過日、地域の桜まつりに出かけた。去年はコロナウィルス緊急事態宣言のため、祭りは中止だったが、今年は小規模の祭りが公園でされていた。地域関連の食品テントが少しと、数組の大道パフォーマンスと地域の和太鼓チームの講演と、人々は思い思いに広い公園内を散策したり、遊具で遊んだり、家族で芝生に座ったり、ベンチで話したりしている。その間をぬって、花びらがはらはらと散っていく。
思えばこの1年、どの祭りも中止となった。花見も露店も神楽も地芝居も花火も紅葉も全部全部自粛だったなあ。公園に知る人はいなかったが、同じ祭りに私たちはいる。地域の人が三々五々やってきて、同じものを楽しむということさえ、なくなっていたのだなあ。知り合いと集まり食べたりしゃべったりなんてことをしなくても、とにかく同じものを見たり、聞いたり、時を過ごしたりするためにそこに行くということは、こんなにいいものだったのだ。今年もこの時期にここにやってきたよという、それだけでいいのだ。
こんなささやかなことさえ許されぬとは、なんという一年だったことか。そうして、いつになれば、許されるのだろう。
和太鼓を聞きながら、私は少しだけ泣いた。
思えばこの1年、どの祭りも中止となった。花見も露店も神楽も地芝居も花火も紅葉も全部全部自粛だったなあ。公園に知る人はいなかったが、同じ祭りに私たちはいる。地域の人が三々五々やってきて、同じものを楽しむということさえ、なくなっていたのだなあ。知り合いと集まり食べたりしゃべったりなんてことをしなくても、とにかく同じものを見たり、聞いたり、時を過ごしたりするためにそこに行くということは、こんなにいいものだったのだ。今年もこの時期にここにやってきたよという、それだけでいいのだ。
こんなささやかなことさえ許されぬとは、なんという一年だったことか。そうして、いつになれば、許されるのだろう。
和太鼓を聞きながら、私は少しだけ泣いた。