わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

言葉を超えた心

2010-09-26 12:14:49 | 癒し
 言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、人間には

沢山あります。

 よく、あの人は論客だという言葉を耳にします。たしかに

雄弁な人の言葉は、ちょっときくと耳にさわやかなものです。


 しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた思想や哲学でも、

たとえば、人間やいのちというものを突きつめてゆくと、

どうしても答えが出てこなくなってしまうのです。


 なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、人間の存在

というものを科学的に説明しょうとするからであって、究極

まで参りますと、おのずから言葉にならない世界に突きあたる

のであります。


 そこで、ここからが宗教の領域ということになるので

ありますが、シュヴァイツァーが、生命への畏敬といったあの

言葉は、科学者として、また、一人の人間として、実に真理の

的を得た言葉だと思うのであります。

 
 人が、科学の究極まで人間というもの、いのちというものを、

それぞれの分野で追いつめたその時に、生れるものは、畏れを

もった沈黙でありますが、生命の畏敬という彼の言葉は、この

沈黙の前に、人間が発した尊い言葉であると思うのであります。


 ところで、ここまでのことではなくても、人間には、いわく

いいがたい思いというものがありまして、それは言葉では

表わせないということがいくらもあるのであります。

 目は口程に物をいうということは、我々が日常に経験して

いることであります。こういうときには、我々は、言葉よりも、

直接に、相手の心にじかに、自分の心をぶつけてゆくことに

なるのです。

 無言であっても、その無言であることが、百万言をついやす

よりも、その人の心をあらわしているということです。


 私ども、宗教にたずさわります者は、こうした心、言葉を

超えた人間の心というものに敏感でなければなりません。


 心というものを言葉でおおうことは出来ません。言葉を心で

おおうことを、むしろ、私達は心がけるべきであります。


 そして、自分の心と、人の心を大事にして、ともに祈りの

座につきながら、愛という人間の言葉を超えた神の心に、

すなおに溶け込んで参りましょう。

                   五井 昌久