神の愛念についてということでありますが、いつも申して
おりますように、神様の愛念というものは、これは絶える
ことなく、ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。
そして、神様の愛念というものは、我々人間のこの肉体や
想いや、我だとか何だとか、余分なものが色々くっついては
いるけれども、しかし、その中を貫いて流れている。
つまり、神様の愛念というものは、離れて何か遠くにある
ものではなくて、自分の中に絶えず息づいている。生命
そのものなんだということをまずここで覚えておかないと、
我々は大変な間違いをすることになってゆく。
今、何でもって生きていったらいいか分からないという
ような生きにくい世の中ですよね。不安がある、色んな
ことが起ってくる。
事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに天候が
不順じゃあとか言ってるけれども、実際に毎日毎日、今も
どこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に打たれて死ぬ人だって
ある。雨に流されて家がどっかへいっちゃう人もある。
つぶれて下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう
人がある。そういう不浄の世の中というもの、これを
見ていると、何を頼りにして何をよりどころにして生きて
いったらいいか分からないという不安がつきあげてくる。と
いうのがこの世の中の本当のところであります。
で、そういうところをふまえて、私は何を申し上げるか
というと、我々というものは、、常に神様の愛によって
生きているのであるということ。これを忘れてしまっては
困るんです。ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、それが何で神様の
愛なんだと、肉体をもつ人間は思うけれども、しかし、
神様の愛というのはね、あなた方一人一人の天命を抱き
とって、この世だけじゃなくてずっと深い天命を愛して、
そうして、もちろん、あなた方という一人一人を愛して、
そこを見つめての光をむこうから流し続けていらっしゃる。
その愛なんですね。だから、個人の小さな喜びも
ささやかな喜びも、良かったねといってむこうから光を
送って下さるけれども、しかし、一人の人間の生き死にが
問題ではないというところに神様の愛というものが
あるんです。
こう言うと、非常に無情のように思うけれどもね、
そうじゃない。つまり、本当に人間の姿、そして、神様の
愛というものを知って行く時には、肉体の死とか、
いくつで死んだとか、若くて死んでしまってかわいそうだ
とか、そういうことというのは何となく問題にならなく
なってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを今見てますでしょ。
そうしますと、本当にこっちもむこうもないんですよね。
むこうの世界もこっちの世界も、ずうっと連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という目でもって
みているから、あっちの世界が見えてこないだけで。
しかし、そういう把われも何もかも捨ててしまってね、
祈り一念、世界平和の祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。その教義を唱えると
いうことはどういうことかというと、つまり、無になって、
自分もなく人もなく、自分が祈るということも忘れて、その
大きな流れの中へ入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分がここにいるという
ことも忘れて、ただ、祈りの光と一緒になっていく。
そういうものなんですね。本来そういうものなんです。
それは、どんな赤ん坊であっても子供であっても、あるいは、
老人であっても、神様を知らないと思っている様な人で
あっても、あれは無神論者だと皆が非難するような人で
あってもね、そのスイッチというものはもってるんです。
いつも申しますように、信仰というのは、例えば、
キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいはお寺に行って、
神様とか仏様に祈って、その祈る姿だけが信仰じゃない。
芸術家は芸術家で、音楽家は音楽家で、大工さんは
大工さんで、一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、
無になって一つのことを成し遂げる。その中に神様が
いらっしゃる。その中で神様が働くんです。
自分をなくした時に神様というものが現われてくる。愛念
というものは現われてくる。その愛念というものが現出して、
そうして、本当に今度は神様の愛に洗われる。
我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬新しく
なってゆくんですね。そういうことが本当は生きる
ということなんです。
そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり毎日死んでゆく
人がある、重病の床にふしてる人がある、事故にあって
困ってる人がある、そういう悲しみというのはどうなるんです
かと、皆思うでしょうねえ。確かにそれはそうなんですよ。
私だって、愛弟子を何人も失くしたり、大けがをして入院
させたり、ありますよ、この世の中にいた時にはね。
だけども、心配してるけれども心配しないんだよ。高橋君に
答えたことがあるけれども、分かるかね、やっぱり心配してる
けれども心配しないんです。
心配してるというのは、この肉体の人間の気持ちと
いうものを味わってしまうと、確かに心配なんです。オロオロ
しますよ。どうなるだろう。手術が必要ならば早く手術が
成功してと思います。それは人間の情というものなんです。
自然なんです。そこでオロオロしたり、弱くなったり、
神様がいるんだろうかと思ったり、そういうことは私は否定
しませんよ。私はそういう気持ちを通り抜けてきてるんだから。
だけども、そこを通り抜けたところで、神様というものは、
もう一つ深いところでね、人間を抱きとって、そうして、
その人の天命が真っすぐに明るく神様に向って貫いて行ける
ように、守護霊とか守護神が道を備えてね、そして、
あなた達がこの世に生きていく糧も、肉体を養ってゆくべき
色々なものも、悲しみも辛さもいつの間にか癒していくように、
道をつけてゆく訳ですね。そこへの信仰というものが、
我々にとって一番大事になっていく訳です。
ところが、やっぱり人間というのは弱いでしょう。
斉藤さんが、おれがおれがというそのがを取ってと
書いたでしょ。そのが(我)を取ってというけども、なかなか
我というものはなくならないんですよ。
(以下翌日に続く)
おりますように、神様の愛念というものは、これは絶える
ことなく、ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。
そして、神様の愛念というものは、我々人間のこの肉体や
想いや、我だとか何だとか、余分なものが色々くっついては
いるけれども、しかし、その中を貫いて流れている。
つまり、神様の愛念というものは、離れて何か遠くにある
ものではなくて、自分の中に絶えず息づいている。生命
そのものなんだということをまずここで覚えておかないと、
我々は大変な間違いをすることになってゆく。
今、何でもって生きていったらいいか分からないという
ような生きにくい世の中ですよね。不安がある、色んな
ことが起ってくる。
事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに天候が
不順じゃあとか言ってるけれども、実際に毎日毎日、今も
どこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に打たれて死ぬ人だって
ある。雨に流されて家がどっかへいっちゃう人もある。
つぶれて下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう
人がある。そういう不浄の世の中というもの、これを
見ていると、何を頼りにして何をよりどころにして生きて
いったらいいか分からないという不安がつきあげてくる。と
いうのがこの世の中の本当のところであります。
で、そういうところをふまえて、私は何を申し上げるか
というと、我々というものは、、常に神様の愛によって
生きているのであるということ。これを忘れてしまっては
困るんです。ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、それが何で神様の
愛なんだと、肉体をもつ人間は思うけれども、しかし、
神様の愛というのはね、あなた方一人一人の天命を抱き
とって、この世だけじゃなくてずっと深い天命を愛して、
そうして、もちろん、あなた方という一人一人を愛して、
そこを見つめての光をむこうから流し続けていらっしゃる。
その愛なんですね。だから、個人の小さな喜びも
ささやかな喜びも、良かったねといってむこうから光を
送って下さるけれども、しかし、一人の人間の生き死にが
問題ではないというところに神様の愛というものが
あるんです。
こう言うと、非常に無情のように思うけれどもね、
そうじゃない。つまり、本当に人間の姿、そして、神様の
愛というものを知って行く時には、肉体の死とか、
いくつで死んだとか、若くて死んでしまってかわいそうだ
とか、そういうことというのは何となく問題にならなく
なってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを今見てますでしょ。
そうしますと、本当にこっちもむこうもないんですよね。
むこうの世界もこっちの世界も、ずうっと連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という目でもって
みているから、あっちの世界が見えてこないだけで。
しかし、そういう把われも何もかも捨ててしまってね、
祈り一念、世界平和の祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。その教義を唱えると
いうことはどういうことかというと、つまり、無になって、
自分もなく人もなく、自分が祈るということも忘れて、その
大きな流れの中へ入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分がここにいるという
ことも忘れて、ただ、祈りの光と一緒になっていく。
そういうものなんですね。本来そういうものなんです。
それは、どんな赤ん坊であっても子供であっても、あるいは、
老人であっても、神様を知らないと思っている様な人で
あっても、あれは無神論者だと皆が非難するような人で
あってもね、そのスイッチというものはもってるんです。
いつも申しますように、信仰というのは、例えば、
キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいはお寺に行って、
神様とか仏様に祈って、その祈る姿だけが信仰じゃない。
芸術家は芸術家で、音楽家は音楽家で、大工さんは
大工さんで、一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、
無になって一つのことを成し遂げる。その中に神様が
いらっしゃる。その中で神様が働くんです。
自分をなくした時に神様というものが現われてくる。愛念
というものは現われてくる。その愛念というものが現出して、
そうして、本当に今度は神様の愛に洗われる。
我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬新しく
なってゆくんですね。そういうことが本当は生きる
ということなんです。
そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり毎日死んでゆく
人がある、重病の床にふしてる人がある、事故にあって
困ってる人がある、そういう悲しみというのはどうなるんです
かと、皆思うでしょうねえ。確かにそれはそうなんですよ。
私だって、愛弟子を何人も失くしたり、大けがをして入院
させたり、ありますよ、この世の中にいた時にはね。
だけども、心配してるけれども心配しないんだよ。高橋君に
答えたことがあるけれども、分かるかね、やっぱり心配してる
けれども心配しないんです。
心配してるというのは、この肉体の人間の気持ちと
いうものを味わってしまうと、確かに心配なんです。オロオロ
しますよ。どうなるだろう。手術が必要ならば早く手術が
成功してと思います。それは人間の情というものなんです。
自然なんです。そこでオロオロしたり、弱くなったり、
神様がいるんだろうかと思ったり、そういうことは私は否定
しませんよ。私はそういう気持ちを通り抜けてきてるんだから。
だけども、そこを通り抜けたところで、神様というものは、
もう一つ深いところでね、人間を抱きとって、そうして、
その人の天命が真っすぐに明るく神様に向って貫いて行ける
ように、守護霊とか守護神が道を備えてね、そして、
あなた達がこの世に生きていく糧も、肉体を養ってゆくべき
色々なものも、悲しみも辛さもいつの間にか癒していくように、
道をつけてゆく訳ですね。そこへの信仰というものが、
我々にとって一番大事になっていく訳です。
ところが、やっぱり人間というのは弱いでしょう。
斉藤さんが、おれがおれがというそのがを取ってと
書いたでしょ。そのが(我)を取ってというけども、なかなか
我というものはなくならないんですよ。
(以下翌日に続く)