わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

光満ちた世界(後篇)

2010-09-17 10:34:18 | 癒し
   (前日の続き)

 で、後の注釈者などは、これは何を言っているのか

よく分からない。非常に混沌として、大魚が出てきたり、

鳳凰が出てきたり、なんだか気宇壮大ではあるけれども、

それ以上何を言おうとしているのか、非常に空想的な物語

であると、たいがいの人がそういうことを申します。


 けれども、人間の智恵とか知識とかいうものでは

推しはかれない程の、深くて大きい、天空そのものさえも

おおいつくしてしまうような、そういう絶対的な愛の存在

というものがございまして、そして、それが、この地上に

生きている私達も、あるいは、地上に這っている

けものたちも、すべての草木たちも、ありとあらゆる

生命の中に息づきを与えているのだということ。そのことを

覚えていただきたいと思うのであります。

 つまり、我々の生命というものは、我々の想いいかんに

関わらず、憂い辛いとか色々なことがございますけれども、

そういうものに関わらず、我々の中で光へ光へと導いていく、

我々を明るい方へ明るい方へと導いてゆく。

 そうしてついに、真実に何ものにも動かされない、不動の

心と私は申しましたけれども、そういう不動の心に導かれて、

そうして、光そのもの、光一妙の世界へ連れていって下さる。

 そういうことなんです。そして、それは遠くにあるのでは

ない。



 神様というのは、あなた方がお呼びになれば、あなた方の

すぐそばへ来て下さる。守護の神霊たちは、お呼びになれば

すぐ来て下さる。そして、寄り添って下さる。目には

見えないかもわからない。けれども、祈りの中に神様を

呼べば、あるいは、五井先生を呼んでもですね、すぐ

あなた方のそばに行ってあなた方を守り、あなた方を支えて、

そうして、光へ光へ、明るい方へ明るい方へ導いてゆく。

 で、ここを根幹といたしませんことには、闇と見えるものを

闇と見まちがえてしまいます。思いまちがって、憂い辛い

世の中のこの表面の現象面のことだけに把われてしまって、

自分も憂い辛いそのうずに巻き込まれてしまいます。

 けれども、本当に強いやさしい真実の光の世界というものは、

そういうものにのみ込まれないものであります。そういう

ものに引きずられないものであります。

 あるいは、そういうものを労わり溶かし、そうして、人間の

色々な苦というものを包み込みながら、さらに深い大きな

神様の愛へと導いてゆくもんであります。で、ここをやはり

覚えていただきませんことには。

 
 例えば、色々な問題が・・・。皆様方の集会や支部や、

あるいは、全国を巡講なさる場合に、色々な問題が皆様方の

ところへ山積みのようにくると思います。

 その時に、こんな大きな問題は今まで私は経験したことが

ない。そんなことは私の手にあまる。そういう想いに皆

把われると思います。それは把われて当然でございます。


 けれども、事の本質は、本当に大事なつかまなければ

ならないことは、色々な起ってきている現象というものは

二つあって、一つは、今私が申しました、皆様のそれぞれの

想いによってつくられていく世界が現象になっていく。

 前にも申しました様に、天変地異というものは、皆様の

業想念というものが、ある時ある一定の限度を越えて破れて、

そして、又、ある調和を取り戻そうとする時に、大水に

なったり、大地震になったり、この世の中には不幸と見える

事柄でもって大調和へ還ろうとする時の運動であります。

 その元の元の元を正してゆくと、我々自身の恐怖である

とか色々な不安であるとか、明日の生活への恐れであるとか

悲しみであるとか、大丈夫だろうかという心であるとか、

そういうものが一人二人の間は何でもございませんけれども、

まだ小さいものですけれども、何百人何千人何万人何億という

人のその想いが積み重なった時に、うっと爆発をしまして、

それがどっと大洪水になり、あるいは、地震になり、大火事

になり、あるいは、今、南極の氷が解けているとか、

そういう現象になっている。あれは決してフロンガスだけの

問題ではありません。あれは業のそういう積み重なりも

ございます。


 そういう想いの世界からつくられている場合と、それから、

守護の神霊がわざと置くつまずきの石、修行への為の石

という場合と両方ございます。これは非常に難しいもので

ございまして、これを見分けるということは、とても

人間わざではなかなか出来ません。


 その時に何が一番大事になってくるか。色々な問題を

皆様がお聞きになる時に、あるいは、どうしても

持ち込まれた時に、判断をあおられた時に、何を基準に

してそれに答えてゆくか、浄めてゆくか祈ってゆくか

というか、これは、神様の御心というものをやはり

大基盤においてしていただかないことには、やはり道を

まちがってしまうことになるのであります。


 例えて申しますと、私の手にあまる位の苦であっても、

神様の側から見れば、この人のこの時点での修行の為に

置かれたつまずきの石、つまずきの石ではあるけれども、

さらにこの人の光が輝いて、そうして、この人の人生が

深くなって、ついに天命に全くとけ入ってしまう。

 そういう導きの為のつまずきの石ということが

ございます。


 そこで、ただとに角、それを見分ける。あるいは、

そういう深い智恵の言葉を出させていただく。そこへ

いきます為には、とに角お任せするんだ、私がその時に

判断をしてしまうと非常な苦になります。

 例えば、どちらへ行った方がいいでしょうか。右へ

行った方がいいでしょうか、左へ行った方がいいでしょうか、

というような質問。

 進学のことにしても就職のことにしても、あるいは、

思うようにならない人生という風なことにしても、色々な

ことが持ち込まれて、そして、自分の一言でその人の人生が

ある程度、方向方針が決まってしまうというような場合に、

自分の言葉でもってという風に思ってしまいますと、責任も

重くなりますし、とても引き受けられるものではございません。


 そうではなくて、そういう色々なことというのは、現象から

来ている場合もあります。つまり、想いの世界からそれが起って

くる場合も、つまずきの石の場合も両方ございますけれども、

しかし、いずれにしても、それが神様の御心によって、

いただき直しの生命をさらに深くいただく為のものであるという

信仰の上に立って、そうして任せきってですね、印をきり、

あるいは、祈っていただき統一をしていただき柏手を打って

いただきますと、おのずから深いところからの言葉

というものが、守護の神霊によって支えられて、皆様方の

唇からその言葉が出てまいります。


 このことは一朝一夕に出来ることではございませんので、

大変だと思ってしまうとこれはえらいことなので、そんなことは

思う必要はありません。

 つまり、おろおろする自分も、頼りないと思う自分も、

色々な自分があってよろしい訳です。その一つ一つの自分

というものをしりぞけるのではなく、いとおしんで、

ああこういう自分があるんだなあということを見つめて、

そうしてその上で、あなた方なりにあなた方の立場で、無理を

せずに背伸びをせずに、その信仰を深めていっていただきたい。


 ただ、物事の本質と申しますか、神様の本心といいますか、

本体と申しますか、そういう一番はずしてはならない御心の

深いところというのは、先程から申しておりますような

ところにございます。

 ですから、ここのところだけは、データーをまちがえて

頭のすみにおいてしまいますと、とんでもない苦になりますので、

そこのところだけをやはり自分の肝に銘じて、そして、祈って、

出来ることはできる、出来ないことはできない、出来ないところは

助けていただこう、つまり、他力と自力を融合させて、そうして、

皆がそういう難しいことばかりではなしに、私も光の国の住人

ならばあなたも光の国の住人なのだというつもりで暮していって

いただいたら、随分とこの世の中は平和になっていくと思いますし、

光明波動というものは益々広がってまいることであると存じます。