TOY VOX

管理人VOX6336が昭和レトロな遊びをするだけのブログです。スマートフォンでの閲覧推奨。

慶長出羽合戦3

2024-05-01 03:23:05 |  戦国群雄伝

兼続ひきいる人数は9月13日に畑谷・梁沢を攻略し、



長谷堂を包囲。


六十里越口から攻め込んだ人数は白岩・寒河江までを制圧した。


9月15日、最上方は長谷堂の後詰めに出てきたがため、上杉方はこれを迎撃し首級200を得た。


さらに史料を読んでみよう。最上義光からの援軍要請をうけた伊達政宗の返事。
「夜前にも飛脚をつかわしましたが、わたくし政宗は南口・南部口での状況が思わしくないため、そちらへ向かうことができません。とりいそぎわたくしの叔父にあたる留守政景に馬500騎、鉄砲700丁をつけてそちらへ向かわせます。明日(17日)にはこちらを出発しま
す。くわしい状況については義康殿にお尋ねください。なんとかして今日明日中でも持ちこたえてくだされば、そのうちに援軍が駆けつけますので、かえすがえすもご安心ください。率直に申します。これまでわれわれの関係は険悪であったこともありましたが、それらは水に流し、一身に変えましてもお助けするつもりでいますので、どうかご安心ください」

【史料】9月16日付最上義光宛伊達政宗書状(仙台・政宗1066)
万々修理殿より、可被仰越候、何とそ被成今明日中御かゝへ候へく候、其内是之者共懸付可申候間、返々も可御心安候、すくニ申候、とし月ちと御なさけなき事共も、少ハ候つれ共、すミやか二打すて、此時身ニかへても、御引立可申候〳〵、可御心安候、以上、
夜前も以飛脚申候キ、此時候条、即我等可参候へ共、南口、南部口、今少為見合、延引仕候、先我等祖父ニ候上野介為始、馬五百余騎、鉄砲七百丁はや申付候、明日相立申候、吉事追々可申承候、恐惶謹言、
            羽越前
   九月十六日      政宗(花押)
   山出羽守様
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慶長出羽合戦2

2024-04-30 10:05:12 |  戦国群雄伝

最上方の初期配置は山形、畑谷、長谷堂、上山、梁沢、物見山の6か所。



上杉方は西軍の敗報がはいる第9ターン(9月27日)までに長谷堂を攻略してサドンデス勝利をねらいたいところだ。
 
 
さて、関連する史料を読んでみよう。直江兼続による状況報告。あて先は景勝側近。9月15日付。
「9月13日(第2ターン)に畑谷を撫で斬り(降伏をゆるさず全滅させること)とし、江口五兵衛父子をはじめとする500余りを討ち取りました。梁沢の守備兵も撤退したため、最上領内の村落を焼き払い、きのう14日、山形に向かって陣をすすめましたところ、その周辺の諸城5、6か所が降参してきました。この方面のことは近日中にかたがつきますので、ご安心ください。庄内(上杉領の飛び地)の人数は白岩・寒河江(最上川北岸)に在陣しております。なお、この書状を書いているうちに敵が攻撃してきましたが、すぐに迎撃して200余りを討ち取りました。その様子はこの飛脚が見ております。おって報告いたします」
 
 
【史料】9月15日付秋山伊賀守宛直江兼続書状写(山形縣史)
尚々此書中調候半ニ、敵働候由申候間、則乗出敵の打つけにのり、頸弐百余取候、飛脚如見分候、猶追々可申候、以上、
庄内人数白岩・さが江迄請取在陣候、以上、
御状披見、仍去十三日最上領畑谷城乗崩撫斬ニ申付、城主江口五兵衛父子共頸五百余討取候、梁沢之城をも明逃候、即在々令放火、昨十四日向最上居城在陣候処に、山形近辺之城五六ヶ所降参候、仕置丈夫ニ申付候、近日に隙明可申候、可御心安候、恐々謹言、
            直江
   九月十五日      兼続
    秋山伊賀守殿
         御報


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慶長出羽合戦1

2024-04-30 00:34:57 |  戦国群雄伝
吉川龍虎「慶長出羽合戦」(コマンドマガジン137、2017年)。


ヒストリカルノートは来栖平次郎氏。ルールブックを読みながらプレイしていこう。
こちらがマップ全景であるが、


山形城はヘクス2727であるため、マップ北半分はほとんど使わないだろう。


上杉軍は中山口と長井口から、山形へ向かう。主戦力は中山口のほう。


最初の攻略目標はそれぞれ長谷堂(2132)と畑谷(1228)になるだろう。





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三方ヶ原 33

2023-06-02 21:12:00 |  戦国群雄伝
元亀3年7月19日、信長は小谷城攻めのため岐阜を出陣した。主立った部将のほとんどが動員されており、総勢5万余の大軍だった。20日に横山城に入った信長軍は、小谷城の南方わずか2キロメートルの地点にある虎御前山に付城を築いて、小谷城総攻撃の態勢を整えた。

7月28日、朝倉義景率いる1万余の大軍が越前から近江に入ってきた。朝倉軍は小谷城の後方に位置する大嶽と呼ばれる高山に上って陣を布くのみだった。

(中略)

またも小谷城を落とすことができなかった信長は9月16日、小谷の囲みを解いて、横山城に軍を納めた。

(参考文献:谷口克広『信長と将軍義昭』)






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三方ヶ原 32

2023-05-29 20:45:00 |  戦国群雄伝
元亀3年3月5日、信長は北近江に向けて岐阜を出陣した。小谷城を囲み、周辺を放火して挑発したけれど、浅井長政は一兵も出さず、信長は空しく囲みを解き、12日に京都に入った。


3月21日、義昭は信長の京都邸を建設するよう、幕臣や公家たちに命令をくだした。24日には鍬初が盛大に行われた。

4月、三好義継・松永久秀の軍が、畠山の将、安見新七郎の守る交野城を包囲した。4月16日、信長の部将、柴田勝家・佐久間信盛らが交野救援のため京都を出陣した。南方へ向かったのは、彼ら織田軍ばかりではなかった。細川藤孝・明智光秀・三淵藤英・上野秀政といった幕府奉公衆、摂津の守護である伊丹忠親・池田勝正・和田惟長も一緒だった。

信長の軍勢に幕府軍も加わった大軍に攻撃されては、三好・松永の軍勢などひとたまりもない。義継は若江へ、久秀は信貴山城へと逃げ帰った。

(参考文献:谷口克広『信長と将軍義昭』)




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