厄介な拾い物の小鳥が死んだ。
前日まで、えさもよく食べていたのだが、朝、見てみたら死んでいた。
道路に落ちていた命なので、無くてもともとと思えるのだが、それでもやはり悲しいものです。
子供たちにも世話をさせたので、彼らも何かは感じているようです。
以前、脳のシステムを扱ったテレビ番組で見たのだが、人が死の淵に立ったとき、脳はその恐怖や苦痛を和らげるため、「愛し愛された記憶」を再生するそうだ。
私も死の淵というところには何度かいって来たことがあるのだが、やはり心地のよいものだった気がする。
結局、人間が本当にその最後まで持てるのは「愛し愛された記憶」なのだとその番組では謳っていたと思う。
人生の勝ち組を気どる人達、国に莫大な赤字を作りながら利権にしがみつく人達、それらの人達だって、「幸せになりたい」という希望のもとに行動しているんだろうけれども、なんだかとても遠回りをしているというか、不器用な気がする。
魚を焼くのに溶鉱炉を用意するというか、ハエを追うのに大砲を持って来るとかいう感じがする。
「愛し愛される」とか「幸せになる」なんていうのは、そんなに難しいことなのだろうか?
自分自身も若いころは、満たされない苦しみや、苛立ちや憎しみをたくさん抱えていたのだけれど、どうもよく思い出せない。
どうしてあのころはあんなに辛かったのだろう、その痛みそのものが若さなのだろうか?
他の多くの命の犠牲の上に生きている僕たちが、あまり奇麗事をいうとウソ臭いけれど、この小鳥とのちょっとした出会いと別れに、うまくいえないけれど、
「自分が生きていることへの恥じらい」
のようなものを感じたのでした。
前日まで、えさもよく食べていたのだが、朝、見てみたら死んでいた。
道路に落ちていた命なので、無くてもともとと思えるのだが、それでもやはり悲しいものです。
子供たちにも世話をさせたので、彼らも何かは感じているようです。
以前、脳のシステムを扱ったテレビ番組で見たのだが、人が死の淵に立ったとき、脳はその恐怖や苦痛を和らげるため、「愛し愛された記憶」を再生するそうだ。
私も死の淵というところには何度かいって来たことがあるのだが、やはり心地のよいものだった気がする。
結局、人間が本当にその最後まで持てるのは「愛し愛された記憶」なのだとその番組では謳っていたと思う。
人生の勝ち組を気どる人達、国に莫大な赤字を作りながら利権にしがみつく人達、それらの人達だって、「幸せになりたい」という希望のもとに行動しているんだろうけれども、なんだかとても遠回りをしているというか、不器用な気がする。
魚を焼くのに溶鉱炉を用意するというか、ハエを追うのに大砲を持って来るとかいう感じがする。
「愛し愛される」とか「幸せになる」なんていうのは、そんなに難しいことなのだろうか?
自分自身も若いころは、満たされない苦しみや、苛立ちや憎しみをたくさん抱えていたのだけれど、どうもよく思い出せない。
どうしてあのころはあんなに辛かったのだろう、その痛みそのものが若さなのだろうか?
他の多くの命の犠牲の上に生きている僕たちが、あまり奇麗事をいうとウソ臭いけれど、この小鳥とのちょっとした出会いと別れに、うまくいえないけれど、
「自分が生きていることへの恥じらい」
のようなものを感じたのでした。
今日、道路でスズメの子を発見しました。車を止めて救出に向かったのですが、後ろから来た車がプチッ!でした。
また助けられなかった。
去年のことですが、鹿の死骸が近くにありました。子供といろいろな生き物の糧となってゆく様子を観察していたのですが、ある日、片付けられてしまいました。
なかなかないことだったので、ちょっと残念でした。
どうも現代人は、いつも急かされて生きているせいか、長いスパンでものを考えるのが苦手なようですね。すぐに結論の出ない問題は無視される傾向があります。
死は人生の果てに必ずあることなのに、考えるのを避けているようです。
でも、死を考えないということは、生を考えないことでもありますよね。
またどうぞ!
以前から思っていたのですが、南アルプスの方が八ヶ岳より自然が豊か(=人の手がはいっていない)な気がします。
動物の死体の観察では長野の宮崎学(がく)さんという写真家が有名みたいですね。
日本にも九相図(くそうず)というのがありますね。美人(小野小町だったりする)が死んで骨になるまでのプロセスを九つの場面で描いた図です。
実は、私も南アルプスに秘密基地を確保したのです!長谷の美和湖の脇です。
うれしいので、みんなに言ってます。(秘密ですけどね)
合わせて長坂にも前進基地を開設します。
また「お披露目」をしますので、よろしくです。
またどうぞ!