前回、ちょっと触れましたが、うちには2台のピアノがあります。
1台めのアップライトピアノは、僕が譲り受けた後、それまで事業が好調だった前オーナーは体調を崩し、八ヶ岳を去り故郷へと帰りました。
その業界の「勝ち組」としてテレビで紹介されたわずか数年後のことです。
人の世の儚さを思わせることでした。
さて、今回の話はもう1台のピアノ。
このピアノは僕の大伯父のものでした。
明治生まれの彼は医者、研究者で、神経学、心理学、特に児童のそれについて、戦前からフランスの医学界との関係が深かったようで、いくつもの翻訳を出しています。
戦後、日本人として初の私費留学生としてパリ大学へ行ったそうです。
昭和20年代のことです。
身内でありながら、地方育ちだった僕は正月に挨拶に行くくらいの関係だったので、申し訳ないことに彼の経歴もネットで検索している次第なのです。
私大医学部教授だった彼のおかげで、日本中どこでも良い医者を紹介されたので、幼いころ病弱だった僕にとっては大恩ある人なのですが。
ピアノでいうスピネット型(他にチェンバロのスピネットというのがあります)、背の低いアップライト型のピアノで、フランスはエラール社のものです。
このエラール社というのはピアノ草創期からの由緒あるメーカーで、1960年頃倒産して現在はドイツの会社のブランドとなっているらしいです。
セバスティアン・エラール(1752~1831)はピアノのダブルエスケープメントという今日のグランドピアノの基礎となるカラクリの発明や、ハープの半音を出すためのカラクリの発明で有名です。
彼は、イギリスのピアノ産業の基礎を作った人物のひとりです。
フランス人がなぜイギリスなのかというと、フランス革命のとき、王族と親交のあった彼は同業者の作った機械で殺される(ギロチンのこと。ギロチンはトビアス・シュミットというパリ在住のドイツ人チェンバロ製作家とその工房がずっと独占で製作したそうな)のを良しとせず、イギリスへ亡命したからです。
そしてロンドンで次々とピアノを開発したのです。
ついでながら、1700年代中期にも、ザクセンのジルバーマン工房(パイプオルガンの他にピアノも始めていた)などの優れたピアノ職人が7年戦争を避けてイギリスに亡命し、ロンドンで名を上げています。
イギリス式ピアノの基礎は、こういった亡命者によって築かれているのです。
ピアノ開発史には戦争と革命による亡命や避難という形での技術移動がよく見られます。
話を戻して。
大伯父は芸術に造詣の深い奥方のために、フランス留学中にそのピアノを手に入れたらしいです。
昭和20年代、それは大変な買い物だったでしょうし、運賃だって大変だったでしょう。
脳神経や認知の大家だった大伯父自身が皮肉にも認知症になり、縁あって僕の両親が彼を看取り、その家を片付けた時、書類、書籍の山の中からそのピアノが出て来たのです。
湿気と長期間の放置で、だいぶ具合が悪くなっていたのですが、響板の状態は良いようでした。
それを当時、パイプオルガン製作修行を始めたばかりの僕が引き取ることになったのです。
いつか修復しようと思いつつ、すでに20年あまり…。
このピアノは、糸の切れた凧のような僕の文字通り重りとなってきたのです。
これがなければ、もっとフットワークの軽い生き方が出来たかもしれない反面、これのおかげで踏ん張って逃げない生き方を学んだとも言えるのです。
革命の波乱から生まれたピアノの末裔はフランスから日本に来て、さらに僕とともにアメリカを往復します。
希望に満ちた日々も、そうではない日々も、僕とともにあったのです。
うん、そろそろ直してやらないとね。
こんなピアノ
Erard
1台めのアップライトピアノは、僕が譲り受けた後、それまで事業が好調だった前オーナーは体調を崩し、八ヶ岳を去り故郷へと帰りました。
その業界の「勝ち組」としてテレビで紹介されたわずか数年後のことです。
人の世の儚さを思わせることでした。
さて、今回の話はもう1台のピアノ。
このピアノは僕の大伯父のものでした。
明治生まれの彼は医者、研究者で、神経学、心理学、特に児童のそれについて、戦前からフランスの医学界との関係が深かったようで、いくつもの翻訳を出しています。
戦後、日本人として初の私費留学生としてパリ大学へ行ったそうです。
昭和20年代のことです。
身内でありながら、地方育ちだった僕は正月に挨拶に行くくらいの関係だったので、申し訳ないことに彼の経歴もネットで検索している次第なのです。
私大医学部教授だった彼のおかげで、日本中どこでも良い医者を紹介されたので、幼いころ病弱だった僕にとっては大恩ある人なのですが。
ピアノでいうスピネット型(他にチェンバロのスピネットというのがあります)、背の低いアップライト型のピアノで、フランスはエラール社のものです。
このエラール社というのはピアノ草創期からの由緒あるメーカーで、1960年頃倒産して現在はドイツの会社のブランドとなっているらしいです。
セバスティアン・エラール(1752~1831)はピアノのダブルエスケープメントという今日のグランドピアノの基礎となるカラクリの発明や、ハープの半音を出すためのカラクリの発明で有名です。
彼は、イギリスのピアノ産業の基礎を作った人物のひとりです。
フランス人がなぜイギリスなのかというと、フランス革命のとき、王族と親交のあった彼は同業者の作った機械で殺される(ギロチンのこと。ギロチンはトビアス・シュミットというパリ在住のドイツ人チェンバロ製作家とその工房がずっと独占で製作したそうな)のを良しとせず、イギリスへ亡命したからです。
そしてロンドンで次々とピアノを開発したのです。
ついでながら、1700年代中期にも、ザクセンのジルバーマン工房(パイプオルガンの他にピアノも始めていた)などの優れたピアノ職人が7年戦争を避けてイギリスに亡命し、ロンドンで名を上げています。
イギリス式ピアノの基礎は、こういった亡命者によって築かれているのです。
ピアノ開発史には戦争と革命による亡命や避難という形での技術移動がよく見られます。
話を戻して。
大伯父は芸術に造詣の深い奥方のために、フランス留学中にそのピアノを手に入れたらしいです。
昭和20年代、それは大変な買い物だったでしょうし、運賃だって大変だったでしょう。
脳神経や認知の大家だった大伯父自身が皮肉にも認知症になり、縁あって僕の両親が彼を看取り、その家を片付けた時、書類、書籍の山の中からそのピアノが出て来たのです。
湿気と長期間の放置で、だいぶ具合が悪くなっていたのですが、響板の状態は良いようでした。
それを当時、パイプオルガン製作修行を始めたばかりの僕が引き取ることになったのです。
いつか修復しようと思いつつ、すでに20年あまり…。
このピアノは、糸の切れた凧のような僕の文字通り重りとなってきたのです。
これがなければ、もっとフットワークの軽い生き方が出来たかもしれない反面、これのおかげで踏ん張って逃げない生き方を学んだとも言えるのです。
革命の波乱から生まれたピアノの末裔はフランスから日本に来て、さらに僕とともにアメリカを往復します。
希望に満ちた日々も、そうではない日々も、僕とともにあったのです。
うん、そろそろ直してやらないとね。
こんなピアノ
Erard
修復し蘇らせるのですね!
どんな音を響かせてくれるのでしょう
とても素敵なピアノです
このピアノ、いままで何人かの専門家に見てもらっています。
僕もピアノの勉強(製作ね)は、ぼちぼちやっているのですが、もっぱら古典ピアノ関係なので、モダンピアノについてのノウハウは貧困です。
誰かにプチ弟子入りするとか、オルガン技術とのバーターなどの特殊ワザも必要かもしれません。
いやいや、道のりは遠く大変です。