うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

はたらく

2006年12月02日 | ことばを巡る色色
はああ、とにかく内職ラッシュ第一弾プチ第二弾をこなした!!
今日は大物初物第3弾がやって来たけれど、思ったより仕事は少なくって、だからうらうら。ふふ、人間なんと言ってもお仕事や。働いて、自分の食い扶持を稼いでいる人はそれだけで真っ当な人生だ。考えてみると、長い長い間働いてきたもんだ。高校のときは親戚の家庭教師。それから、家庭教師数件、大手スーパーの年末売り子、歳末の餅売り、ウエートレス、スナックホステス(!)、福引のアシスタント、試験監督、文字連ね系の内職、試験採点、データ入力、選挙のウグイス嬢(今ではこんなお仕事もないわね)こんな人生の中、ちゃんと社会保険に加入していたのは、たった3年。社会保障システムから守られないところで生きてきたんだな。
「所属している人」は苦手だ。守っているから。自分の所属場所を守るとき、人って本当に残酷になるし、意地を張るし、周りのことが見えなくなるような気がする。君の守っているものは本当にそんなに意固地になる価値があるんでしょうか?そんなにすばらしい物なんでしょうか?何より、相手は守られることを望んでいるんでしょうか?
これはあくまでも私の私的な意見なんだけれど、人間には守られるべき人と守られなくてもいい人がいる。それを間違えると悲しい諸々がやってくる。そうして守られるべきときと、そうでないときもある。これも間違えてはいけない。
皆が信じているもの、守るべきだと信じている物って、そんなに堅固なものなんだろうか。うちの会社とよその会社とか、うちの子とよその子とか、うちの家族とよその家族とか、相手を傷つけても守らなければならないって、本当は錯覚じゃないのかな。
そうそう、社会保障の話。世の中に困ったことが起こっているんだけれど、それは守られるべき人が過剰に「選択の自由」と「自己責任」を負っていること。その反対に、多分守られなくとも自己判断の出来る人は、その先見で、守られる立場を謳歌している。年金なんてなくても暮らしていける人が年金を貰い、年金がないと暮らせない人がもらえない。そういう間違いではないんだろうか。
守られなければならない人を守ることは面倒なことだ。いちいちを決めてやらないといけない。手間もお金も掛かる。非効率的だし、儲けにはならない。そりゃ、毎日会社に出てきて、仕事をパキパキこなしてる人を誰だって正社員にしたいよね。だから、ちょいと社会生活が苦手な人に対して「厚生年金のあるとこに入る必要なんてないんだよ、自分の好きに生きるのがいいんだよ」と言いくるめているんじゃないんかな。
同じことは「神様」にも言える。世の中には神様が必要な人がいて、必要でない人がいる。昔々は、みんな貧しかったから、どこにでも神様がいた。でも、誰かが神様を日本人すべてから取り上げてしまった。平気な人もいれば、そうでない人も居るのに、取り上げてしまった。いわば「お天道様の沈黙」。朝遅く起きても、だらしなく生きていても、見ているものはないんだから平気だね。
若者は、とにかく2年は社会保障のある会社に勤めるべきだと思う。そうすれば自分が社会保障の要る人かそうでないか少しは分かるだろう。そうしてお天道様と読み書き算盤だよね。「希望」って、練習は人を変えると信じることだよね。立ち止まらず、歩き続ければ、いつかは少しずつでも、変わっていけるって信じることだよね、自分も、他人も。
昨日、なごやに車で行った。次の予定まで3時間ばかしぽっかり空いてしまったので、中村ユニーに行き、パンを買ったり、中村大門辺りをそぞろ歩いてみたり。それでも時間が余ったので、中村ユニーのフードコートで、スガキヤのあんみつを食す。猛烈な睡魔に襲われ、フードコートの硬い椅子、壁にもたれて1時間眠ってしまった。目覚めたらどっぷり風邪を引いていて、今日はぼんやりしている。少しだけ、いい気分。体はだるいのだけれど、感覚とか思考とかは幕を張ったように、ぼんやり。続きを書こうと思ったけれど、いい気分に浸っていようかな。
コメント (6)
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