うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

観音悔過

2023年04月19日 | ことばを巡る色色
一年に一度の、十一面観音の御開帳に行く。観世音の口は慈悲の息を吐こうとし、足は衆生を救おうと踏み出している。
闘いまみれの修羅道を救う十一面観音。闘いまみれの私は、跪いてこうべを垂れて、叱られに、救われに、拝む。仏像は相対するものではなく、見上げるお方である。そうしてこの一年の悔過とこれからの一年の正しい行いを祈る。
今年の御開帳は誰とも話さず、ただ悔過をし、拝んで、帰ろうと決めていた。蘊蓄やら講釈やらを考えず、ただ祈って帰るべきだと、今年は決めていた。わたしってば、こんなにいろんな観音様を巡ってきたのよ、だのなんだの言いたくなるんだから、それはもう、やめよう、と思った。
十一面観音の前には多くの拝観者が、あずまの言葉で像の造作装飾をほめたたえ、聖林寺と似ているなどと時に歓声を上げてペンライトの灯りを当てている。なんとつまらぬことであろう。
十一面観音は、水の、瀧の、龍の、そう、春の母なるお方。瀧を流れ、水は地を潤し草木は芽生え花は咲き、この国の春は観音とともにやってくる。観音の扉が開かれ、よろずのものが生まれ流れ、そこにある。
どうぞ、静かに膝を折り観音を仰ぎ見なさい。まずは、様式だとか制作年代だとかは床において、あの方を仰ぎ見なさい。仏を信じようと信じまいと、長い長い間、このお方の慈悲を祈った幾万の人々を感じてみなさい。その人々が観音を思ってきたということを敬いなさい。そうすれば、観音を感じることができるかもしれない。

来年は辰の年。六波羅蜜寺の扉が開くね。また、お会いしたいな。
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