わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

業を浄める(中編)

2010-09-14 10:38:55 | 癒し
  (12日の続き)

 肉体というものは業がとっつきやすいかもしれないけれども、

本来の皆さんの心だって本心だって体だってね、痛みとか

業とか把われとか、そういうものが寄りつきっこない体に

なってるんです。

 人間の体というものはそういうもんなんですね。本当の

自分自身に返す為にお浄めするんだということですよね。


 五井先生なんかは、もう私もあなたもないし。私はね、本にも

書いたけれど、色んな人が来ますよ。そして、ひどいのになると、

先生、受験を受からして下さいとかね、色々ありますって。

 そういう人の色んな想いをお浄めする時に、何とお浄めするか、

一つしかない。この人の天命が完うされますようにしか

ないんです。それによってそりゃあ運命修正してゆきますよ。それ

によって叶えられることがある。


 斉藤さんだってさ、巡講した時に、斉藤さんの話を聞いただけで

足の痛みが治りました、入院してたのに退院できました、と

でてくる。

 それで斉藤さんは、何かあの先生が来ると奇跡が来るとか

言われて困ってさ、私にこぼしたことがあるけれども、そういう

ことじゃないんです。本当はね。それは、ちゃんと喜びを

分け与えるんだけれども、そういうことじゃなくって、

斉藤さんなら斉藤さんが、村田さんなら村田さんが、高橋君なら

高橋君がね、無になって、そうして神様の言葉をしゃべってる時に、

本当に自分というものを忘れて、神様だけのおもいで一杯になって

言葉をしゃべっている時に、やっぱり、その人はその人なりに皆

光になるんですね。誰一人として、この人の光が高い、この人の

光が低いというものはないんですよ。

 だから、その時斉藤さんの話を聞いて、村田さんの話を聞いて、

ね、病気が治ったとか痛みが少なくなったとかということになれば、

それはその二人を通して、その一人一人を通して、神様の光が

パァーっと行ったんですよ。そこまで。そういうことなんです。


 例えば、ここから北海道の誰それの為に祈るといっても、離れて

いるからなあーとか想いながらお浄めしたら駄目ですよ。

 想いが入っちゃあ駄目なんです。そういう人間の想いが湧いて

くるのは当然だけれども。

 しかし、神様ってものは、どんなことでも出来る。何でも出来る。

 癒し方は我々の都合とは違うかもわからないけれども、決して

我々を悪くなさらない方でしょ。だから、神様の中に想いを

投げ込んでね、そして、お願いしますといって、叩いたり印を

切ったりしちゃえば、その光というのはすごい光がいきますからね。

 そこを信じることですね。色んな業がありますよ。もう間断なく

来ますね。だけども、その業の数よりも量よりも神様の愛の方が、

何十倍何百倍何千倍深いか分からない。そうでなかったら、

地球だけでなく宇宙ってものはとっくの昔に潰れちゃってね、

人間なんてものもとっくの昔に死んでますよ。死滅している。

 それがこうやって生きてられるというのは、神様の愛というものが

何者にもまして優っているからです。

 ただ物だけの世界だったら、ただ科学だけの世界だったら、

祈りのない世界だったら、もうとっくの昔に色んな所で戦争が

始まって滅んでますよ。


 我々は滅びのない生命へ向う為に祈りをやっている。その滅びの

ない生命というのは、ただ我々だけが助かろうとか、我々だけの

神様であって欲しいとか、愛念であって欲しいとか、そういう

利己を求めての祈りではないわけです。

 我々の本来心というもの、本心の座というものね、そこへ深く

信頼して、それが皆の生命の中に平等にあるということを思って、

そして、その光のおもいを世界中にまくんだ結ぶんだという

信仰でもって、この祈りをずっと続けていった時に、私達のこの

祈りというものは、ただ本当に光になって光明にかけ巡るんです。


 だから、私よりもあの人の方が経験があるからとかね、

そんなことは神様から見たら問題じゃありません。あなた方の魂

というのはだいたい古いんだからね。皆それ相応に古いんですよ。

 誰が特別古いとかいうんじゃなくって皆古いんです。古い魂を

もった人たちが、何十代何百代と生きてきて、五井昌久に

会ったんです。だから、あなた方に印をきれとか何とかという。

 私に出来るだろうかという様なことをいう時というのは、

あなた方がやるんじゃないの。あなた方を通して神様が働くんですよ。

 私に出来っこないとかね。そんなこといってたらいつまでたっても

地上の光明化というのは、狭い範囲でしか出来ていかないんですね。

 そんなことでは駄目なんです。世界平和の祈りというのは、

人間本来の生命に根ざしたエネルギーというものをね、それぞれの

立場の人達の心の中に植えて、そうして、それを引き出して

広がらせる。そういうものすごい力を持っている。

 だから、ピースポールが一本しか立たないとか何とか、そんな

小っぽけなこと考えるなということですよ。ピースポールが一本

立つか立たないかというのは、それはその時の時期の問題ね。

 色んなことがからまってるんです。で、その色んなことが

からまる上に、皆の想いとか思惑(わく)とか、そういうものが

邪魔をしちゃあ駄目なんです。何事も神様がいいようにして下さる。

 だから、そこへ向って、想いを明るく切り変えてね、そうして

精進してゆく。するだけのことはしました。後はお任せしますってね、

ということばがありますよ。あれなんですね。


 イエスの十字架だってそうです。釈迦だってそうですよ。大涅槃に

入ってね、後は、あれはお任せしますなんです。任せるということが

ないことには宗教というものは本当には根づいてゆかない。

 我々を導く生命の根元の神様の大愛というものがあるということを

信頼しないことには、我々の信仰というものは深まって

ゆかないんです。


 何も無理なこととか、あなた方の分相応以上のことを突然

やらせようなんてことは誰も思わない。

               (以下翌日に続く)