うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

深い衝撃

2006年12月25日 | ことばを巡る色色
今日はクリスマス。キリスト教者でない私には関係ないお祭りだけれど、よそ様のお宅のイルミネーションを見学にいったりした。皆さん、毎年、アイテムを増やし、加熱していく一方。電気代が心配で仕様のない私は、きっといつになってもしないだろうけど、見学はただだから、イブは見学ドライブ。
そう、昨日はイブだった。明日からの仕事の準備にイブとクリスマスの今日はお休みにしたのだけれど、「イブ」というお祭りにもかかわらず、昨日のメインは、ディープインパクト。お馬さんだ。昨日も強かった。私は馬券を買うわけではないので、ただただ、ディープインパクトの寡黙な走りを見ているだけだ。後方からゆっくり力を溜め、加速をつけ、一気に抜き去る。当たり前だけれど、お馬はインタビューに答えたり、手を振ったりすることもなく、黙々と走り去っていくんだなあ。ゴール前の他を寄せ付けぬ走りは、最盛期のカールルイスのように、とにかくきれいで、何度ニュースで見てもあきない。いいお馬だなあ。文句もお愛想もなく、7冠馬だすげーだろうーなんて威張ることもなく、ただ走る。「私、こんなだらだら生きててごめんなさい」って謝りたくなる。

わたしの育ったところは地方競馬の町で、小さい頃からお馬をよく見た。交通標識にも馬の絵で「馬に注意」ってのが立ってるくらいだ。子どもの頃は、既製服で景気がよかったんで、いっぱい中小縫製屋のおじさんが馬券を買っていた。風が吹くと捨てられた馬券がチリチリと舞っていた。こんな町の隅まで飛んでくる。町中紙吹雪だ。たくさん勝ったおじさんは、夜には料理屋でどんちゃん騒ぎ。三味線のお座敷遊びとかが漏れ聞こえてくる。同級生には厩舎に住む子もいた。今回騎乗していたジョッキーもそうだ。騎手になる子、蹄鉄屋の子、厩務員見習いの子。みんな学校が始まる前、朝5時から馬の世話をして登校していた。勉強なんて関係ないさ、といっていた。そういいながら小柄な彼らはちょっと寂しそうだった。競馬場にも行った。あの時、父は何を私に語っていたのだっけ。馬の話をしていた。幼い私に。なんだったのだろう。思い出せない。

圧倒的に強い物は誰とも戦っていない。強い物は静かだ。走るということに身を捧げてる。だから、人でも人以外でも、本当の強い物をいつまでも見ていたいという気にさせる。ひれ伏したくなる。拝みたくなる。人の渡世のうじゃうじゃした物なんて、どうってことないやって気になる。こういうものを見るために生きてるさってね。そういうものを見たときの気持ちを心の中に深く深くスタンプしておく。いつかそんなものの何かに近づくための目印になる。そういうものがいっぱい身の内にあると、それだけで、もう十分である気がする。時々思い出しては、拝んでみる。スポーツ紙とかに書いてる「感動をありがとう」って安っぽい言葉だけど、私も心から思うよ。「ありがとうね、ディープよ」
でも、ホントはさ、もうちょっと見たかったなあ。
           画像 オールドノリタケ art deco 三面馬柄灰皿
コメント (6)
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