うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

リベルテ

2024年05月29日 | ことばを巡る色色
私は最近、不自由な人、である。
そこで、考えた。
そうだ、私は今まで自由を手に入れるために生きて来たのだ、と。優先順位一番は「自由」リベルテだった。
家の、過去の、親のしがらみから逃れるために、それに囚われない自由を手に入れるために、我慢したり、受験勉強したり、妥協したり、折り合いをつけたり、した。自由のために我慢するって、いささか矛盾を孕むのだけれど、誰だってなんらかに対する自由を手に入れようとしたら、それ以外については切り捨てねばならぬものであろう。全方向の自由なんて、いずれは他者を害し、他者から糾弾、阻害され、短命のものでしかない。
だから、誰もが自分の自由に優先順位をつけることとなるし、どうしても自由にせねば耐えられぬものに対する自由を手に入れようとする。
なんて色々言ってはみるが、要するに、兎も角、何はともあれ、私は私の思うようにしたいのである。指図されたり、咎められたり、邪魔されたり、文句を言われたりするのが嫌、な我儘な性分なのだ。
そんな私が今は不自由を感じている。思い立った時に思い立ったところに行けない、思い立ったものを食べられない。思い立ったことができない。これらの(出来ない)が私の不自由の所以であるのなら、私の自由ってそんなものだったんだろうか。私とて、幾多の経験積んだ分別ある大人であるので、突拍子のない、宇宙に行くとか上海で上海蟹を食べるとか言っているわけではない。ごく常識的な願いである。そんなささやかな願いが今のところ叶えられないという閉塞感。その反面、自分の自由ってそんなありふれた娯楽っぽいものでしかないのか、という腰砕感。しがらみがあり、なかなか抜け出せにが努力すれば突破できそうだと思えた頃の「自由」はもっともっと崇高で高邁なものであったのに。ここに至っては、なんだか、困ったことに、安っぽい。年月は自由の価値さえ変えてしまうのか、それとも私の年月の使い方の何かが間違っていたのだろうか。
自由を尊いものとし続けることの困難を知った春はもはや、夏に変わろうとしているが。

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