岐阜石徹白の野良着などを元にした洋品店、しばらく前から欧州のアート関連で評価されていると聞く。型紙集を去年夏、岐阜川原町で見た。オリジナルのものであり、ヨーロッパで評価されているのではあるが、気軽に購入するにはちょっと高価であった。
はてさて、これはいわゆる「民藝」なのである。
高山日下部民藝館のように「民藝」なのである。働く庶民の知恵が生み出したものは確かに素晴らしく美しい。
ただ、それを評価するのは、働く庶民ではなく、庶民を我の下と位置付け、市井の農村の人々の営みを卑しいものとしてきたアッパーグループの層の人々から生まれてきた人だったり、その層に育てられた人だったりするのだという矛盾。
「民藝」に触れると、私はよく、日本の最高学府とされる学校を出た人が、放浪のバナナの叩き売りを映画に撮り続けていたことを思ってしまう。アッパーグループの中で生まれるなり、育つなりした人が、野良着なりバナナの叩き売りなりを果たして純粋に讃えることができるのか。上下なり優劣なり高低なり貧富なり奢りなり屈折なり卑屈なり尊大なりが混ざらず、見ることができるのだろうか。
偽善だ嘘っぱちというだけでは、やはり片付けられない。人がニュートラルに美に向き合うことは、容易くはない、のである。