うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

事件と支援

2021年04月29日 | ことばを巡る色色
以前、ホームレスの女性を、硬いものの入ったレジ袋で殴り(最初の供述ではペットボトルが入っていたと言っていたが、のちに石を入れていたと自供した)殺害するという事件があった。
女性は貧困からアパートを退出、バス停で夜を過ごしていた。容疑者は自営生家の手伝いをする中年男性だった。街をきれいにするというようなボランティアもしていたらしい。マスメディアの伝えるところによると、容疑者はちょっとした日常の変化に対応できず、クレームをつけに行ったりというように近隣とトラブルも起こしていた。自分の街にホームレスの女性がいついていることが許せなかったのかもしれない。
朝のニュース番組では、女性が貧困により、家を失ったということに注目し、生活の基盤を失った人を支援するシステム、セーフティネットの必要性を提起していた。
もちろん、そんなセーフティネットは必要だ。家をなくしても福祉に頼りたくないと思う人に対する策も、もちろん必要だ。
だが、私はこの事件から、救われるべきは誰であったのか、と考える。
容疑者男性のこれまでを考えれば、彼は何らかの障害を持っていたであろう。知的障害、学習障害、発達障害。これらは社会生活が送れてしまえば、たとえそれが老親のサポートなしでは成り立っていなかったとしても、埋もれてしまう。いわゆる「手帳」を持っていれば、幾分かの社会的支援を受けられるかもしれないが、それは生活を成立させるのに十分ではない。「手帳」を持つことや、「福祉」を受けることを拒否する近親者、障害者本人も少なくない。それはその人たちにとって、恥ずかしいことであったり、弱者の証拠であったりするからだ。また、近親者や本人が障害を自覚していなかったり、その障害のありようと支援の必要性を知らなかったりすることもあるだろう。
事件が起こるたび、容疑者の特異性(異常性とも呼ばれてしまうが)が報道されるが、多くの事件の詳細を知ると、多くの事件の容疑者は彼らの障害もしくは社会への適応のしづらさから、犯罪が起こしているのではないかと思われてならない。
事件であるのだから、法治社会において、「罰する」という対応がなされるのだが、彼は本来、その前に支援されるべき人でもあった。その支援の必要性、いかにすれば支援を拒絶する人を支援することができるかを考える場は少ない。
危険な人物は排除し、危険を犯せば罰すればよい、というだけでは、何も解決しないのでないか。違う人、違う形で犯罪は生まれ続けていくのではないか。異常で危険な人として糾弾することは簡単であるが、糾弾されている人が、あらかじめ救われるべき人であったのではないのかをもっと、もっと、考えねばならぬ。
コメント
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