TOY VOX

管理人VOX6336が昭和レトロな遊びをするだけのブログです。スマートフォンでの閲覧推奨。

関ヶ原2

2025-01-02 03:57:52 |  戦国群雄伝

西軍第1ターン
天候決定:雨、移動力は4
調略判定:長束・安国寺・長曽我部 失敗
     朽木・脇坂 失敗
     小早川 失敗
移動フェイズ:
西軍は地形の有利さと各部隊の戦闘力の高さを上手く利用して、東軍の突出した部隊、戦闘力
低い部隊を確実に削っていくべきであろう。
東軍右翼で突出した井伊隊に集中攻撃をかけ、同じく左翼の福島隊・京極隊にも攻撃。
大将の石田隊は何故か最左翼に位置しているので中央の天満山に移動。宇喜多隊の背後に付く。

戦闘フェイズ:
西軍 島4+島津5+ダイス3=12
東軍 井伊3
→井伊隊は壊滅した。西軍島津隊は追撃を行う。
西軍 小西4-ダイス1=3
東軍 京極2
→京極隊は撤退した。小西隊は追撃を行う。
西軍 宇喜多5+ダイス1
東軍 福島4
→福島隊は撤退した。宇喜多隊は追撃を行う。

第1ターン終了。ゲームをしてみてあらためて思うのだが、西軍の布陣は不自然である。松尾山の小早川隊は「西軍に属して日和見」をしているのではなく、「東軍に属して孤立」していると見たほうが良さそうだ。

東軍勝利ポイント=2
西軍勝利ポイント=3

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関ヶ原1

2025-01-02 03:56:10 |  戦国群雄伝

エポックウォーゲームエレクトロニクス第3作「決戦関ヶ原」をソロプレイ。

慶長5年9月15日、東西合わせて20万人の将兵が関ヶ原に集結した。ゲーム開始時の状況は以下のとおり。

東軍第1ターン
天候決定:晴れ、移動力は6
調略判定:長束・安国寺・長曽我部 失敗
     吉川・毛利 成功して中立化
     朽木・脇坂 失敗
     小早川 失敗
移動フェイズ:
東軍は南宮山の毛利、松尾山の小早川が西軍で参戦した場合、圧倒的に不利な状況に陥るので、短期決戦が望ましい。
南宮山の抑えの3部隊は、ルール上そこに居ても居なくても毛利の去就には関係ないので速やかに前線に投入する。
徳川家康の「影武者」も速やかに前線に投入する。
確実に西軍の戦力を削減するため、突出している蒲生隊を集中攻撃する。
福島・藤堂・京極の3部隊も突出しない位置まで前進。

戦闘フェイズ:
東軍 井伊3+細川3+黒田3-地形1-ダイス1=7
西軍 蒲生2
蒲生隊は壊滅した。東軍は追撃を行わない。

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戦国大名1

2024-05-26 22:42:00 |  戦国群雄伝

黒田幸弘『戦国大名』(エポック、1986年)。シナリオ1、四国統一。




特別ルール:プレイヤー数1人、最大ターン数10、吉凶札を使用しない
勝利条件:讃岐、伊予、阿波、土佐の完全支配
フォト
初期配置:土佐に城5、兵3、金20、長宗我部元親(43220)
初期配置にともなう中立勢力の発生:1d6=5→城5×2

【ターン1】
調略フェイズ:伊予に金1、阿波に金1 (金20-2=18)
  結果、伊予1d6=2→城5*1、阿波1D6=4→城5*2
勢力圏決定フェイズ:土佐(武将の合戦値4+城5+兵3+調略資金0=12)>(中立勢力5*2=10)→部分支配
徴税フェイズ:重税せず
  土佐の国力6*0.5=3(金18+3=21)
服従工作フェイズ:土佐で長宗我部元親、1d6=1→成功、中立勢力の城5をひとつ取り除く
第1行軍フェイズ:何もしない
第1合戦フェイズ:何もしない
第2行軍フェイズ:何もしない
第2合戦フェイズ:何もしない
築城フェイズ:何もしない
軍備フェイズ:朝比奈泰朝(41341)、雇わない

【ターン2】
調略フェイズ:何もしない
勢力圏決定フェイズ:土佐(武将の合戦値4+城5+兵3+略資金0=12)>(中立勢力5*1=5)→部分支配
徴税フェイズ:重税せず
  土佐の国力6*0.5=3 (金21+3=24)
服従工作フェイズ:土佐で長宗我部元親、1d6=1→成功、中立勢力の城5をひとつ取り除く
第1行軍フェイズ:何もしない
第1合戦フェイズ:何もしない
第2行軍フェイズ:何もしない
第2合戦フェイズ:何もしない
築城フェイズ:何もしない
軍備フェイズ:戸田重政(32221)、雇わない

【ターン3】
調略フェイズ:伊予に金6 (金24-6=18)
勢力圏決定フェイズ:土佐(武将の合戦値4+城5+兵3+調略資金0=12)>=(土佐の国力6*2)→完全支配
  伊予(武将の合戦値0+城0+兵0+調略資金6=6)>(中立勢力5*1=5)→部分支配
徴税フェイズ:重税せず
  土佐の国力6+伊予の国力10*0.5=11 (金18+11=29)
服従工作フェイズ:何もしない
第1行軍フェイズ:何もしない
第1合戦フェイズ:何もしない
第2行軍フェイズ:何もしない
第2合戦フェイズ:何もしない
築城フェイズ:何もしない
軍備フェイズ:長尾為景(4222-2)、雇わない
  再配置、伊予に長宗我部元親と兵3
  徴用、伊予で兵7(金29-7=22)

【ターン4】
調略フェイズ:讃岐に金1(金22-1=21)
  結果、1d6=6→城5*2
勢力圏決定フェイズ:土佐→完全支配済み
  伊予(武将の合戦値4+城0+兵10+調略資金0=14)>(中立勢力5*1=5)→部分支配
徴税フェイズ:重税せず
  土佐の国力6+伊予の国力10*0.5=11 (金21+11=32)
服従工作フェイズ:何もしない
第1行軍フェイズ:伊予、中立勢力の城5を兵10で包囲
第1合戦フェイズ:伊予、中立勢力の城5をひとつ取り除く
第2行軍フェイズ:何もしない
第2合戦フェイズ:何もしない
築城フェイズ:何もしない
軍備フェイズ:
(あとは、2ターンかけて中立勢力の城を包囲して取り除くだけ)
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慶長出羽合戦8

2024-05-04 02:08:14 |  戦国群雄伝

義光の説明は多少(?)誇張がはいっているが、おおむね間違いではない。



さらに史料を読んでみよう。
「また、26日にも敵陣との中間で戦闘があり、勝利を得ました。これは小規模な戦闘で、面々のものどものみを討ち取りました。そうしましたところ、上杉方が不利な状況になった様子を見て、上杉方に心ならずもしたがっていた川西の百姓(住民)がこちらの味方にもどり、庄内の人数が(後方である)川西方面(畑谷・梁沢)の守備をしていたのですが、百姓が敵を200人、300人と討ち取り、28日、29日、30日までは夜も休むことなく、首級をもってきました。そのため(上方の情勢とは関係なく)上杉勢は10月1日には撤退を開始しましたので、追撃をおこない、大勝利を得ました。馬上のものは400騎余りを討ち取り、それ以下のものは数も分からないほどです。また、谷地というところに庄内3郡の代官である下吉忠というものが1500ほどの人数で籠城していました。この城を攻撃したところ、下は『どうか庄内を最上義光さまのものとなさってください』と言って降参してきましたので、わたくしの配下としました。庄内は座して手に入ることでしょう。このたび討ち取った上杉方の人数は都合3000余りになります」
 
【史料】10月8日付秋田実季宛最上義光書状(横手343) 
又廿六日於中途合戦仕候処ニ、是又得勝利候、少之合戦ニも面々者共許討取候事候、左候へ者、敵陣迷惑なる様躰を見届候而、川西之者共又こなたへかハり返し、庄内之人数を川西へ籠置候処ニ、右之百性等方之二百人、三百人ツヽ討取候而参候事候、廿八日、九日、晦日迄者夜も 少之間も無隙、川西より験共を持参候事候、左候へは敵陣十月朔日ニ敗北仕候間、押懸候而手痛合戦をいたし、馬上許を四百騎余討取候、夫兵共之事者不知其数を候、又谷地と申候所へ庄内之物主ニて候しもと申候者籠居候、是をもうち捨罷逃候間、即ニ谷地ニ追被籠候へ者、彼人数千五百ほとニ而候を、これ又手痛被責候而及降参候、其題目者何とそ仕候而、庄内を取候而くれ候ハんと申候へ共、彼者共不及申ニ候、庄内之義は坐入手裏候間、是又題目ニ無之由申候へ共、色々泣侘候間、先以ふかく不相責、何をも引出、当方ニ然と伺候なさせ候、会津之者共討候事都合三千余ニ候、
 
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慶長出羽合戦7

2024-05-04 01:14:06 |  戦国群雄伝

直江兼続ひきいる上杉勢は10月1日の戦闘で敗北。さらにいったんは服属していた川西(畑谷・梁沢周辺)で農民反乱がおこったため、荒砥まで人数を退かせた。



おなじ時期、庄内方面では10月1日に堀・村上勢が尾浦への攻撃を開始していた。兼続はこの方面への対応もしなければならなくなったのであるが、どうしたのだろうか。


さらに史料を読んでみよう。10月8日、関ヶ原における東軍勝利の情報を得た最上義光は、自身の与力である秋田実季に作戦の指示をあたえた。その書状のなかで、義光は長谷堂合戦の経緯を以下のように説明した。

「道が通れなかったため、六郷を経由して書状を受け取りました。有り難うございます。おっしゃるとおり、上杉勢が攻め込んできて、領内のあちこちが荒らされた状態です。なぜならば、境目を守る諸城は(豊臣政権の命令によって)近年破却しておりましたところへ、とつぜん攻め込まれましたので、諸城はみな攻め落とされてしまったのです。川西(畑谷・梁沢周辺)のものたちは、その主人は山形につめておりましたが、下々の百姓(住民)だけがいるところへ攻め込まれたため、皆々は心ならずも敵陣に加わっておりました。上杉勢は9月12日に畑谷へ進出し、13日に攻め落としたため、そのいきおいで川西全域は上杉勢に制圧されてしまいました。15日には長谷堂へ攻め込んできましたが、長谷堂からも、山形からも迎え撃ち、長谷堂前面での戦いで上杉方のおもだったものを数十騎討ち取りました。そのようにして、味方はいきおいを取り戻しました。16日には長谷堂を包囲されてしまいましたが、こちらも陣をすすめましたところ、上杉勢はすこしひるんだ様子となりました。19日には上杉勢が中山方面から500騎ほどの人数で上山へ攻め込んできましたが、そのときは上山にはこちらから一人も人数を送っていなかったにもかかわらず、上山のものたちだけで、敵300騎を討ち取るはたらきをしました。また、そのような状況であったところへ、伊達政宗からの援軍が到着し、こちらのものたちは下々にいたるまで、いよいよいきおいを得ることとなりました」

【史料】10月8日付秋田実季宛最上義光書状(横手343) より抜粋
通路不自由之処、六郷へ被相伝、預御懇書候、忝義ニ候、如仰之会津より被相動方々取乱候躰ニ候、其故者境目之城々、近年破却之間、俄ニ被相動候故、諸城皆々被責落候つる、然処ニ川西之者共其主々ハ此方ニ相詰候故、下々之百性共之居申候所へ被乗懸候故、不心ニ皆々敵陣へ罷出候つる、然処九月十一日ニはたや表へ罷出、十三日ニはたや被責落候故、其勢を以川西皆々落申候事ニ候、然処ニ十五日ニはせ堂へ乗懸候処ニ、はせ堂よりも罷出、又山形よりも乗合候間、中途一戦をいたし候処ニ会津之宗と之者共数十騎討取候、左候へは軍之色も能罷成候、雖然、十六日ニ者長谷堂へ進陣仕候、左候へ共此方よりも押詰取陣候間、会津之者共も少ひるミたる躰ニ候つる、又十九日ニ中山より上山へ動を申候処ニ、其砌は上山へハ人数一人も不籠置候処、地之者許ニ而、五百騎ニて動候所へ押懸、敵三百余騎討取候、又左様ニ候処ニ、政宗より人数を被立越候間、此方弥下々之者共迄も得力を候事候、
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