言われる筋合いのものではない。だから、「どうこう言うな」と言ってやればよい。

人は心の底に、「差別」の心を持っている。いや、少なくとも私は持っている。自らの何かしらを自慢するとき、私はそれと反対の物への差別の心を持っている。ああはなりたくない、と思うことは、「ああである人」への差別である。私は私の心の中の澱んだ物を覗き込む。じっと、暗い底を覗き込み、そんな心を持ちながら、あごを引いて歩く。見届けなければならない。自分がこんな澱んだ心を持ちながら、どこまで、自分と向き合いつつ、どこまで、目をそらさずに歩いていけるか。否定してはならない。目を閉じて見えない振りをしてはならない。私は被害者で、加害者だ。
コメント (13)
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