都会で疲れる原因のひとつは、『パーソナルスペース』を安定的に確保出来ないこ
とです。
パーソナルスペースというのは、その人が快適である他人との距離です。
自分の空間、間合い、縄張り、領域です。この領域に不用意に他人が入るとその人
は不快に感じるのです。
一般に日本人のそれは広い、つまり他人との距離が大き目であるといいます。
僕は広いです。不用意にその領域へ侵入(接近でも)する者に対しては警戒します。
しかし、都会ではこの自分の領域を守れない場合が非常に多いのです。
45センチ以内は、非常に親密な関係とされますが、満員電車では全く親密ではない
人同士が密着します。
つまり、このときパーソナルスペースという感覚はキャンセルされているわけです。
電車から降りると、人は互いに触れない距離を確保しようと可能な範囲内で間隔を取ります。
エスカレーターや階段を上る時、前が女性でしかもミニスカートだったりした場合、
間隔を大きく取ります。これは痴漢冤罪を避けるため、自分の身を守るためです。
こういった感覚のシフトはどこでもあり得るのですが、都会では頻繁にしなければなりません。
これは結構疲れます。
大きな駅など、人の流れの動線が交錯するところで観察してみるに、多くの人が
パーソナルスペースを調整することをせず、最初から最低限の状態に固定している
ように見受けられます。
外国の日本よりは治安の良くないところなどでは、皆がこの『間合い』に気を使っ
ているので、人が多い割にはニアミスがおきません。不用意な他人との接触が危険
だからです。
…などということに気を使っている人は東京ではほとんどいないと思われます。
皆がなんとなく、でもそれはある意味絶妙なバランスの上に成り立ったあまりにも
脆く儚い安全の上で生きているのですね。
都会は、ものすごい量の情報、それも明確に人間をターゲットにした商業情報が溢
れています。
いちいち気にしてはいられないので、感覚を遮断することになり、さらにその遮断
された感覚を突破するような商業情報が発信されています。
例えていうなら常にたくさんの手が差し出されているようなものです。
それが自分を捕まえ餌食にしようとする手なのか、それとも助けを求める手なの
か、助けてくれる手なのか、それを区別するという煩雑な作業をするよりは、すべ
てを拒否してしまった方が安全だとは言えます。
物理的、空間的なパーソナルスペースが確保出来ない分、心の中に不可侵領域を確
保するのでしょうか。某アニメでいうATフィールド?
無関心というのも都会での生活術のひとつなのですね。
この無関心というワザは、自分を守る鎧ですが、時に自分を閉じ込める檻となる危
険があります。
そういうワザを使いこなすのが都会暮らしのコツです。
とまあ、すっかり田舎者の僕は思うわけです。
とです。
パーソナルスペースというのは、その人が快適である他人との距離です。
自分の空間、間合い、縄張り、領域です。この領域に不用意に他人が入るとその人
は不快に感じるのです。
一般に日本人のそれは広い、つまり他人との距離が大き目であるといいます。
僕は広いです。不用意にその領域へ侵入(接近でも)する者に対しては警戒します。
しかし、都会ではこの自分の領域を守れない場合が非常に多いのです。
45センチ以内は、非常に親密な関係とされますが、満員電車では全く親密ではない
人同士が密着します。
つまり、このときパーソナルスペースという感覚はキャンセルされているわけです。
電車から降りると、人は互いに触れない距離を確保しようと可能な範囲内で間隔を取ります。
エスカレーターや階段を上る時、前が女性でしかもミニスカートだったりした場合、
間隔を大きく取ります。これは痴漢冤罪を避けるため、自分の身を守るためです。
こういった感覚のシフトはどこでもあり得るのですが、都会では頻繁にしなければなりません。
これは結構疲れます。
大きな駅など、人の流れの動線が交錯するところで観察してみるに、多くの人が
パーソナルスペースを調整することをせず、最初から最低限の状態に固定している
ように見受けられます。
外国の日本よりは治安の良くないところなどでは、皆がこの『間合い』に気を使っ
ているので、人が多い割にはニアミスがおきません。不用意な他人との接触が危険
だからです。
…などということに気を使っている人は東京ではほとんどいないと思われます。
皆がなんとなく、でもそれはある意味絶妙なバランスの上に成り立ったあまりにも
脆く儚い安全の上で生きているのですね。
都会は、ものすごい量の情報、それも明確に人間をターゲットにした商業情報が溢
れています。
いちいち気にしてはいられないので、感覚を遮断することになり、さらにその遮断
された感覚を突破するような商業情報が発信されています。
例えていうなら常にたくさんの手が差し出されているようなものです。
それが自分を捕まえ餌食にしようとする手なのか、それとも助けを求める手なの
か、助けてくれる手なのか、それを区別するという煩雑な作業をするよりは、すべ
てを拒否してしまった方が安全だとは言えます。
物理的、空間的なパーソナルスペースが確保出来ない分、心の中に不可侵領域を確
保するのでしょうか。某アニメでいうATフィールド?
無関心というのも都会での生活術のひとつなのですね。
この無関心というワザは、自分を守る鎧ですが、時に自分を閉じ込める檻となる危
険があります。
そういうワザを使いこなすのが都会暮らしのコツです。
とまあ、すっかり田舎者の僕は思うわけです。
たまに都会に行ったりすると
私もかなり疲れます。
パリなどは、住んでいた時はあまり
気にしなかったのですが
今は、恐れと危険を敏感に
感じてしまい、自分の身を守ることに
集中しているせいか、疲労します。
人の多さに酔ってしまうのもあります。
自分の住んでる村に帰ってくると
ホッとします。
都会で疲れる主原因は、つい人間観察、考察をしてしまうことなのです。
実に色々な人が居て想像を掻き立てます。
あまりにも無防備な人が多いですね、まだまだ日本の治安は良いのでしょう。
しまりすさんのような心構えを持った女性、素敵です
そのお姿を観察したい!
マドレーヌ寺院の柱の陰からでも。
それでも、、、触れたり、荷物が軽くですがぶつかってしまったりした時には、すかさず「すみません!」「ごめんなさい!」の言葉が口が出てくるようになってしまいました!
接触したくなくても密着してしまうのが満員電車のツラいところです。
以前、満員電車の中ではぐれた同行者が痴漢扱いされたことがありました。
ただちに警察行きになり、完全に犯罪者扱いをされました。
現在は少しガイドラインが緩和されたようですが、女性の一方的な訴えでほとんど犯罪が確定してしまうというのは恐ろしいことです。
それでも痴漢件数が減らないというのはどういうことなんでしょうね。